
2025年8月2日(土)午後7時30分(日本時間8月3日午前2時30分)頃、教皇は、ローマ、トール・ヴェルガータに、青年の祝祭前晩の祈りに参加するためにヘリコプターで到着した。パパモービレで会場を回った後、午後8時30分 […]
聖歌隊と音楽隊の皆様に感謝申し上げたいと思います。わたしたちとともにいてくださり、ありがとうございます。皆様、ありがとうございます。少し休んでくださるようにお願いします。明日の朝のミサで、またお会いしましょう。皆様にご挨拶申し上げます。おやすみなさい。
以下は前晩の祈りで若者たちと行った対話(原文スペイン語、イタリア語、英語)。
第一の質問――友情
教皇様。わたしはドゥルセ・マリア、23歳です。メキシコから来ました。世界の多くの地域の若者が経験している現実を代弁者として教皇様にお話しします。わたしたちは時代の子です。わたしたちは、それがどのようにわたしたちを形づくっているのかを理解しないままに、文化の中を生きています。この文化は、テクノロジー、とくにソーシャルメディアによって特徴づけられます。わたしたちはしばしば、多くの友人をもち、親密な関係を築いているという幻想を抱きますが、同時にさまざまな形の孤独をますます経験しています。わたしたちは多くの人とつながっていますが、それらは真の永続的な関係ではなく、むしろ束の間の幻の関係です。
教皇様。わたしの質問はこれです。わたしたちを真の希望へと導く、真の友情と真の愛をどのように見いだすことができるでしょうか。わたしたちの未来を築くうえで信仰はどのように役立ちうるのでしょうか。
親愛なる若者の皆様。人間関係、他の人との関係は、わたしたち一人一人にとってかけがえのないものです。それは、世界のすべての人が誰かの子どもとして生まれることから始まります。わたしたちの人生は絆から始まり、この絆を通して成長します。この過程で、文化は根本的な役割を果たします。文化は、わたしたちがそれを通して自分を理解し、世界を解釈するための規範です。あらゆる文化には、辞書のように、高尚なことばも俗悪なことばも、価値も誤りも含まれています。わたしたちはそれらを認識することを学ばなければなりません。情熱的に真理を探究しながら、わたしたちは文化を受け入れるだけでなく、人生の選択を通して文化を変容します。実際、真理は、ことばと事物、名前と顔を結びつける絆です。これに対して、虚偽は、これらの側面を切り離し、混乱と誤解を生み出します。
さて、わたしたちの生活を特徴づける多くの文化的なつながりの中で、インターネットとソーシャルメディアは「情報や知識の収集にとどまらず、〔……〕人々が対話し、出会い、交流するための機会」(教皇フランシスコ使徒的勧告『キリストは生きている』87[Christus vivit])となっています。しかし、これらの手段は、わたしたちの関係を断片化する消費主義に支配されると、あいまいなものとなります。この点に関して、教皇フランシスコはこう述べます。時として「通信、広告、SNSの構造が、わたしたちを愚鈍な者、購入させるべく消費や新製品に依存する者、否定に固執する者にするために用いられている」(『キリストは生きている』105)と。すると、わたしたちの人間関係は混乱し、不安で不安定なものとなります。さらに、ご存じのように、今日、わたしたちが何を見、何を考え、どのような人を友人とすべきかを教えてくれるアルゴリズムが存在します。こうしてわたしたちの人間関係は混乱し、時には不安になります。手段が人間を支配すると、人間は道具にすぎないものになります。まことに、商売の手段が、商品となるのです。真実な人間関係と安定した絆だけが、よい人生の物語を築くのです。
親愛なる若者の皆様。肺が空気を求めるのと同じように、すべての人格は本性的に善い人生を欲します。しかし、善い人生を見いだすのはなんと難しいことでしょうか。真の友情を見いだすのはなんと難しいことでしょうか。何世紀も前に、聖アウグスティヌスは、わたしたちの心の奥底にある望みを理解しました。それは、現代のテクノロジーの発展を知らなくても、すべての人の心の望みです。アウグスティヌスも嵐のような青年時代を過ごしましたが、彼は自己満足することも、心の叫びを黙らせることもしませんでした。アウグスティヌスは真理を探求しました。決して失望させることのない真理、色あせることのない美を探求しました。彼はどのようにしてそれを見いだしたのでしょうか。