教皇庁生命アカデミーの第30回年次総会:ヘンク・テン・ハーフ「世界の終わり? 教育的パースペクティブ」― Henk ten Have, The end of the world? The educational perspective

本稿は、教皇庁生命アカデミーの第30回年次総会(2025年3月3-5日、ローマ)2日目に行われたテン・ハーフ教授(オランダ人医師)の講演の全訳です。 テン・ハーフ教授は、カトリック生命倫理のグローバル化を図る教皇フランシ […]

本稿は、教皇庁生命アカデミーの第30回年次総会(2025年3月3-5日、ローマ)2日目に行われたテン・ハーフ教授(オランダ人医師)の講演の全訳です。

テン・ハーフ教授は、カトリック生命倫理のグローバル化を図る教皇フランシスコの路線をサポートする生命アカデミーのキーパーソンであり、本稿には、現在のバチカンの取り組みの最前線が簡潔にまとめられています。

翻訳:秋葉悦子氏―富山大学教授、教皇庁生命アカデミー正会員
原文:Henk ten Have, The end of the world? The educational perspective


ヘンク・テン・ハーフ「世界の終わり? 教育的パースペクティブ」
Henk ten Have, The end of the world? The educational perspective

生命アカデミー第30回年次大会(2025年3月3-5日、ローマ)
『世界の終わり? 危機、責任、希望』
Pontifical Academy for Life,XXX General Assembly, March 3-5, 2025, Rome.
“The End of the World? Crisis, Responsibilities, Hopes”

要約
 気候変動、政治的分断、民主主義の失敗、無能な政策、経済の退行、戦争と暴力の黙示録(終末論)的視界(views)に直面して、人類の未来についてのパースペクティブ(展望)が消失する傾向にある。これはまず最初に、そして主により若い世代に影響を及ぼすことになる。したがって教育の役割が際立つ。しかし世界の終わりの可能性についての運命論的で悲観的な視界を、教育だけで補修することはできない。重要なのは「何が」教えられるのか、そして「どのように」教育が進められるのかである。第一に、教育は未来に焦点を合わせるだけでなく、過去(あらゆる文明の歴史において衰退と崩壊の観念が循環してきたことを示している)を思い起こし、その上で現在(黙示録的観念は一様のものではなく、社会・経済状況、文化、宗教に依拠していることを示している)を分析すべきである。第二に、未来に焦点を合わせることは、黙示録的視界に対して少なくとも三つの応答の輪郭を描く。あきらめ(崩壊と衰退が回避されうるという考えを断念する)、抵抗(科学または社会・遺伝工学によって退化を除去し、刷新を生産する努力)、再評価(諸々の基本的価値を評価しなおし、それらの価値を切り下げるのではなく、上方に向けて調整する)。
 この最後の応答は、よりよい状態への変化は可能であるという希望に鼓舞された永続的で漸次的な変容を目指す。実際に、これこそが1970年代にバイオエシックスという新しい学科目が発進された基本的な動機だった。人類絶滅の可能性を避けるために、あらゆる種類の知恵を活用して地球規模の脅威に対抗し生き残りを確かなものにしなければならない。しかし鼓舞する(inspirationalインスピレーションを与える)ためには、バイオエシックスの議論はより批判的で預言的(prophetic)〔訳註1〕でなければならない。ものごとは改善することができ、私たちはよりよい対応をなしうるという希望を鼓舞しなければならない。

Ⅰ.黙示録的視界

 (1)世界10か国における1万人の子供と青年(16~25歳)を対象にした世界調査の報告によると、75%が未来は恐ろしいものであり、56%は人類社会(humanity)の運命は尽きたと感じている。いくつかの国では、そのパーセンテージはいっそう高い。ブラジル、ポルトガル、インドではこの調査に参加した80%以上が未来は恐ろしいという声明に賛同している。インドとフィリピンでは、生き残った子供と青年のそれぞれ74%と73%が人類社会の運命は尽きたと感じている*1 。未来はないという感覚(feeling)は、すべての国において、政府は適切な対応に失敗し、未来世代に配慮しているようには見えないから、自分たちは裏切られ見捨てられたという感覚を伴っている。世界中で多くの人々が気候変動についての不安を経験している。彼らは来たるべき時について悲観的である。それはまだ前方に未来がある若い人々にとって、特に苦痛である。

