教皇レオ十四世、2025年5月25日、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂入堂・着座ミサ説教

2025年5月25日(日)午後5時(日本時間26日午前0時)から行われた、教皇レオ十四世のサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂入堂・着座ミサにおける説教(原文イタリア語)。 ―――   ご列席の枢機卿の皆様、とくにロ […]

2025年5月25日(日)午後5時(日本時間26日午前0時)から行われた、教皇レオ十四世のサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂入堂・着座ミサにおける説教(原文イタリア語)。
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 ご列席の枢機卿の皆様、とくにローマ教区の総代理の(バルダッサーレ・レイナ)枢機卿、補佐司教とすべての司教、親愛なる司祭の皆様――主任司祭、助任司祭、わたしたちの共同体の司牧のためにさまざまな資格で協力しているすべての方々――、また、助祭、男女の修道者、行政当局者、そして親愛なる信者の皆様に心からご挨拶申し上げます。

 ローマ教会は、ペトロ、パウロと数えきれない殉教者のあかしを基盤とした、偉大な歴史の相続人です。そしてそれは独自の使命をもっています。この大聖堂のファサードの銘文の「すべての教会の母」(Mater omnium Ecclesiarum)に示されるとおりです。

 教皇フランシスコは、しばしば、教会の母としての次元と(使徒的勧告『福音の喜び』46-49、139-141[Evangelii gaudium]、「一般謁見講話(2016年1月13日)」参照)、その固有の特徴を考察するように招きました。すなわち、優しさ、進んで犠牲をささげる態度、耳を傾ける力です。この耳を傾ける力は、人を助けるだけでなく、しばしば、それが表明される前に必要と期待を先取りすることができます。これらの特性が、このわたしたちの大きな教区家族を含む、神の民の至るところで成長することを望みます。信者、司牧者、そして第一にわたしにおいて。朗読された聖書箇所は、わたしたちがこのことについて考察する助けとなることができます。

 とくに使徒言行録(15・1-2、22-29参照)は、最初の共同体が、福音の告知を異教世界に開放するという課題にいかに立ち向かったかを語ります。これは簡単な手続きではありませんでした。多くの忍耐と、相互に耳を傾けることを必要としたからです。それはまずアンティオキアの共同体内部で行われました。そこでは兄弟たちが対話によって――時には言い争いながら――ともに問題を定義するに至りました。その後、パウロとバルナバがエルサレムに上りました。彼らは自分たちで決定を行いませんでした。彼らは母教会との交わりを求めて、謙虚にそこに赴いたのです。

 ペトロと使徒たちがエルサレムにいて、彼らの話を聞きました。こうして対話が始まり、ついにそれが正しい決定をもたらしました。新たな改宗者の負担を認識・考慮して、彼らに過度な重荷を負わせず、本質的なことがらを求めるにとどめることが合意されました(使15・28-29参照)。こうして、問題と思われたことが、すべての人にとって考察と成長の機会となったのです。

 しかし、聖書箇所は、出来事のたんなる豊かで興味深い人間的ダイナミクスを超えた、それ以上のことをわたしたちに語ります。

 エルサレムの兄弟がアンティオキアの兄弟にあてた手紙で決定を知らせたことばが、そのことを示します。彼らはこう書き送ります。「聖霊とわたしたちは……決めました」(使15・28参照)。すなわち、彼らが強調したのは、出来事の中で、他のすべてのことを可能にしたもっとも重要なことは、耳を傾けること、すなわち神の声に耳を傾けることだということでした。こうして彼らはわたしたちに思い起こさせてくれます。交わりは何よりもまず「ひざまずくこと」、すなわち祈りと絶えざる回心への努力によって築かれるということです。実際、このような緊張関係によって初めて、わたしたちはおのおの、自らのうちに「アッバ、父よ」(ガラ4・6)と叫ぶ霊の声を聞くことができます。そして、その結果として、他者に兄弟として耳を傾け、理解することが可能になるのです。

 福音も、人生の決断においてわたしたちが独りきりでないと語ることによって、このメッセージを繰り返します(ヨハ14・23-29参照)。霊がわたしたちを支え、進むべき道を示し、イエスが話したことをすべてわたしたちに「教え」、「思い起こさせて」くださいます(ヨハ14・26参照)。

