
2025年6月14日(土)午前10時(日本時間同日午後5時)からサンピエトロ大聖堂で行われた聖年の謁見での講話(原文イタリア語)。聖年の講話は2025年1月11日(土)に教皇フランシスコによって開始されたが、2月1日(土 […]
講話の後、教皇は、13日(金)にイスラエルがイランの核施設など100か所超を先制攻撃し、イランも報復攻撃を行っている状況に関して、和平を求める呼びかけをイタリア語で行った。
「実際、今日もきわめて憂慮すべき知らせが届いています。イランとイスラエルの状況は深刻に悪化しています。この微妙な瞬間に、わたしは責任と理性に対する呼びかけを改めて強く行いたいと思います。核の脅威から自由な、安全な世界を建設するための努力は、敬意ある会合と誠実な対話を通して追求されなければなりません。それは、正義と兄弟愛と共通善に基づく、恒久的な平和を築くためです。誰も他者の生存を脅かしてはなりません。平和の理想を支持し、和解の道を進み、すべての人のために安全と尊厳を保障する解決を推進することが、すべての国の義務です。」
希望するとは、結びつけることである――リヨンのエイレナイオス
父と子と聖霊のみ名によって。平和が皆さんとともにありますように。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
今日、わたしは、教皇フランシスコが1月に始めた聖年の特別講話を再開します。この講話は、希望という対神徳の特別な側面と、それをあかしした霊的な人物の一人をその都度示します。それゆえ、希望の巡礼者として、始めた道を続けていきたいと思います。
使徒たちが初めから伝えてきた希望が、わたしたちを集めています。使徒たちはイエスのうちに地が天と結ばれるのを目にしました。彼らはその目と耳と手で、いのちのことばに触れました。聖年は、この神秘へと開かれた扉です。聖年は、神の世界をわたしたちの世界と徹底的に結びつけます。それは、わたしたちが毎日祈る、「天に行われるとおり地にも行われますように」ということを真剣に受け止めるようにわたしたちを招きます。これがわたしたちの希望です。今日わたしたちが深く理解したい側面はこれです。「希望するとは、結びつけることである」。
偉大なキリスト教神学者の一人である、リヨンのエイレナイオスは、この希望がすばらしく、現代的であることを認識するためにわたしたちの助けとなります。エイレナイオスは小アジアで生まれ、使徒たちを直接知っていた人々の中で教育を受けました。後に彼はヨーロッパに移りました。リヨンにはすでに彼の故郷から来たキリスト者の共同体が形成されていたからです。このことをローマで、ヨーロッパで思い起こすことができるのは、なんとすばらしいことでしょうか。福音はこの大陸に外からもたらされました。今日でも、移住者の共同体は、彼らを受け入れた国々において信仰を活気づける存在となっています。福音は外からやって来ます。エイレナイオスは東方と西方を結びつけます。これはすでに希望のしるしです。なぜなら、それは人々が互いを豊かにし続けていることをわたしたちに思い起こさせるからです。
しかし、エイレナイオスはさらに偉大な宝をわたしたちに与えてくれました。キリスト教共同体の中に見いだした教理的分裂、内部の争い、外的な迫害は、エイレナイオスを失望させませんでした。反対に、彼は分裂した世界の中でよりよく考えることを学び、イエスにますます深く注意を向けさせました。彼はまさに自らのからだで、歌い手となりました。実際、エイレナイオスは、わたしたちの中で対立しているように見えるものが、一致を回復させることを見いだしました。イエスは、わたしたちを隔てる壁ではなく、わたしたちを結びつける門です。わたしたちはイエスのうちにとどまり、現実とイデオロギーを区別しなければなりません。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日においても、観念が理性を失い、ことばが人を殺すことがあります。しかし、わたしたちは皆、肉体でできています。肉体こそが、わたしたちを地と他の被造物と結びつけます。わたしたちはイエスの肉体を、すべての兄弟姉妹のうちに、すべての被造物のうちに、受け入れ、観想しなければなりません。肉の叫びに耳を傾け、他者の苦しみによってわたしたちが名を呼ばれるのを感じなければなりません。わたしたちが初めから与えられた掟は、互いに愛し合いなさいという掟です。それはあらゆる律法よりも先に、わたしたちの肉体に刻まれています。
一致の師であるエイレナイオスは、わたしたちに、対立することではなく、結び合うことを教えます。知性は、分離するところにではなく、結びつけるところに存在します。区別することは役に立ちますが、それは分裂させることではありません。イエスはわたしたちの間におられる、永遠のいのちです。イエスは、対立するものを集め、交わりを可能にしてくださいます。
わたしたちは希望の巡礼者です。なぜなら、個人、民、被造物のうちに、誰かが交わりに向かおうと決意していなければならないからです。他の人々はわたしたちに従います。2世紀のリヨンのエイレナイオスのように、わたしたちもそれぞれの町に戻り、今日、壁があるところに橋をかけようではありませんか。門を開き、世界を結び合わせようではありませんか。そうすれば、希望が生まれます。