どのようにして、真の友情、希望を与えることのできる愛を見いだしたのでしょうか。それは、自分をすでに探していたかたを見いだすことによってです。イエス・キリストを見いだすことによってです。アウグスティヌスはどのようにして未来を築いたのでしょうか。つねに自分の友であるかたに従うことによってです。アウグスティヌスのことばによれば、「キリストにおける友情以外に、真の友情は存在しない」のです。(以上スペイン語。以下英語。)真の友情は真理と愛と尊敬とともにつねにイエス・キリストのうちにあります。(以下スペイン語。)「ただキリストにおいてのみ友情は不変で幸せなものとなり得ます」(『ペラギウス派の二書簡駁論』[Contra duas epistulas Pelagianorum I, I, 1〔畑宏枝訳、『アウグスティヌス著作集29 ペラギウス派駁論集(3)』教文館、1999年、297-298頁〕])。「友のうちに神を愛する人は、真に友を愛する」(『説教集』[Sermones 336, 2])。アウグスティヌスはそういっています。信仰の基盤であるキリストとの友愛は、未来を築くための多くの助けの一つにすぎません。それはわたしたちの導きの星です。福者ピエル・ジョルジョ・フラッサーティが述べるとおり、「信仰と、守るべき遺産と、真理のためのたえざる戦いなしに生きることは、生きることではなく、日々を暮らしていくことにすぎない」(『書簡(1925年2月27日)』[Lettere])。わたしたちの友情がイエスとの深い絆を反映するとき、それは確かに誠実で寛大で真実なものとなるのです。
親愛なる若者の皆様。(以上スペイン語。以下イタリア語。)互いに愛し合おうではありませんか。キリストのうちに互いに愛し合おうではありませんか。他者のうちにイエスを見いだすすべを知ってください。友情は真の意味で世界を変容させることができます。友情は平和への道です。(以下スペイン語。)友情は平和への道です。(以下イタリア語。)
第二の質問――選択する勇気
教皇様。ガイアといいます。19歳のイタリア人です。今晩、ここにいるわたしたち若者は皆、わたしたちの夢と希望と疑いについて教皇様にお話ししたいと望んでいます。わたしたちの年は、わたしたちの未来の道を方向づけるように行うように招かれた、重要な決断によって特徴づけられています。けれども、わたしたちを取り巻く不確実な状況によって、わたしたちは現状にとどまり、未知の未来への恐れによってわたしたちは麻痺しています。わたしたちは、選択することが何かをあきらめることであることを知っています。そのことがわたしたちを立ち止まらせます。しかし、どんなことがあっても、希望は到達可能な目的を示しているとわたしたちは感じています。たとえこの目的が、現在の時の不確実さによって特徴づけられているとしても。
教皇様。わたしの質問はこれです。選択するための勇気をどこに見いだすことができるでしょうか。どうすれば勇気をもち、生きた自由の冒険を生き、根本的で意味に満ちた選択を行うことができるでしょうか。
ご質問くださってありがとうございます。(以下スペイン語)ご質問は、どうすれば選択するための勇気を見いだせるかということです。(以下英語)わたしたちはどこに、選択し、賢い決断を行う勇気を見いだすことができるでしょうか。(以下イタリア語)選択は、人間の根本的な行為です。注意深く見てみるなら、選択は単に何かを選ぶことではなく、誰かを選ぶことであることが分かります。強い意味で、わたしたちが選択を行うとき、わたしたちはどのような者になりたいかを決断します。実際、優れた意味での選択とは、自分の人生に対する決断です。わたしはどのような人間になりたいのか。親愛なる若者の皆様。わたしたちは人生の試練を通して、そして、何よりもまず自分が選ばれたことを思い起こすことによって、選択することを学びます。わたしたちはこの記憶を探求し、育まなければなりません。わたしたちはいのちを、自分で選ぶことなく、無償で(gratis)与えられました。わたしたちの存在の起源にあるのは、自分の決断ではなく、わたしたちを望んだ愛です。わたしたちが行うように招かれた選択において、この恵みを認め、新たにすることをわたしたちの存在を通して助けてくれる人こそが、真の友です。