 (2)黙示録的な視覚(vision)、および不定愁訴や不安の感情が今日増幅しているように見える。人々は桁はずれた諸問題に直面しているからである。課題は単純に、一国のみで取り組むには、まして個人で取り組むには巨大すぎる地球規模のものだ、という一般的な感覚がある。個別の機関は役立たないように見えるから、人間は黙示録的な脅威に対して無力だと感じる。運命と陰鬱の黙示録的感覚は、課題のマグニチュード(重大性)に関係するだけでなく、上述の調査が示すように、適切な応答を法制化する(enact)ことの失敗にも関係する。政府と国際組織は本格的な対応を引き受けなかった。諸問題を改善する彼らの政策執行力の弱さを容認する場合にも、あるいはいくつかの場所や国で実現されているのみでグローバル・レベルでない場合にも、気候の悪化は継続し、パンデミックのリスクは減少せず、破壊的な戦争が続き、AIの開発は規制されない。
 黙示録的シナリオは様々な仕方で脅威を与える。
 ① 核戦争は人間だけでなく、彼らが生きる世界をも破壊し、地球上の生存を耐えがたいものにする可能性があるが、それは人間の決定の結果としての時間と場所に配置される破局的な出来事である。
 ② パンデミックの黙示録は、彼らが生きる世界を破壊することはないし、人間の活動にあまり明確に関連づけられない局所的な出来事でもあるが、何よりもまず人間(そしておそらく他の生きもの)を荒廃させる。
 ③ AIの黙示録は、人間をより知的な機械によってコントロールされる主体に還元することで、人間にとって災難の多いものになるが、惑星を破壊することはないだろう。それ〔惑星の破壊〕は、たとえ最終的には人間の決定によって生み出されるとしても、明確な出来事の帰結というよりも、むしろ漸次的なプロセスの帰結だろう。
 ④ 気候の黙示録は別の秩序に属するもののように見える。それは時間的、場所的に配置される出来事ではなく、地球を居住不可能なものにする、生きる世界の不可逆的な変容である。心身に有害な効果は、少なくとも最初のうちは容易に気づくことはできないが、次第に否定できないものになる。しかしそのとき、破局的悪化のプロセスはもはや逆転できない。人間の決定が過去においてこのプロセスにどのようにインパクトを与えたかを認識するには時間がかかり、現実の決定が果たしてどのようにして何らかの救済をもたらしうるかは、非常に長い時を経た後でなければ確定できない。
 それゆえ、最後の審判の日(doomsday世の終わりの日)のシナリオは、『ラウダート・シ』で論じられているように、真剣に受け止められるべきである。「現在の世界システムは、多くの視点から、確実に持続不可能である・・・」。それゆえ、「最後の審判の日の予言は、もはや皮肉や軽蔑に遭遇することはない」*2リスクは、破壊された住むことのできない世界を私たちが未来世代に残して死ぬことである

Ⅱ.黙示録的視界に関する教育の役割

 大抵の社会では、教育は変化への重要な力とみなされている。世界の終わりの可能性についての運命論的で悲観的な視界を改善しニュアンス(微妙な陰影)を付するためには、何を教えるか、またどのように教えるかを考えることが肝要になる。本稿で私が論じたいのは、教育は未来に焦点を合わせるだけでなく、過去(あらゆる文明の歴史において衰退と崩壊の観念が循環してきたことを示している)を思い起こし、現在(黙示録的観念は一様のものではなく、社会・経済状況、文化、宗教に依拠していることを示している)を分析すべきことである。次に、未来に焦点を合わせることである。そのためには黙示録的視界に対して一般に流布している以下の応答(a~d)を批判的に検討する必要がある。(a)拒否(未来を危険にさらすような深刻な問題があることを否定する)、(b)あきらめ(崩壊と衰退は回避できるという考えを断念する)、(c)抵抗(科学または社会・遺伝工学によって退歩(degeneration)を除去し刷新を生み出す努力をする)、(d)再評価(根本的な諸価値を評価しなおし、それらの価値を減ずるよりもむしろ上方に向けて調整する)。

