2025年4月27日(日)午前10時30分(日本時間同日午後5時30分)から、サンピエトロ広場で、前教皇フランシスコの霊魂の安息を祈る「9日間の祈り」第2日のミサが前教皇庁国務省長官のピエトロ・パロリン枢機卿の司式でささ […]
2025年4月27日(日)午前10時30分(日本時間同日午後5時30分)から、サンピエトロ広場で、前教皇フランシスコの霊魂の安息を祈る「9日間の祈り」第2日のミサが前教皇庁国務省長官のピエトロ・パロリン枢機卿の司式でささげられました。「9日間の祈り」の第2日には、とくにバチカン市国の職員および信者が招かれました。ミサには聖年の祝祭のためにローマに集まった多数の青年が参加しました。以下はミサ中に行われたピエトロ・パロリン枢機卿の説教の翻訳です(原文イタリア語)。
なお、教皇庁広報部の報道発表によると、この日、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂は、教皇フランシスコの墓への訪問を可能にするために、午後10時(日本時間28日午前5時)まで開場されました(行列への参加終了時間は午後9時)。
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ピエトロ・パロリン枢機卿の説教
親愛なる兄弟姉妹の皆さん。
復活したイエスは、弟子たちが上の部屋にいたとき、彼らに現れました。彼らはそこで恐れのために家の戸に鍵をかけていました(ヨハ20・19)。彼らの精神状態は狼狽し、心は悲しみのうちにありました。彼らが従っていた、師であり牧者である方が、すべてを残して、十字架につけられたからです。彼らは恐ろしいことを体験し、自分たちがみなしごであり、孤独で、迷い、恐怖と無防備の状態にあると感じました。
今日の主日に示された福音の最初のイメージは、わたしたち皆と、教会と、全世界の精神状態をもよく表すことができるものです。主がその民に与えてくださった牧者、教皇フランシスコは、その地上での生涯を終えて、わたしたちから去って行かれました。教皇の帰天の悲しみ、わたしたちを襲う悲しみ、わたしたちが心に感じるとまどい、喪失感――イエスの死を悲しむ使徒たちと同じように、わたしたちはこれらすべてを体験しています。
しかし、福音はわたしたちに語ります。まさにこの暗闇の瞬間において、主は復活の光とともにわたしたちのもとに来られ、わたしたちの心を照らしてくださいます。教皇フランシスコは、その選出のときからこのことをわたしたちに思い起こさせてくれました。そして、しばしばこのことを繰り返して述べました。この福音の喜びを彼の教皇職の中心に置くことによって。『福音の喜び』(Evengelii gaudium)でこう書いておられるとおりです。「福音の喜びは、イエスに出会う人々の心と生活全体を満たします。イエスの差し出す救いを受け入れる者は、罪と悲しみ、内面的なむなしさと孤独から解放されるのです。喜びは、つねにイエス・キリストとともに生み出され、新たにされます」(同1)。
わたしたちを試練と悲しみのときに支えてくれる、復活の喜びに、今日のこの広場でいわば触れることができます。皆さんは、それが何よりも自分たちの顔に刻まれているのを目にします。聖年を祝うために世界中から来てくださった、親愛なる若者と青年の皆さん。皆さんは多くのところから来てくださいました。イタリア、ヨーロッパ、米国からラテンアメリカのすべての教区まで。アラブ首長国連邦から……。皆さんとともに、本当に全世界がここにいます。
皆さんに特別にご挨拶します。皆さんに、皆さんが教会に抱かれていること、そして教皇フランシスコの愛情を感じていただきたいという望みをこめて。教皇フランシスコは、皆さんと会い、皆さんの目をのぞき込み、皆さんのただ中を回って挨拶したいと望んでおられたからです。
皆さんには直面しなければならない多くの困難があります。わたしはたとえば、現代を特別に特徴づける、テクノロジーと人工知能(AI)の問題のことを考えています。まことの希望で皆さんの人生を養うことを忘れないでください。このまことの希望は、イエス・キリストという顔をもっています。キリストとともにいれば、いかなるものも、大きすぎたり、困難すぎたりはしません。キリストとともにいれば、どんなに悪いときでも、皆さんは、一人きりでもなければ、見捨てられることもありません。キリストは、皆さんがいるところに会いに来てくださいます。そして、皆さんに生きる希望を与えてくださいます。皆さんと、皆さんの経験、考え、たまもの、夢を分かち合ってくださいます。キリストは姿を現してくださいます。近くにいる人、あるいは遠くにいる人の顔の中に。愛すべき兄弟姉妹のうちに。あなたが多くのものを与えるべき人、多くのものを受けるべき人のうちに。皆さんが歩む人生の中で、皆さんが寛大に、忠実に、責任をもてるように助けてくれる人のうちに。キリストは、人生の中で何がもっとも価値あるものかを理解させてくださいます。それは、すべてを包み、すべてを希望する愛です(一コリ13・7参照)。