親愛なる若者の皆様。皆様は適切にもこういわれました。「選択することは何かをあきらめることです。そのことがわたしたちを立ち止まらせます」。自由になるためには、堅固な土台、わたしたちの歩みを支える岩から出発しなければなりません。この岩は、わたしたちに先んじ、わたしたちを驚かせ、わたしたちを限りなく超える愛です。それが神の愛です。だから、神の前で、選択することは、何か善いものを取り去ることではなく、つねにより善いものをもたらす判断となるのです。
選択する勇気は、神がキリストのうちにわたしたちに示してくださった愛から生じます。キリストはご自身のすべてをもってわたしたちを愛してくださいました。こうしてキリストは世を救い、いのちを与えることがわたしたちの人格を実現するための道であることを示してくださいました。だから、イエスと出会うことは、わたしたちの心の奥底の期待にこたえます。なぜなら、イエスは人となった神の愛だからです。
このことについて、25年前、まさにわたしたちが今いるこの地で、聖ヨハネ・パウロ二世はこう述べました。「皆さんが幸福を夢見るときに、皆さんが求めているのはイエスです。何ものも皆さんを満足させることができないとき、皆さんを待っているのはイエスです。このかたこそが、皆さんを深く引き寄せる美です。このかたこそが、皆さんに妥協することを許さない、根本的な渇きを皆さんに抱かせます。このかたこそが、人生を偽らせる仮面を脱ぎ捨てるように皆さんを促します。このかたこそが、他の人々が押さえつけようとする真の決断を心の中で読み取らせてくださいます」(「第15回ワールドユースデー前晩の祈り(2000年8月19日)」。恐れは希望に場所を譲ります。なぜなら、わたしたちは、神が、始めたことを完成させてくださることを確信しているからです。
わたしたちは真に愛する人のことばの中に真実を見いだします。なぜなら、その人たちは真に愛されているからです。「主よ、あなたはわたしのいのちです」。司祭と奉献生活者は、喜びと自由に満ちてこう告げ知らせます。「主よ、あなたはわたしのいのちです」。「わたしはあなたを、花嫁、また花婿として受け入れます」。このことばが、結婚において、男女の愛を神の愛の力強いしるしへと造り変えます。これこそが根本的な選択であり、意味に満ちた選択です。結婚、司祭叙階、奉献生活は、自由に、また自分を自由にしながら、自らを与えることを表します。それがわたしたちを真の意味で幸福にするのです。そこにわたしたちは幸福を見いだします。そのときわたしたちは、自分自身を与えることを、他者のためにいのちを与えることを学ぶからです。
このような選択は、わたしたちの人生に意味を与え、それを完全な愛であるかたの姿へと造り変えます。このかたこそが、わたしたちを造り、あらゆる悪や死からさえ、あがない出してくださるからです。今夜、わたしは二人の女性のことを考えながら、このことを述べています。スペイン人の20歳のマリアと、エジプト出身の18歳のパスカーレです。二人とも青年の祝祭のためにローマに来ることを選びましたが、死が最近の数日に二人を襲いました。ともに二人のために祈りたいと思います。彼女たちの家族、友人、共同体のためにも祈りたいと思います。復活したイエスが彼らを平和とみ国の喜びのうちに迎え入れてくださいますように。「バンビーノ・ジェズ」病院に入院した、もう一人のスペインの若者の友人であるイグナチオ・ゴンサルベスのためにも祈ってくださるようにお願いします。彼のため、その回復のために祈りたいと思います。
困難な選択を行い、イエスにこう述べる勇気を見いだしてください。「主よ、あなたはわたしのいのちです」。ありがとうございます。(以上イタリア語。以下英語。)
第三の質問――善への招きと沈黙の価値
教皇様。わたしの名前はウィルです。20歳で、アメリカ合衆国から来ました。心の中で、より深いものにあこがれる多くの若者を代表して質問したいと思います。わたしたちは、一見すると表面的で深く考えることのない世代と判断されるかもしれませんが、内的生活に心を引かれています。わたしたちは心の奥底で、真理の源泉である美と善に引き寄せられているのを感じます。この前晩の祈りの中で、沈黙の価値がわたしたちを引きつけます。時として沈黙は空虚な感覚のゆえに恐れを感じさせるにしても。教皇様。お尋ねします。わたしたちはどうすれば人生の中で復活した主と真の意味で出会い、試練と不確実さの中でも主の現存を確信することができるでしょうか。