 1.一定の距離をとること:過去を分析する
 黙示録的視界はしばしば、今日の諸課題は難治性で処置しにくいという信念を伴う。この信念は逆説的に、危機の話題によって増強される。すなわち、諸課題は緊急の行動を要請する実存的な脅威として分類される。諸課題が真にコントロール不能な災害に至る先端点と形態に到達する前に、行動できる時間はほとんど残されていない。かかる覚醒の警告が無視され、有効な介入がなされないとき、切迫した黙示録と無力の感覚のみがさらに増大する。しかし過去の経験についての熟考は、不安を和らげ、人間の回復力と文明の適応能力のよりニュアンスに富んだポジティブな査定を提供することができる。文明の切迫した崩壊と世界の終わりを予言する長い歴史がある*3 。運命と陰鬱はギボン(1776)、ド・ゴビノー(1853-1855)、ノルダウ(1892)、シュペングラー(1918-1922)そしてトインビー(1934)の著名な作品において予告されたが、それぞれのケースにおいて予言は実現しなかった。諸々の文化と文明は変容してきたが絶滅はしなかった。それゆえ、過去は失敗の長い歴史ではなく、人類はグローバルな(地球規模の)災害の克服を提示してきたと言える。以前のパンデミック(疫病とコレラ)の例が示すように、そしてある場合にはグローバルな脅威(たとえば天然痘)の根絶さえ提示してきた。しかしこれは、黙示録的視界は実体がない、あるいは単に人を恐れさせるものにすぎない、と結論づける論拠ではない。黙示録は世界の現状に対する不満を暴露し、今日の社会と文化に対する批判的な熟考を余儀なくさせる。この批判的分析は『ラウダート・シ』において提供された。この中でフランシスコ教皇は「使い捨ての文化」、「過度の人間中心主義」、「兄弟愛の感覚」の欠如、そして「支配的な技術主義的パラダイム」のような定式的表現(formulation)を用いている。しかし彼の結論は悲観的ではない。「私たちはものごとが変化しうることを知っている」*4

 2.黙示録的視界への反応を検討する:現在を分析する
 私たちが知るとおり、世界は終わることになり、未来の展望(パースペクティブ)を覆い隠す諸々の過程や課題は手に負えない、という観念を継続的に明確に表現すること、それは拒否、あきらめ、抵抗を多様な他の応答へと転じる。

 (a)拒否
 気候変動を深刻な脅威として信じない有力な少数者もいる。彼らはその現象に関する科学的証拠を拒否し、それが人間の振る舞いによって引き起こされることを否定する*5 。問題は誇張されており、脅威は科学者や主流メディアが想定するほど深刻ではないと考える者もいる。
 ① ある議論(argument)は政治的である。この議論によると、黙示録の論説(discourse)は、権威主義的で直線的・決定論的な歴史観を含意するから危険である。未来は確定されており、人間の選択は限られている。未来は開かれておらず変更できないから、この論説は運命論と受動性(passivity忍耐)へと導き、現時点における討論、多元論、意見の相違の土台を削り取る*6
 ② 黙示録主義に反対する別の議論は歴史的である。それは、人類は継続的に大小の破局(catastrophe)に直面してきたが、つねに生き残ってきたことを強調する。黙示録的視界は不必要に心配性的であり、それゆえ、諸々の脅威と課題にうまく対処する能力を麻痺させる傾向がある。この議論は二つの側面をもつ。一方で、今日の諸問題が誇張され、それが人類と地球の生き残りをかえって危うくすることを問題視する。この議論によると、事態はそれほど悪くはない。他方で、人間は時宜にかなった解決と応答を断固として見出し、その資源も豊富であることを信じる。
 ③ 黙示録のシナリオを拒否する第三の論説は、科学技術に言及する。それは二つの側面を持つ。第一の側面は、今日の課題は新しいものではないことを論じ、第二の側面は、科学技術的知識は非常に多くの過去の課題を解決、縮減してきたのであり、再びそれができると論ずる*7

