
2025年7月9日(水)、教皇が6日(日)から夏季休暇を過ごしているカステル・ガンドルフォの「ボルゴ・ラウダート・シ」でささげたミサ説教(原文イタリア語)。ミサは7月3日(木)に教皇庁典礼秘跡省が発表した「被造物の保護の […]
このすばらしい日に、わたしは、まずわたし自身から始めて、皆様に、いわゆる「自然」のカテドラルの美しさの中でわたしたちが祝っていることを体験するようにお招きしたいと思います。多くの植物と被造界の諸要素がエウカリスチア(感謝の祭儀)を祝うためにわたしたちを導いてくれました。エウカリスチアとは主に感謝することです。
この感謝の祭儀の中で主に感謝したい理由はたくさんあります。この祭儀は、教皇庁のさまざまな省の作業の成果である、被造物の保護のためのミサの新しい式文によっておそらく初めてささげられます。
ここに来ておられる多くの方々にわたしから個人的に感謝申し上げます。皆様はその意味でこの典礼のためにご尽力くださったからです。ご承知のとおり、この典礼はいのちを表します。そして皆様は「ラウダート・シ・センター」のいのちです。この時にあたり、この機会に、教皇フランシスコのすばらしいインスピレーションに従って皆様がしてくださっているすべてのことに対して感謝申し上げたいと思います。教皇フランシスコは、この小さな場所、この庭園、この空間を、『ラウダート・シ』発行10年後にわたしたちが知っているすべてのことに関するきわめて重要な使命を継続するためにささげました。すなわち、わたしたちがともに暮らす家である被造界の保護の必要性です。
ここは最初の数世紀の古代教会のような場所です。そこには、洗礼盤があり、人は教会に入るためにこの洗礼盤を通らなければなりませんでした。わたしはこの水で洗礼を受けたいとは思いませんが……、しかし、わたしたちのすべての罪と弱さを洗い清めるために水を通り、こうして教会の偉大な神秘に入ることができるという象徴は、今日でもわたしたちが経験しているものです。わたしたちはミサの初めに、回心のために、すなわち、自分たちの回心のために祈りました。わたしは付け加えていいたいと思います。わたしたちはともに暮らす家を守る緊急の必要性をまだ認識していない、教会の中と外の多くの人の回心のために祈らなければなりません。
世界中で、ほとんど毎日のように、多くの場所で、多くの国でわたしたちが目の当たりにしている多くの自然災害の一部は、人間の過剰な生活様式によって引き起こされたものです。それゆえわたしたちは、自分たちがこの回心を実践しているかどうかを、自らに問いかけなければなりません。わたしたちはどれほど回心を必要としていることでしょうか。
さて、このように述べたうえで、わたしが準備した説教もお話しします。少しご辛抱ください。いくつかの要素が、今朝の考察を続けるために真に助けとなります。わたしたちはこの親密な静かな時を、地球温暖化や武力紛争によって燃え盛る世界の中でともに過ごしています。教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ ともに暮らす家を大切に』(Laudato si’)と『兄弟の皆さん』(Fratelli tutti)のメッセージは、今も現実的な意味を失っていません。わたしたちはたった今朗読された福音の中に自らの姿を見いだすことができます。わたしたちは、嵐の中の弟子たちの恐れ、人類の大部分が抱いている恐れを目の当たりにします。しかし、聖年のただ中でわたしたちは告白します。わたしたちは何度もこういうことができます。わたしたちには希望があります。わたしたちはイエスにおいてこの希望と出会いました。イエスは今も嵐を鎮めてくださいます。イエスの力は、混沌をもたらすのではなく、創造します。それは破壊するのではなく、新しいいのちを与えます。わたしたちも自らに問いかけなければなりません。「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」(マタ8・27)。
この問いが表す驚きが、わたしたちが恐れから抜け出すための第一歩です。イエスはガリラヤ湖のほとりに住み、祈りました。イエスはそこで最初の弟子を、彼らの生活と仕事の場の中で、招きました。イエスが神の国を告げ知らせるために用いたたとえ話は、この土地と水、季節のリズムと被造物のいのちとの深いつながりを示します。