この聖年を招集するにあたり、教皇フランシスコは『希望は欺かない』(Spes non confundit)という文書を発表しました。この文書の中で教皇はこう述べています。「希望はよいものへの願望と期待として、一人ひとりの心の中に宿っています」(『希望は欺かない』1[Spes non confundit])。聖書の中で「心」は普通、わたしたちの良心を含む、人格のもっとも深い存在を意味します。それゆえ、わたしたちの善いものに関する理解は、わたしたちの人生の中で良心が人々によってどのように形成されたかを反映します。すなわち、わたしたちに親切にしてくれた人々、愛をもってわたしたちに耳を傾けてくれた人々、わたしたちを助けてくれた人々です。これらの人々は皆様を善へと高め、それゆえ、皆様の良心を日々の選択において善を求めるように形成する助けとなってくれたのです。
親愛なる若者の皆様。イエスはわたしたちの良心の形成においてつねにわたしたちに同伴してくださる友です。真の意味で復活した主に出会いたいなら、イエスのことば、すなわち救いの福音に耳を傾けてください。生き方を反省し、より人間らしい世界を築くために正義を追求してください。貧しい人に奉仕し、そこから、つねに隣人にしてほしいと望む善をあかししてください。聖体のうちにイエス・キリストと一致してください。永遠のいのちの源泉である至聖なる秘跡のうちにキリストを礼拝してください。イエスの模範に従って学び、働き、愛してください。イエスはつねにわたしたちとともに歩んでくださるよい先生だからです。
善を求めるすべての歩みにおいて、イエスにお願いしようではありませんか。主よ、一緒にお泊まりください(ルカ24・29参照)。一緒にお泊りください。なぜなら、わたしたちは、あなたなしでは、望む善を行うことができないからです。あなたはわたしたちの善を望まれます。まことに、主よ、あなたこそがわたしたちの善です。あなたに出会う人は、他の人もあなたに出会うことを望みます。なぜなら、あなたのことばは、もっとも暗い夜をも照らす、いかなる星よりも明るい光だからです。教皇ベネディクト十六世はしばしば、信じる人は独りきりではないといいました。いいかえるなら、教会の中で、すなわち、真実にキリストを求める人々の交わりの中で、わたしたちはキリストと出会います。主ご自身がわたしたちを集めて共同体を形成してくださいます。それは単なる共同体ではありません。互いに支え合う、信じる者の共同体です。どれほど世界は、正義と平和をあかしする福音の宣教者を必要としていることでしょうか。どれほど未来は、希望の証人を必要としていることでしょうか。親愛なる若者の皆様。これがわたしたち一人一人に復活した主がゆだねた課題です。
聖アウグスティヌスはこう述べています。「よろこんで、讃えずにはいられない気持にかきたてる者、それはあなたです。あなたは私たちを、ご自分にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。〔……〕主よ、私はあなたを〔……〕たずね、信じながら呼び求めたい」(『告白』[Confessiones I, 1〔山田晶訳、『世界の名著14 アウグスティヌス』中央公論社、1968年、59-60頁〕])。アウグスティヌスのことばに従いながら、皆様の質問にこたえて、わたしは皆様一人一人をこう招きたいと思います。主にこういってください。「イエスよ、わたしを招いてくださってありがとうございます。わたしの望みは、あなたの友の一人にとどまることです。そして、あなたにつかまりながら、わたしも,わたしが出会うすべての人のための旅の同伴者になりたいと思います。ああ主よ。わたしの限界と弱さにかかわらず、わたしに出会う人があなたと出会うことができますように」。これらの祈りのことばを通して、わたしたちの対話は、わたしたちが十字架につけられた主を仰ぎ見るたびごとに継続します。なぜなら、わたしたちの心は主と一つに結ばれるからです。聖体のうちにキリストを礼拝するたびごとに、わたしたちの心はキリストに一つに結ばれます。最後に、わたしは皆様のために祈ります。皆様が喜びと勇気をもって、信仰に堅くとどまることができますように。そうすれば、わたしたちはこういうことができます。「イエスよ、わたしたちを愛してくださったことを感謝します」。(以下、イタリア語。)イエスよ、わたしたちを招いてくださったことを感謝します。(以下、英語とイタリア語とスペイン語。)主よ、一緒にお泊まりください。