 (b)あきらめ
 ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアは黙示録的視界への別の応答を描く。自分の傷つきやすさ(vulnerability弱さ)と生存の恐怖を認めつつ、彼は節制(abstinence精進)の芸術を完成することを決意した。「私はあらゆることを断ち、無へと前進し、行動を最低限に縮減することを決心した・・・」*8 。彼は未来への信頼や希望を持たず、世界とその進路に対する無関心の態度を錬磨する。この応答は、私たちは必然を受け入れなければならないことを明確に表現する。黙示録が近づいていることを拒否するのは無意味であり、抵抗を申し出るのは無益である。私たちがなしうる最善は、ニヒリズムと無関心の立場を決め込むことである。
 あきらめの応答にはいくつかのバージョンがある。
 ① 一つは黙示録の伝統的概念に基礎を置く。すなわち、全滅の後に新しい始まりが続く。このパースペクティブにおいては、破壊(destruction)が必要である。たとえ絶滅(extinction)までの時間が恐るべきものであっても、もし私たちがそれに耐えるなら、刷新の希望があることになる。この応答は、宗教的および世俗的な千年至福説の動向において表明されてきた。それは、現在の堕落した世界の全体的な破壊は新しい世界秩序を構築するために不可欠であることを強調する*9
 ② あきらめの応答のもう一つのバージョンは、人間の行為は無益であることを指摘する。黙示録は妨げることができ、とりわけ気候は管理され支配されうる、という信念は幻想である。何よりもまず、破局は一般に、不連続的な人間の介入や決定の結果ではなく、時間をかけて徐々に発展する、底流にあるプロセスの帰結である。第二に、破局を妨げ、または和らげることができるメカニズムや制度は存在しない。それは境界を横断する協力とグローバルな(地球規模での)集団的活動――それは非常に多くの国における国家主義的アプローチによって、現時点ではますます見込みがなく、後退を余儀なくされている――を要求することになる。
 ③ 第三のバージョンは、人々は少なくともある程度まで、一つのことをなしうることを明確に表現する。すなわち、地球の人口を徹底的に減少させることである。世界が終わりに向かって進んでいることを受け入れるなら、未来はないのだから、子どもを生むことは道徳に反することになる。このパースペクティブにおいては、人類の消滅は重大な損失ではない。新たに生まれてくる人がいなくなれば、自然環境の開発と悪化は止まることになる*10
 ④ この最期の視界は、あきらめの応答の最終バージョンと関連する。それは、黙示録的背景から彼ら自身を切り離すことはできないと議論する。なぜなら彼らはその一部であり、何らかの変化をもたらす力を持たないからである。すでに新人類(Antholopocene)の新しい時代が始まっており、人々はそのプロセスと帰結を被っている。彼らはすでに第6絶滅期の過程にある。このバージョンは、ミシェル・フーコーの著名な本の最後の文に定式化されたアンチ・ヒューマニズム〔訳註2〕哲学の表現である。「・・・人は消去されるだろう。海岸の砂に描かれた顔のように」*11 。この視界においては、啓蒙思想のプロジェクト(事業計画)としてのヒューマニズムは当然否定されるべきである。人間性(human nature人の自然本性)、ヒューマニティ、合理性、行動力、責任等の伝統的な人文学的概念は、人間特有の知識の形成と配列、および自己理解の仕方――人間を、周囲の世界を対象化し、コントロールし、服従させるために組織化する絶対君主のような至高の主体とみなす――を反映する。認識論的なプロジェクトとして、知識の基盤が人間の本質的特性にあることを想定するヒューマニズムは、終焉を迎えている。

 (c)抵抗
 切迫した黙示録を拒否または受容するのではなく、第三の応答は、最後の審判の日(世の終わりの日)のシナリオは阻止できる、あるいは即時の持続的な対応によって、少なくとも遅らせるか、あまり悪くないものにできることを心に思い描く。
 ① 欧州でよく知られているのは、絶滅反対運動(Extinction Rebellion:XR)である。そのねらいは、非暴力の市民的不服従(civil disobedience〔納税拒否などの非暴力行為により政府や法律に反抗すること〕)によって、政府に対応を強いることである。活動家たちは未来世代を心配して、今、活動する道徳的義務を感じており、世界を救うために法律を破る覚悟ができている*12
 ② もう一つの抵抗の形態は、よりポジティブなパースペクティブから前進する。黙示録の見解は、それ自体がある意味で抵抗の表現である。それは、抑圧と不正義の実践を伴う今日の文明への深い不満と根本的批判の世界観の内部に立ち現れる。黙示録的論説は、下り坂の原因――資本主義、新自由主義、グローバリゼーション、民族の退歩、進歩の神話、あるいは自由階級(liberal state)のような――を同定し、分析し、査定するよう促す。運命という観念は歓迎されるべきである。新しい、正しい、自由な世界の始まりの可能性があるからである。世界の終わりは単にこの世界の終わりにすぎず、時間や歴史の終わりではない。人類の全滅ではなく、ある特定の生き方の全滅にすぎない。たとえばヘルベルト・マルクーゼは、物質的富裕を原因とする西洋文明の終焉を予言した。黙示録的な地球規模の脅威――それはマルクーゼの時代には核戦争や技術的破局のリスクのようなものだったが、私たちの時代には環境破壊やAIによる黙示録のリスクのようなものになった――のルーツは、人間の行動ではなく、自然の冷酷な開発と技術の無思慮な適用を伴う、人間が生きるシステムである。それでもなお、未来はよりよいものでありうる。マルクーゼによる現在の批判的診断は、現在の世界と社会に反抗して自由、価値、希望、そして抱負を持つ人間主体の実存を前提としていた*13
 ③ 抵抗の別の形態は、黙示録的視界それ自体に反対する合理的な楽観主義である。ここでは黙示録的視界は拒否されない。黙示録的視界は、人類の未来を脅かす危険の可能性についての現実的な懸念とみなされるが、私たちは今日の状況と潜在的な黙示録的風潮に影響を及ぼす可能性について、より楽観的でありうる。運命のシナリオは否定されず、真摯に受け止められる。同時に、それらは事実に基づくデータと歴史的動向のパースペクティブにおいて分析されるから、相対化され、微妙な陰影(ニュアンス)を付されることになる*14

