2025年4月25日(金)に教皇庁が発表した、教皇フランシスコのロジト(埋葬証明書)。原文はラテン語で、テクストはイタリア語訳とともに発表された。ロジトは4月26日(土)に行われた教皇フランシスコの葬儀に際して、教皇の棺 […]
2025年4月25日(金)に教皇庁が発表した、教皇フランシスコのロジト(埋葬証明書)。原文はラテン語で、テクストはイタリア語訳とともに発表された。ロジトは4月26日(土)に行われた教皇フランシスコの葬儀に際して、教皇の棺に納められた。以下はラテン語原文に基づく翻訳。
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記念すべき教皇フランシスコの逝去、退位、埋葬
2025年の聖年の4月21日午前7時35分、復活の光が復活の八日間の2日目を照らしたときに、希望の巡礼者であるわたしたちとともに、道の灯であり、わたしたちが招かれている天への同伴者である、教会の愛すべき牧者フランシスコは、この世から御父のもとへと移られました。全キリスト教共同体、とりわけ貧しい人々は、教皇が熱意と忠実をもって福音とキリストの神秘的な花嫁へとささげてくださった奉仕職のたまもののゆえに神に賛美をささげます。
フランシスコは第266代教皇でした。その記憶は普遍教会と全人類の心にとどまります。
2013年3月13日に教皇に選出されたホルヘ・マリオ・ベルゴリオは、1936年12月17日にブエノスアイレスでピエモンテ出身の移民の両親から生まれました。父マリオは鉄道会社の会計係であり、母レジナ・シヴォリは家事と5人の子どもの教育に従事しました。ベルゴリオは、化学の学位を得た後、司祭への道を選び、初め教区神学校に入り、1958年3月11日にイエズス会修練院に移りました。チリで人文教育を修め、1963年にアルゼンチンに戻った後、サンミゲルのサン・ホセ神学校で哲学課程を優秀な成績で終えました。サンタフェ無原罪の御宿り神学校とブエノスアイレスのサルバトーレ神学校で文学と心理学を教えました。1969年12月13日、ラモン・ホセ・カステジャーノ大司教から司祭叙階を受け、1973年4月22日、イエズス会の終生誓願を立てました。サンミゲルのビラ・バリラリ修練院の修練長、神学部教授、イエズス会アルゼンチン管区顧問、神学校長を務めた後、1973年7月31日、イエズス会アルゼンチン管区管区長に任命されました。1986年から数年間をドイツで過ごし、学位論文を完成させた後、アルゼンチンに戻り、アントニオ・カラチノ枢機卿の協力者となりました。1992年5月20日、教皇ヨハネ・パウロ二世は彼をアウカ名義司教、ブエノスアイレス補佐司教に任命しました。ベルゴリオは司教の標語として「憐れみ、そして選ばれた」(Miserando atque eligendo)を選び、イエズス会のシンボルのHISを紋章に入れました。1997年6月3日、ブエノスアイレス協働大司教に挙げられ、カラチノ枢機卿の逝去により、1998年2月28日に枢機卿を継承して大司教、アルゼンチンの首座司教、アルゼンチンの東方典礼教会信者の裁治権者、カトリック大学学長となりました。2001年2月21日、教皇ヨハネ・パウロ二世は彼を枢機卿に叙任し、聖ロベルト・ベラルミーノの名義を与えました。次いで同年10月、彼は世界代表司教会議第10回通常総会の副報告者を務めました。
彼は自らの大司教区において簡素に暮らす、人々から愛された牧者であり、遠方にまで旅し、その際、地下鉄やバスも用いました。アパートに住み、夕食を自炊しました。自分は民の一人だと考えたためです。
教皇ベネディクト十六世の退位後、コンクラーベに集まった枢機卿の中から、2013年3月13日に教皇に選ばれ、フランシスコを名乗りました。アッシジの聖フランシスコの模範に倣って、世界のもっとも貧しい人々を何よりも愛することを望んだからです。祝福のバルコニーに現れた教皇は、次の言葉を述べました。「兄弟姉妹の皆様。今晩は。〔……〕今、わたしたち司教と民はこの旅路を歩み始めます。すなわち、愛において全教会を主宰するローマ教会の旅路を歩み始めます。それは兄弟愛と愛とわたしたち相互の信頼の旅路です」。そして、頭を垂れて、こう述べました。「皆様にお願いします。主がわたしを祝福してくださるよう、祈ってください。それは自分たちの司教のための祝福を願う、民の祈りです」。3月19日の聖なるおとめマリアの夫、聖ヨセフの祝日に、教皇はペトロの奉仕職を正式に開始しました。
常にもっとも最後に置かれた人々、社会から除け者にされた人々に注意を払ったフランシスコは、ドムス・サンクタエ・マルタエに住むことを選びました。なぜなら、教皇は、人々と接触せずには何もできなかったからです。そして、最初の主の晩餐のミサから、バチカンの外でミサをささげることを望み、刑務所、身体障害者や中毒患者のための施設に赴きました。教皇は司祭たちにこう促しました。常に憐れみの秘跡を授ける用意をしていなさい。失われた羊を探すために、勇気をもって香部屋を出なさい。そして、父である神のみ顔と出会うことを望むすべての人を迎え入れるために教会の扉を常に開いておきなさいと。
