教皇レオ十四世、就任ミサ説教

2025年5月18日(日)、復活節第五主日の午前10時(日本時間同日午後5時)からサンピエトロ広場で行われた就任ミサにおける教皇レオ十四世の説教(原文イタリア語)。ミサの前に、教皇はサンピエトロ大聖堂のペトロの墓所に降り […]

2025年5月18日(日)、復活節第五主日の午前10時(日本時間同日午後5時)からサンピエトロ広場で行われた就任ミサにおける教皇レオ十四世の説教(原文イタリア語)。ミサの前に、教皇はサンピエトロ大聖堂のペトロの墓所に降り、祈りの時をもった後、就任ミサの福音朗読の後に教皇に与えられるパリウムと漁夫の指輪に献香した。その後、教皇は、共同司式する枢機卿団とともにサンピエトロ広場の祭壇まで行列を行った。ミサは枢機卿団のほか、東方典礼カトリック教会の管区大司教、総大司教が共同司式した。ミサには外交使節団が参加した。日本からは前首相で自民党最高顧問の麻生太郎氏が参加し、ミサ後にサンピエトロ大聖堂内で教皇に祝いの言葉を述べた。教皇は、この日、ミサに参加したウクライナのヴォロディミル・ゼレンスキー大統領と個別謁見を行った。
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 親愛なる枢機卿の皆様。
 司教職と司祭職にある兄弟の皆様。
 外交使節の皆様。
 聖年の信心会の祝祭のために来られた巡礼者の皆様にご挨拶申し上げます。

 兄弟姉妹の皆様。わたしにゆだねられた奉仕職の開始にあたり、皆様に心からの感謝をもってご挨拶申し上げます。聖アウグスティヌスはこう書いています。「〔主よ、〕あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心はあなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白』[Confessiones 1, 1, 1〔山田晶訳、『世界の名著14 アウグスティヌス』中央公論社、1968年、59頁〕])。

 最近の数日間、わたしたちは特別に濃密な時を過ごしました。教皇フランシスコの死はわたしたちの心を悲しみで満たしました。この困難なときに、わたしたちの群れは、福音が述べた「飼い主のいない羊のように」(マタ9・36)なったと感じました。しかし、まさに復活祭の日に、わたしたちは教皇の最後の祝福を受け、復活の光のうちに、次の確信をもってこの時に立ち向かいました。主はご自身の民を決して見捨てることはなく、散らされた民を集め、「羊飼いが群れを守るように彼を守られる」(エレ31・10)と。

 この信仰の精神をもって、枢機卿団はコンクラーベのために集まりました。さまざまな歴史と道からやって来たわたしたちは、新たなペトロの後継者を選ぶ望みを神のみ手に置きました。ローマ司教は、キリスト教信仰の豊かな遺産を守ると同時に、現代の問い、不安、課題に立ち向かうために、遠くを見ることができなければなりません。皆様の祈りに伴われて、わたしたちは聖霊の働きを感じました。聖霊はさまざまな楽器を調律し、わたしたちの心が一つの旋律をかなでることができるようにしてくださいました。

 わたしは何の功績もなしに、恐れとおののきをもって選ばれました。わたしは皆様のところに一人の兄弟としてやって来ました。皆様の信仰と喜びの奉仕者となり、皆様とともに神の愛の道を歩むために。神は、わたしたち皆が一つの家族として結ばれることを望まれるからです。

 愛と一致。これが、イエスによってペトロにゆだねられた使命の二つの次元です。

 福音の箇所(ヨハ21・15-19)で語られたのはこのことです。福音はわたしたちをティベリアス湖畔に導きます。そこはイエスが御父から受けた使命を開始した場所です。すなわち、悪と死の海から救うために、人間をとる「漁師」となる使命です。イエスは、岸を歩きながら、ペトロと他の最初の弟子たちを、ご自身と同じように「人間をとる漁師」となるように招きました。復活後の今、この使命を果たすために、つねに新たに網を下ろすのは、彼らの務めです。それは、福音の希望を世の水に浸し、いのちの海に漕ぎ出して、すべての人が神に抱かれていることを見いだすことができるようにするためです。