 (d)再評価
 黙示録という観念は私たちを動揺させる。それは、私たちが知っている世界の没落を予言するからだが、それ以上に私たちが抱いている諸価値や、実現しないか、あるいはひどく腐敗することもない道徳的理想が失われるからである。もし黙示録が最終的な終わりではなく、新しい始まりへの移行期であることが想定されるのであれば、今日の諸々の価値や理想は確かに失われる。それらは、新しい始まりを可能にするために失われる必要がある。しかしよりよい世界を構築する道具として、それに代わる新しい価値や理想がイメージされ、明確に表現される必要がある。
 黙示録的視界は、道徳的査定を伴う。それは、今日の人間の苦境、致死的で宿命的な傷つきやすさの表出によって、何が悪いのかについての批判的で不吉な診断を提示する。したがってそれは、私たちの時代の悪と欠陥の道徳的目録のようなものである。さらに黙示録的視界の応答は、特有の倫理的スタンスを含意していることも明白である。
 (a) 拒否〔の応答〕は、今日の人間の福祉が最重要であり、未来世代の懸念は取るに足りないことを想定する。(b) あきらめ〔の応答〕は、人間の媒介〔作用〕に価値を認めない。今日の世界秩序の根本的な弱さは修正できないからである。人間中心主義、ヒューマニズム、そして科学の進歩への信仰は、人々を欺くものであって役に立たないことになる。(c) 抵抗の応答の倫理的土台は、より明確である。それは集団的活動の価値、万一の場合は市民的不服従を表明し、自由、正義、平等を伴う未来社会の視界を系統立てて述べるか、あるいは科学技術の価値と同様、国際的な協力と規制を強調する。
 奇妙なことに、なぜ、またどのように黙示録的視界が抵抗されるべきなのかは、多くの場合、倫理学の用語では詳述されない。倫理学の論説は明らかに、変容を実現する強力な動機づけ(motivator)とはみなされない。市民がどのように行動へと動機づけられるか、あるいは政府がどのようにある規則に同意するようになるのか、また、なぜ彼らがそれらの履行を義務づけられていると感じるべきなのかははっきりしない。また、環境破壊について、誰が責任を負うのか、そして非難されるべきなのかという問いも持ち出されない。結局、これらが提出される必要のある基本的な倫理的懸念なのである。
 黙示録のシナリオは、道徳的諸価値と非難と責任を作動させる論点を動員しているから、それは単に診断的なものにとどまらず、同時に予知的なものでもある。それは終わりを予見するが、同時に内省を要求する。これは“the end”の二重の意味による〔訳註3〕。すなわち、それは世界の時間の最終ピリオドであるが、世界の目的、照準、意味でもある。世界は終わることになるが、世界はその目的、抱負、意向を完了したことにならないだろうか? 終わりは世界にとって、あるいは終わるべきこの世界にとってよりよいことだと結論づけること、あるいはその消滅を阻止する努力を引き受けるのは無益だと結論づけることは、世界が存在すべき理由、あるいは存在を続けるべき理由はない、という信念を含意する。つまり、その目的を失っている。黙示録的視界は、未来に投じられているだけでなく、大災害を引き起こしている今日の状況を生み出した過去と現在を批判的に見るよう煽動する。最も重要なのは、予想される事柄の新たな地平を開くことによって、未来への一連の可能性を開示していることである。
 今日経験されている傷つきやすさ(弱さ)を明確に認識することは、それゆえ、道徳的想像力を鼓舞するものと解される――黙示録のイメージを超えて進むために、世界における人間の現存(presence)についての新しい、既存のものに代わる考え方を思いつくために、そしてまた未来のために保持すべき基本的価値は何かという問いに焦点を合わせた、希望の道徳的論説を促進するために。黙示録的視界への抵抗は、まず第一に世界の救済を目指しているのではなく、世界を作り直そうとしている。未来は閉じられた決定されたものではないから、既存のものに代わる他の可能性を秘めている。予見された黙示録的未来は、規範的な動機づけの枠組みを創造する*15 。“the end of the world”(終末の意味における)についてのイメージは、それゆえ“the end of the world”(その目的または意味における)についての再評価、新たな思考へと導く。なぜ私たちは地球上にいるのだろう? どのような世界を私たちは子や孫に残したいのだろう? 必要とされているものは、『ラウダート・シ』によれば、明確に識別する(distinctive)物の見方、考え方、さもなければ「大胆な文化革命」*16 である。