 聖霊はまず、わたしたちのうちに深く刻まれた主のことを教えます。それは、掟に関する聖書のたとえによれば、石の板ではなく、わたしたちの心に書かれたことばです(エレ31・33参照)。それは、互いに「キリストの手紙」(二コリ3・3参照)となるまでにわたしたちが成長するように助ける、たまものです。まさにそのとおりです。わたしたちは、霊に引き寄せられ、造り変えられて、霊の力によって心が清められ、ことばが単純になり、望みが誠実で透明になり、行動が寛大になればなるほど、福音をいっそう告げ知らせることができるようになるのです。

 ここで、「思い起こす」という、もう一つの動詞が現れます。それは、体験し、学んだことに立ち戻って心の注意を向けることです。意味を深く理解し、すばらしさを味わうために。

 このことに関連して、わたしは、ローマ教区がここ数年に始めた重要な取り組みのことを考えます。それはさまざまなレベルで耳を傾けることによって行われています。すなわち、課題を理解するために回りの世界に耳を傾けることと、必要を理解し、福音宣教と愛のわざの優れた預言的な取り組みを推進するために、共同体内部に耳を傾けることです。これは、今も継続中の困難な歩みです。きわめて豊かで、同時にきわめて複雑な現実を捉えることを求めているからです。しかしそれはこの教会の歴史にふさわしいものです。この教会は、大胆な計画に限界なく取り組み、新たな骨の折れる見通しにも立ち向かうことによって、「大きく」考えることができることを何度も示してきたからです。

 このことは、教区全体が、最近、聖年のために、巡礼者を受け入れ世話することや、他の多くの取り組みに努めてきた、多大な努力に示されています。多くの労力に感謝します。ローマは、時として非常に離れたところから来た人々にとって、開かれた、居心地の良い大きな家として、とくに信仰の暖かい家庭として、見なされています。

 わたしとしては、わたしに可能なかぎり、すべての人に耳を傾けるこの大きな作業に加わり、一緒に学び、理解し、決定したいという望みを表明します。聖アウグスティヌスが述べたとおり、「わたしはあなたがたともにキリスト者であり、あなたがたのために司教です」(『説教』[Sermo 340, 1]参照)。わたしも皆様にお願いします。祈りと愛を共通の一つの力にして、わたしを助けてください。聖大レオのことばが述べるとおりです。「わたしたちが奉仕職において行うすべての善は、キリストのわざであって、わたしたち自身のわざではない。なぜなら、わたしたちはキリストなしに何事もなしえないからである。しかしわたしたちはキリストをたたえる。わたしたちのわざのすべての効果はキリストに由来するからだ」(『説教』[Sermo 5, de natali ipsius, 4]

 終わりに福者ヨハネ・パウロ一世が、1978年9月23日に、すでに「ほほえみの教皇」と呼ばれた、明るい落ち着いた顔で、新しい教区家族に挨拶したことばを引用したいと思います。「聖ピオ十世は、ヴェネツィアの総大司教となった際、サンマルコでこう叫んだのです。『ヴェネツィアの民よ。あなたがたを愛していなければ、わたしはこの座にいたでしょうか』。同じことをわたしも申し上げます。ローマの皆さん、約束いたします。あなたがたを愛します。皆さんへの奉仕に加わることだけが望みです。わたしにあるもの、またわたし自身が、いかに小さなものであろうとも、この弱い力を、皆のためにささげてまいります」(「ローマ司教着座式ミサ説教(1978年9月23日)」)。

 わたしもわたしのすべての愛情を、皆様との共通の歩みにおいて、喜びと悲しみ、労苦と希望を分かち合いたいという望みとともに、表明します。わたしも、「わたし自身が、いかに小さなものであろうとも」、皆様にわたしをささげます。そして、聖ペトロとパウロと、その聖性がこの教会の歴史とローマの道を照らした他の多くの兄弟姉妹の執り成しにこのことをゆだねます。おとめマリアがわたしたちに同伴し、わたしたちのために執り成してくださいますように。