教皇はイスラム教徒や他宗教の代表者との対話を進めるために、うむことなくペトロの奉仕職を果たしました。時にはこれらの人々を祈禱集会に招き、諸宗教の信仰者の一致のために共同宣言に調印しました。たとえば、2019年2月4日にアブダビでスンニ派指導者のアフマド・アル・タイーブとともに調印した「「世界平和のための人類の兄弟愛」に関する共同宣言書」です。最後に置かれた人、高齢者、子どもへの教皇の愛は、「貧しい人のための世界祈願日」、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」、「世界こどもの日」の開始を促しました。教皇は「神のことばの主日」も制定しました。
教皇はいかなる前任者よりも枢機卿団を拡大しました。10回の枢機卿会議を招集し、その中で163名の枢機卿を叙任しました。そのうち133名は教皇選挙権をもつ枢機卿、30名は選挙権をもたない枢機卿です。また73か国から枢機卿を叙任しましたが、うち23か国はこれまで枢機卿のいなかった国です。教皇は世界代表司教会議総会を5回招集しました。うち3回は家庭、若者、シノダリティーをテーマとする通常総会、1回は家庭をテーマとする臨時総会、1回はアマゾン地域のための特別総会です。
教皇の声はしばしば無害な人々を守るために発せられました。Covid-19の感染拡大(パンデミック)が起こったとき、2020年3月27日の晩、教皇はサンピエトロ広場で一人で祈ることを望みました。広場の柱は象徴的に、未知の伝染病に襲われて恐怖する人類のために、ローマと全世界を抱擁しました。教皇職の最後の数年間は、さまざまな国――とくにウクライナ、パレスチナ、聖地(イスラエル)、レバノン、そしてミャンマー――で部分的に起こっている第三次世界戦争に反対する、数々の平和への訴えで満たされました。
2021年7月4日から10日間、外科手術のためにアゴスチノ・ジェメッリ病院に入院した後、フランシスコは、2025年2月14日から両側性肺炎のために再び38日間、同じ病院に再入院しました。バチカンに戻ると、完全に回復していなかったにもかかわらず、最後の数週間をドムス・サンクタエ・マルタエで過ごし、同じ情熱をもって最後まで自らをペトロの奉仕職のためにささげました。2025年4月20日の復活の主日に、教皇は「ローマと全世界へ」(Urbi et Orbi)の荘厳な祝福を送るために、最後にサンピエトロ大聖堂のバルコニーに現れました。
教皇フランシスコの教導職はきわめて豊かなものでした。節度のある慎ましい様式をあかしし、宣教のわざと使徒的熱意と憐れみに支えられ、傲慢と教会の世俗的精神の危険を避けることに注意しながら、教皇は使徒的勧告『福音の喜び(2013年11月24日)』において自らの使徒的計画を提示しました。主要な文書として次のものが挙げられます。4つの回勅――神への信仰に関する『信仰の光(2013年6月29日)』(Lumen fidei)、エコロジーと気候危機に対する人類の責務に関する『ラウダート・シ――ともに暮らす家を大切に(2015年5月24日)』(Laudato si’)、人間の兄弟愛と社会的友愛に関する『兄弟の皆さん(2020年10月3日)』(Fratelli tutti)、イエスのみ心への信心に関する『ディレクシット・ノス(2024年10月24日)』(Dilexit nos)。教皇は7つの使徒的勧告、39の使徒憲章、多数の使徒的書簡――その大部分は自発教令(motu proprio)であり、聖年を招集する2つの大勅書(bullae)を含みます――、さらに、一般謁見で行ったカテケーシス、世界のさまざまな地域で行った演説。教皇は、広報事務局、財務事務局、いのち・信徒・家庭省、総合的人間開発省を設置した後、使徒憲章『プレディカテ・エヴァンジェリウム(2022年3月19日)』(Praedicate Evangelium)によりローマ教皇庁を改革しました。教皇は『東方教会法典』と『新教会法典』における婚姻無効訴訟の教会法的手続きを改訂し(自発教令『ミティス・エト・ミゼリコルス・イエズス』[Mitis et miserisors Iesus]および『ミティス・ユデックス・ドミヌス・イエズス』[Mitis Iudex Dominus Iesus])、未成年者と脆弱な人に対する聖職者の犯罪に関する法制度を強化しました(自発教令『ヴォス・エスティス・ルックス・ムンディ』[Vos estis lux mundi])。
フランシスコはすべての人に人間性と聖なる生活と普遍的な父としての愛のすばらしいあかしを残しました。
享年88年4か月4日
普遍教会を指導すること12年1か月8日
聖なる父よ、キリストのうちに永遠に生きんことを。
(埋葬の儀の証人の署名)