 3.道徳的想像力を広げる
 (1)黙示録的視界の多くの応答において、上述のとおり、道徳的懸念が明示的または暗黙裡に反映される一方で、倫理学の論説それ自体は、世界の終わりについての討論において、逆に無力である。倫理的パースペクティブから、私たちはどうすべきかを知っているが、私たちは個人的にも集団的にも、それをしない。より早い時期には、バイオエシックスのアプローチはあまりに狭く個人的、短期的なパースペクティブに関わっており、課題の社会的、環境的脈絡を理解していない、という理由で批判されてきた。しかし、パースペクティブを真にグローバルで世界的なものに広げるより広範なバイオエシックスの観念が発展している。それは、道徳的想像力を拡大し、倫理の論争をより預言的で未来に焦点を合わせたものにしている。

 (2)最近の哲学者たちは、科学、哲学、倫理学の領域において,想像力の役割を復興させた。たとえばエルンスト・カッシーラーは、単に現実のみに即して考えないことが、すべての偉大な倫理哲学者に特徴的な点であると論ずる。偉大な知的、倫理的パワーに取り憑かれた人類の倫理学の教師たちは、深遠な想像力をも賦与された。彼らの想像的な内面は、彼らのすべての断定に浸透し、生命を吹き込んだ*17 。メアリー・ミジリーは次のように指摘する。世界がどんなものであり、どうあるべきかという想像の視覚は「私たちが生きるすべての不可欠の背景である。それを用いることは、事実についての私たちの知識よりもはるかに重要であり、はるかに影響力を持つように見える」*18

 (3)心の活動としての想像力は、単に感覚的経験をコピーし、実際の経験を再生産する表象的なものではなく、創造的、建設的、生産的なものである。それは、私たちを経験的観察のみに頼る経験主義的な経験を超えたところに連れて行く。それは、私たちの現実の状況から私たち自身を分離する能力である。それは、私たちを未来の次元へと連れて行く*19 。この意味において、それはガストン・バシュラールの哲学において説明されたように、超越的である。すなわち、「想像力は・・・現実のイメージを形成する技能ではない。それとは反対に、現実を超えてイメージを形成する技能である。それは現実を歌うものである」*20 。バシュラールは、想像力を「精神的可動性(spiritual mobility)」と呼ぶ。それは心と魂を新しくする*21

 (4)想像力は倫理のパワフルな資源である。道徳的想像力は、様々な状況の枠組みを生み出す。第一に、それは地平を拡張し、共感を広げる。道徳的活動を要求する状況を認識して、他者に感情移入することを可能にする。私は、自分自身の経験の限界を超えて行くことで、別の人格の状況に置かれた自分自身をイメージする。エディット・シュタインは次のように論じた。私たちは共有するものを認識するから、私たち自身を他者としてイメージすることができる*22 。それはパースペクティブをシフトする能力である。それは私たちを他者の立場に置く。様々な道徳的視点を心に思い描くことで、そして私たちの道徳的地平を広げることで。18世紀における人権の論説の出現は、その一例である*23。第二に、想像力は創造的な力である。それは、害がどのように阻止され、可能な助けが提供されうるかを思い描くことで、問題状況に対する他の選択肢を着想し、さまざまな対応の可能性を同定する。道徳的知覚を導き、人間の行動を方向づけるための世界の眺望、理想、価値を生み出すことで、可能性の地平を開く。道徳的熟考は、ジョン・デューイによれば「徹底的なリハーサル」である。私たちは想像力において、様々な代替案と可能な行動方針を試してみるからである*24

