
2025年6月22日(日)午後5時(日本時間23日午前0時)からサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂前でささげたキリストの聖体の祭日ミサにおける説教(原文イタリア語)。ミサ後、ヴィア・メルラナ(Via Merulan […]
親愛なる兄弟姉妹の皆様。イエスとともにとどまることはすばらしいことです。たった今朗読された福音は、そのことをあかしします。福音はこう語ります。群衆は何時間も主とともにとどまっていました。主は神の国について語り、病人を癒やしました(ルカ9・11参照)。苦しむ人に対するイエスの憐れみは、神が愛に満ちて近づいてくださることを示します。神はわたしたちを救うために世に来られたからです。神が王として支配するとき、人間はすべての悪から解放されます。しかし、イエスから良い知らせを受け入れる人にも、試練の時は来ます。群衆が師である方に耳を傾けていた、人里離れた場所に、夜が訪れ、そこには食べるものがありませんでした(12節参照)。人々の飢えと、日没は、世とすべての被造物を脅かす限界のしるしです。人間の人生と同じように、一日は終わります。このような時、すなわち、ものが不足した、闇の時にも、イエスはわたしたちのただ中にとどまります。
太陽が傾き、飢えが増大し、使徒たちが人々を解散させることを願った、まさにその時、キリストはその憐れみによってわたしたちを驚かせます。イエスは飢えた人々を憐れみ、彼らの世話をするように弟子たちを招きます。飢え、すなわち欠乏は、み国の告知と救いのあかしと無関係なものではありません。その反対に、この飢えは、わたしたちの神との関係と関わります。五つのパンと二匹の魚は、人々の空腹を満たすのに十分とは思えません。しかし、一見、合理的に見える、弟子たちの計算は、彼らの信仰の欠如を明らかにします。なぜなら、実際には、イエスとともにいれば、わたしたちの人生に意味と力を与えるのに役立つすべてのものが、そこにあるからです。
実際、イエスは人々の飢えに関する訴えに対して、分かち合いのしるしをもってこたえます。イエスは目を〈上げ〉、祝福の祈りを〈唱え〉、パンを〈裂き〉、そこにいるすべての人が食べるために〈与え〉ます(16節参照)。主の行為は、複雑な魔術の儀式の始まりではありません。むしろそれは、御父を認めること、キリストの子としての祈り、聖霊が支える兄弟の交わりを、単純にあかしします。パンと魚を増やすために、イエスはそこにあったものを分けました。こうしてすべての人は満たされました。それどころか、食べ物は人々を満たす以上に余りました。彼らは食べ終えた後――そして、満腹になると――、食べ物を十二の籠に集めました(17節参照)。
これが、飢えた人々を救う方法です。イエスは、神のやり方で行い、同じようにするように教えます。今日、福音で述べられた群衆の代わりに、すべての人が、自分の飢えよりも他者の貪欲のために屈辱を味わっています。多くの人の悲惨な状態を前にして、少数の人が富を蓄えることは、無関心の傲慢を表すしるしであり、それが苦しみと不正を生み出します。富は、分かち合われるのではなく、大地と人々の労働の実りを浪費します。とくにこの聖年において、主の模範はわたしたちにとって行動と奉仕の緊急の基準となります。わたしたちは、希望を増大させ、神の国の到来を告げ知らせるために、パンを分かち合わなければなりません。
実際、イエスは、群衆を飢えから救うことによって、ご自分がすべての人を死から救うことを告げました。これが、わたしたちが聖体の秘跡によって祝う、信仰の神秘です。飢えがわたしたちの人生に根源的に欠乏しているもののしるしであるのと同じように、パンは、神の救いのたまもののしるしです。
愛する皆様。キリストは、人間の飢えに対する神のこたえです。なぜなら、キリストのからだは永遠のいのちのパンだからです。皆、これを取って食べなさい。イエスの招きは、わたしたちの日々の生活を両腕で抱きます。わたしたちは、生きるために、植物や動物から取ったいのちで自分を養う必要があります。しかし、死んだものを食べることは、次のことをわたしたちに思い起こさせます。それは、わたしたちも、どれだけ食べようとも、死ぬのだということです。しかし、わたしたちが、生きたまことのパンであるイエスによって養われるとき、わたしたちはこの方によって生きます。十字架につけられて復活した方は、ご自身をすべてささげながら、わたしたちにご自身をゆだねます。こうしてわたしたちは、自分が神に養われるために造られた存在であることを見いだします。わたしたちの飢えた本性は、聖体の恵みによって満たされることになる欠乏のしるしです。聖アウグスティヌスはこう書き記しています。まことにキリストは、「不足するのではなく、回復するパンである。食べられても、食べ尽くされることのないパンである(panis qui reficit, et non deficit; panis qui sumi potest, consumi non potest)」(『説教』[Sermo 130, 2])。実際、聖体は、救い主の、真の、現実の、実体的な現存です(『カトリック教会のカテキズム』1413参照)。救い主は、わたしたちをご自身のうちに造り変えるために、パンをご自身に変えるからです。生きた、いのちを与える、主の聖体(Corpus Domini)は、わたしたちを、すなわち教会そのものを、主のからだとするのです。
だから、使徒パウロのことば(一コリ10・17参照)に従って、第二バチカン公会議はこう教えます。「聖体のパンの秘跡によって、キリストにおいて一つのからだを構成する信者の一致が表され、実現される。すべての人はキリストとのこの一致へ招かれている。キリストは世の光であって、われわれは彼から出、彼によって生き、彼に向かうのである」(『教会憲章』3[Lumen gentium])。わたしたちが間もなく始める聖体行列は、このような歩みのしるしです。牧者と神の民はともに、至聖なる秘跡に養われ、この秘跡を拝み、運びながら道を歩みます。このようにすることによって、わたしたちは聖体を人々の目と良心と心に示します。信じる者の心に聖体を示すのは、彼らがいっそう堅固に信じるようになるためです。信じない者の心に聖体を示すのは、彼らが、魂の中にある飢えについて、また、それだけがこの飢えを満たすことができるパンについて、自らに問いかけるためです。
神が与えてくださる食物に力づけられて、わたしたちはイエスをすべての人の心にもたらします。それは、イエスが、すべての人がご自分の食卓にあずかるように招きながら、すべての人を救いのわざに引き入れるためです。招かれた人は幸いです。彼らはこの愛の証人となるからです。