今日、復活節第二主日、すなわち白衣の主日に、わたしたちは神のいつくしみを祝います。
わたしたちの限界と計算よりも大きい、御父のいつくしみこそが、教皇フランシスコの教導職と熱心な使徒的活動を特徴づけるものでした。同じように、すべての人に神のいつくしみを告げ、分かち合うこと――福音を告げ知らせること、福音宣教――こそが、彼の教皇職の計画でした。教皇フランシスコは、「いつくしみ」が神の名そのものであることをわたしたちに思い起こさせてくれました。それゆえ、だれも神のいつくしみの愛に限界を設けることはできません。神はこのいつくしみの愛によって、わたしたちを立ち上がらせ、新しい人にすることを望まれるからです。
教皇フランシスコが強調したこの教えを貴重な宝として受け入れることは重要です。そして、どうかこのことをいわせてください。この時にわたしたちが示す、教皇への愛情を、たんなる一時的な感情にとどめてはなりません。わたしたちは教皇の遺産を受け入れ、人生の一部としなければなりません。自分の心を神のいつくしみに開き、わたしたちも互いにいつくしみ深い者とならなければなりません。
いつくしみはわたしたちを信仰の中心へと連れ戻してくれます。いつくしみは、わたしたちにこのことを思い起こさせてくれます。わたしたちは、人間的ないし世俗的なカテゴリーに従って、神との関係や、わたしたちが教会であることを解釈してはなりません。なぜなら、福音のよい知らせは、何よりもまず、わたしたちが神から愛されていることを発見することだからです。神は、わたしたちの功績とかかわりなく、わたしたち一人ひとりに憐れみといつくしみの心をもつかたです。さらに、いつくしみは、わたしたちの人生がいつくしみによって織りなされていることを思い起こさせてくれます。わたしたちは、自分を限界なしに愛し、ゆるしてくれる人がいるだけで、倒れても再び立ち上がり、未来に目を向けることができます。そのため、わたしたちは、計算の基準に従ったり、利己主義で目をくらまされることなしに、人間関係を生きるように招かれています。他者との対話に心を開き、道で出会う人を受け入れ、人の弱さと過ちをゆるさなければなりません。いつくしみだけが、人をいやし、新しい世界を造り出します。疑いと憎しみと暴力の炎を消し去ります。これが、教皇フランシスコの偉大な教えです。
イエスはその説教と行いにより、この神のいつくしみのみ顔をわたしたちに示してくださいます。そして、朗読されたとおり、復活の後、上の部屋でわたしたちにご自身を示し、平和のたまものを与えて、こういわれます。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハ20・23)。それゆえ、復活した主はこう定めました。わたしの弟子は、わたしの教会は、人類のために、神の愛とゆるしを受け入れることを望む人々のために、いつくしみの道具とならなければならないと。教皇フランシスコは、傷ついた人に優しく身をかがめ、いつくしみの香油でいやす、教会の輝かしい模範です。教皇はわたしたちにこのことを思い起こさせてくれました。他者を認めること、弱い人に注意を向けることなしに、平和はありえません。何よりも、わたしたちが互いにゆるし合うことを学び、神がわたしたちの人生に示してくださったいつくしみを用いることなしに、決して平和はありえません。
兄弟姉妹の皆さん。まさに神のいつくしみの主日にあたって、わたしたちは愛情をもって愛する教皇フランシスコを思い起こします。バチカン市国の職員と信者の皆様は、教皇の思い出をとくに強く感じておられます。その多くの方々がここに来ておられます。皆様の日々の奉仕に感謝申し上げたいと思います。皆様に、わたしたち皆に、全世界に、教皇フランシスコは天から手を差し伸べて抱擁してくださいます。
聖なるおとめマリアに自らをささげようではありませんか。教皇は、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に埋葬されることを望むほどに、深い信心をもってマリアと結ばれていました。マリアが、わたしたちを守り、わたしたちのために執り成し、教会を見守り、平和と兄弟愛のうちに歩む人類の旅路を支えてくださいますように。アーメン。