Ⅲ.道徳的想像力と教育

 (1)世界の終わりの論争に教育で取り組むために、道徳的想像力はインスピレーションを与え鼓舞する役割を演じうる。道徳的想像力はいかにして、特に黙示録のシナリオに直面したとき、現実に作動しうるものになるのか? 黙示録のシナリオは、想像力が誤って導かれ、誤って方向づけられることを論証する。想像力は、未来を閉じられたものとみなすことで、過去によって困惑させられ、束縛されるおそれがある。そのため、想像力は私たちの視覚を歪め、希望と期待ではなく、逆に運命と陰鬱のイメージによって支配される。このように、想像力は「先端を切り取られる(truncated)」。それは制限されて一つの次元だけを動かす。それは狭く再生産し、もはや創造的・建設的ではない。最後の破局としての世界の終わりに魅了されている想像力は、生命とは一体何であるかに意味を与え、目的と意味としての世界の終わりを定義する諸々の価値と理想に抵触する。道徳的想像力の潜在性(将来性)を完全に保証するために、二つの道が倫理的論説にとって利用可能であり、それは教育的な努力において立証されうる。
 
 (2)一方で、今日のグローバルな脅威の分析と明確化のために、広い倫理的枠組みを利用しうることを認識すべきである。かかる枠組みは、グローバル・バイオエシックスにおいて提示されたように、個人的関心事だけではなく、社会、コミュニティ、そして地球のパースペクティブにも焦点を合わせる*25 。もし教皇フランシスコが論じるように、「人間、生命、社会、そして私たちと自然とのつながり(relationship)についての新しい考え方」を持つ必要があるのなら、教育の役割は、私たちの内部における調和、他者との調和、自然および他の生きている被造物との調和、そして神との調和に焦点を合わせた新しい習慣を創造することである*26 。教育は創造との調和においてバランスのとれたライフスタイルの徳力(virtue)を耕すべきである。しかしケアの文化の徳力をも耕すべきである。これらの徳力はグローバル・バイオエシックスの諸原則を考察すること、および使用することによって促進されうる。人間の尊厳の尊重と個人の自律の尊重を要求するだけでなく、傷つきやすさ、正義、連帯、環境、そして未来世代の尊重を要求するべきである。
 
 (3)他方で、教育は学生の道徳的想像力を刺激し拡張するために、たとえば物語、事例、模範、シミュレーション、ゲーム、詩的言語、メタファー(暗喩)などの一連のツールを用いることができるだろう*27 。多くの人にとって、未来への恐れはもはや抽象的なものではなく、現実的で具体的な人格的懸念であり、焦点は実地の経験である。教皇フランシスコが推奨する徳は、たとえば、模範〔となる人物〕のうちに、すなわち、たとえ彼らが例外的な存在であっても、賞讃に値する個人、そして私たちが真似したいと思うか似たものになりたいと思う個人のうちに現実に作動しているのを見ることができる。『ラウダート・シ』は数ある模範の中で〔アッシジの〕聖フランシスコとリジューの聖テレジアに多く言及している。グローバル・バイオエシックスの教育的パースペクティブにおいて、夥しい模範を用いることができる。私は、私にインスピレーションを与えた二人にのみ言及したい。

 (4)「モーリスの使徒」とも呼ばれる、ノルマンディ出身の医師ジャック・デジレ・ラヴァル(1803-1864)は、致命的な不慮の災難の後、聖職者になり、当時解放されたばかりの奴隷の間で働くために、また貧しく周辺的な地位に追いやられた移民の別の種族の間で働くために、モーリシャス島に行く決心をした。医学的専門技術を生活条件や農業を改善するために使いながら、彼らの間に住み、彼らの言語を学んだ。様々なコミュニティにおいて相互援助のプログラムも立ち上げた。当初、白人入植者と英国政府は彼を信用しなかった。彼は脅され、時には警察の保護下で働いた。彼が1864年に死んだとき、島の半数以上の住民が彼の葬儀に出席した。彼の人生は例証する。最悪の状況下においてさえ、人々の間の分断と民族的偏見とがいかに克服されうるか、またケアが島のすべての人々――ヒンズー、ムスリム、カトリックおよびプロテスタント――にいかに拡大されうるかを*28