 ペトロはどのようにしてこの務めを果たすことができるでしょうか。福音はわたしたちに語ります。それはただ、ペトロが失敗と否みの時にさえ神の無限で無条件の愛を自分の生涯の中で体験したことによってのみ、可能です。そのため、イエスがペトロに語りかけるとき、福音書はギリシア語の「アガパオー」を用います。このことばは、制限も計算もなしにご自身を与えられた、神のわたしたちに対する愛を意味します。これに対して、ペトロの返事に用いられたことばは、わたしたちが互いに抱く友愛の愛を表す、別のことばです。

 それゆえ、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」(ヨハ21・16)とイエスがペトロに問いかけるときに示されているのは、御父の愛です。イエスはあたかもこういっているかのようです。決して欠けることのない、この神の愛を知り、体験して初めて、あなたはわたしの羊を飼うことができるようになる。父である神の愛のうちにのみ、あなたは「この人たち以上の」、すなわち、あなたの友のためにいのちを捨てて、兄弟を愛することができるようになると。

 それゆえ、ペトロは、「この人たち以上に愛する」務め、すなわち群れのために自分のいのちを捨てる務めをゆだねられました。ペトロの奉仕職は、まさにこの犠牲の愛によって特徴づけられます。なぜなら、ローマ教会は愛において指導するのであり、そのまことの権威はキリストの愛だからです。それは、暴虐や宗教的なプロパガンダや権力の手段によって他者を捕まえることではありません。むしろ、イエスが愛したのと同じように愛することなのです。

 使徒ペトロ自身がいっています。イエスは、「あなたがた家を建てる者に捨てられ、隅の親石となった石」(使4・11)です。そして、イエスが石であるなら、ペトロは、孤独な指導者や他の人の上に立つ首領となり、自分にゆだねられた人の主人になる誘惑に陥ることなく、群れの牧者とならなければなりません(一ペト5・3参照)。反対に、ペトロに求められるのは、兄弟姉妹に仕え、彼らとともに歩むことです。実際、わたしたちは皆、「生きた石」(一ペト2・5)であり、洗礼によって、兄弟愛と、霊の一致と、多様性の共存のうちに、神の家を築くように招かれているからです。聖アウグスティヌスがいうとおりです。「教会は、兄弟と和合し、隣人を愛するすべての人から成る」(『説教』[Sermones 359, 9])。

 兄弟姉妹の皆様。わたしたちの第一の大いなる望みはこれだといいたいと思います。すなわち、世の和解のためのパン種となる、一致と交わりのしるしである、一致した教会です。

 現代、わたしたちは多くの不一致を、また、憎しみと暴力と偏見、違いへの恐れ、地球の資源を搾取し、もっとも貧しい人々を疎外する経済的枠組みによって生じた、多くの傷を目にします。わたしたちは、この練り粉の中で、一致と交わりと兄弟愛の小さなパン種でありたいと思います。わたしたちは謙遜と喜びをもって、世に対してこういいたいと思います。キリストに目を向けてください。キリストに近づいてください。照らしと慰めをもたらす、キリストのことばを受け入れてください。キリストの一つの家族となるために、キリストの愛の申し出に耳を傾けてください。唯一のキリストのうちに、わたしたちは一つです。わたしたちはこの道を、わたしたちの間で、しかしまた、姉妹であるキリスト教教会や、他の宗教の道を歩む人々や、深い不安のうちに神を求める人々、すべての善意の人とも、ともに歩まなければなりません。それは、平和が支配する新しい世を築くためです。

 これが、わたしたちを突き動かす宣教精神です。自分の小さなグループに閉じこもったり、世に対して優越感を抱いてはなりません。わたしたちは神の愛をすべての人に与えるように招かれています。それは、相違を否定せず、一人一人の個人史と、すべての民族の社会的・宗教的文化を尊ぶ一致を実現するためです。

 兄弟姉妹の皆様。今は愛の時です。わたしたちを互いに兄弟にする神の愛こそが、福音の中心です。わたしの前任者であるレオ十三世とともに、今日わたしたちは自分自身に問いかけたいと思います。この基準が「世を支配するならば、すべての争いは、すぐになくなり、平和が回復するのではないだろうか」(回勅『レールム・ノヴァルム』21[Rerum novarum])。

 聖霊の光と力をもって、神の愛を基盤とし、一致のしるしである、宣教的な教会を築いていこうではありませんか。この教会は、世に両腕を広げ、みことばを告げ知らせ、歴史によって落ち着くことなく、人類の一致のためのパン種となります。

 唯一の民として、兄弟として、ともに神に向かって歩み、互いに愛し合おうではありませんか。