福音書記者マタイは嵐を「地の混乱」(セイスモス)と記します。マタイは同じ用語を、イエスの死の瞬間と、復活の朝の地震を表す際にも用います。キリストはこの混乱から立ち上がり、まっすぐに立ちます。すでにここで福音書は、わたしたちの混乱した歴史の中におられる復活した方に気づかせてくれます。風と湖をイエスが叱ることは、イエスのいのちと救いの力を示します。その力は、被造物がそれに対して絶望する力にまさります。
そこでわたしたちはもう一度、自らに問いかけてみたいと思います。「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」(マタ8・27)。今朗読された、コロサイの信徒への手紙の賛歌は、まさにこの問いに答えているように思われます。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、〔……〕万物は御子において造られたからです」(コロ1・15-16)。あの日、弟子たちは、嵐の力の中で、恐怖に襲われ、イエスに関するこのような認識を告白できませんでした。今日、わたしたちは、わたしたちに伝えられた信仰によって、こう続けていうことができます。「御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです」(18節)。このことばが、歴史を通してわたしたちに約束し、わたしたちを生きたからだとします。このからだの頭はキリストです。被造物を守り、平和と和解をもたらすというわたしたちの使命は、イエスご自身の使命です。それは、主がわたしたちにゆだねた使命です。わたしたちは地の叫び声を聞きます。貧しい人々の叫び声を聞きます。なぜなら、この叫び声は神の心に届いたからです。わたしたちの憤りは、神の憤りです。わたしたちのわざは、神のわざです。
このことについて、詩編作者の歌はわたしたちを力づけます。「主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。主の御声は力をもって響き、主の御声は輝きをもって響く」(詩29・3-4)。この声は教会に預言するように促します。たとえこの世の王たちの破壊的な力に反対するには勇気が必要であっても。実際、造り主と被造物の間の不滅の契約は、わたしたちの知性と力を動員して、悪を善に、不正を正義に、貪欲を交わりに変えさせます。
唯一の神は、限りない愛をもって、万物を創造し、わたしたちにいのちを与えました。だからアッシジの聖フランシスコは被造物を兄弟、姉妹、母と呼びます。観想的なまなざしだけが、わたしたちの被造物との関係を変え、環境危機からわたしたちを導き出すことができます。環境危機の原因は、罪に基づく、神との関わり、隣人との関わり、大地との関わりの破壊です(教皇フランシスコ『ラウダート・シ ともに暮らす家を大切に』66参照)。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちが今いる「ボルゴ・ラウダート・シ」は、教皇フランシスコの直観によって、「実験場」となることを目指しています。それは、わたしたちにとって癒やしと和解となる被造物との調和を体験し、わたしたちにゆだねられた自然を守るための新しく効果的な方法を生み出すための場です。それゆえ、この目的を実現するために努力する皆様に、祈ることを約束するとともに、励ましを与えます。
わたしたちが祝う聖体は、わたしたちの働きに意味と支えを与えます。実際、教皇フランシスコが述べているとおり、「創造されたすべてのものがもっとも高められるのは、聖体においてです。感覚で捉えられるしかたで自らを顕わにしようとする恵みは、神ご自身が人となられ、被造物のためにご自分を食べ物としてお与えになったとき、このうえなきかたちで表現されました。主は、受肉の神秘の頂点において、ひとかけらの物質を通じて、わたしたちの内奥にまで達することを望まれました。この世界でわたしたちが主を見いだせるよう、主は、上からではなく内から訪れてくださいます」(『ラウダート・シ』236)。それゆえ、この場から、聖アウグスティヌスの『告白』の最後のページのことばを皆様にゆだねることによって、この考察を終えたいと思います。このことばは、宇宙的な賛歌によって被造物と人間を結びつけます。「御業はあなたを讃えんことを。私たちがあなたを愛するために。私たちはあなたを愛そう。御業があなたを讃えるために」(聖アウグスティヌス『告白』[Confessiones XIII, 33, 48〔山田晶訳、『世界の名著14 アウグスティヌス』中央公論社、1968年、535頁〕])。この調和をわたしたちが世界に広げることができますように。