 (5)もう一人の模範は、ハーバード・メディカル・スクール出身の米国の医師であり人類学者でもあったポール・ファーマー(1959-2022)である。彼はハイチの移住労働者と関わることになり、ハイチの病院でボランティア活動を行った。無料のヘルスケアを、世界の最貧地域に住む病者全員に提供する国際非営利組織Partners in Healthを設立した。そのモットーは「一緒に私たちは世界を修繕できる」、そしてさらに「不正義は治癒される」。同組織は昨年、300万人以上の外来患者の訪問、210万人の女性の健康診断、そしてハイチ、ルワンダ、マラウイ、カザフスタンのような国々で、コミュニティ・ヘルスワーカーによって実施される220万件以上の家庭訪問を提供した。ファーマーは多くの学生と同僚にグローバル・ヘルスの領域を新たにイメージするインスピレーションを与えた。彼は、富裕層が利用しうる高品質のヘルスケアと同レベルのものを貧者に提供することはできない、という傲慢(assumption)を拒否した*29 。彼はそれを「想像力の失敗」と呼び、傲慢は悪いこと、そして想像力は、より広い視覚――何が可能かについての、またそれをどのようにして実践的な活動に移すことができるかについての――を生み出しうることを示すために、自らの人生を捧げた。彼は「光と希望のレガシー(遺産)」*30 を残した。

Ⅳ.結論

 16世紀に『エセー』を書いたミシェル・ド・モンテーニュは、想像力のパワーに強く印象づけられた。想像力は、異なった人間性の形態を開くことで、自分自身とは別の生き方、思考、観念を心に思い描くことを可能にする。想像力は私たちを現在から引き離す。子供の教育についての章で、彼はソクラテスの例を挙げる。おまえはどこの人かと問われたソクラテスは「アテナイの人だ」と答えずに、「世界の人だ」と答える。彼の想像力は「より完全でより広く、全世界を自分の国と考え、自分の社会と友情を全人類に向けて広げた。それは、自分たちの足もとしか見ない私たちのすることとは違っていた」*31 。想像力を通して、私たちは自分の外側に出て行くことができ、自分自身を他者の場所に置き、私たちの存在を新たなパースペクティブと観念に開放する。暴力的闘争と市民戦争の時代に生きていたモンテーニュの前には、死と破壊のイメージがつきまとっていた*32 。しかし彼は、これらの運命と衰退のイメージを、永続する運動のうちに世界を見る想像力を用いることで、終焉としてではなく、よりよい、より人間的なものに変わるものとして理解することを希望していた*33

______________                 
* 本文および原註内の〔  〕、下線は訳者による。
* 本文中、内容に応じて改行を施した箇所がある。
* 段落記号Ⅰ~Ⅳ;(1)~(5);①~③;(a)~(d)は訳者が付した。

* 原文は教皇庁生命アカデミーHPで公開されている。
https://www.academyforlife.va/content/dam/pav/documenti%20pdf/2025/Assemblea%20marzo/testi%20pdf%20sito/08_FT%20ten%20Have.pdf

______________
【訳註】
〔1〕本稿ではprophesyとpredictを区別して、前者には「預言する」、後者には「予言する」の訳語を当てた。前者は旧約聖書の預言(神意を告げる)を含意する。「天気予報」等、一般的な科学的予測を指示する語としては後者が用いられる。
〔2〕humanismは多様な意味内容を含む。研究社新英和大辞典(第5版、1980)の分類は以下のようである。本文のanti-humanismは4を含意する。
1. ヒューマニズム、人間性(humanity).2. 人本〔人間〕主義;3. 人間性研究;人文学.
4.〔しばしばH-〕a人文主義、ヒューマニズム、ユマニスム⦅ルネサンス期の、古典文学や思想研究によって人間性を育成するという思潮⦆. b(フランスのAuguste Comteなどの唱えた)人道教、人類教⦅超自然的なことを排斥して人間の幸福安寧を主旨とする教義;religion of humanityともいう⦆.5.〖倫理人道主義〗
〔3〕endは「終わり」と「目的」双方の意味を持つ。

ダウンロード(PDF 708KB)

PAGE TOP