
2025年9月7日(日)年間第23主日の午前10時(日本時間同日午後5時)からサンピエトロ広場で行った、ピエル・ジョルジョ・フラッサーティ(1901-25年)、カルロ・アクーティス(1991-2006年)列聖式ミサ説教( […]
おはようございます。主日によくおいでくださいました。ありがとうございます。
兄弟姉妹の皆様。今日は全イタリア、全教会、全世界にとってすばらしい祝日です。荘厳な列聖式を始める前に、皆様に一言ご挨拶申し上げたいと思います。なぜなら、この祭儀はたいへん荘厳なものであると同時に、大きな喜びの日だからです。とくに、このミサのためにおいでくださった若者と子どもたちにご挨拶したいと思います。さまざまな国から来た皆様とともにいられることは、本当に主の祝福です。これこそまことに、わたしたちが分かち合いたい信仰のたまものです。
ミサの後、少し我慢していただけるなら、広場で皆様のところに行き、ご挨拶したいと希望します。ですから、もし今遠くにおられても、少なくともご挨拶できればと思います。
間もなく聖人となる二人の福者のご家族、公式代表団、来てくださった多くの司教と司祭の皆様にご挨拶申し上げます。皆様に拍手を送ります。ここにおられる皆様にも感謝します。男女修道者とカトリック・アクションの皆様。
わたしたちは、祈りと、開いた心で、主の恵みを受けることを心から願いながら、この典礼の準備をしています。わたしたちは皆、ピエル・ジョルジョとカルロが体験していたのと同じものを心の中で感じています。それは、イエス・キリストへの愛、とくに聖体への愛、また、貧しい人々、兄弟姉妹への愛です。皆様も、わたしたち皆も、聖人となるように招かれています。神が皆様を祝福してくださいますように。よいミサとなりますように。ここに来てくださり、ありがとうございます。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
第一朗読の中で、わたしたちは一つの問いを耳にしました。「〔主よ、〕あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれが御旨を知ることができたでしょうか」(知9・17)。わたしたちはこれを、ピエル・ジョルジョ・フラッサーティとカルロ・アクーティスという二人の若い福者が聖人として宣言された後に耳にしました。これは摂理的なことです。実際、知恵の書のこの問いは、ソロモン王という、彼らと同じような若者が述べたものとされています。ソロモン王は、父ダビデの死後、多くのものを自由にできることに気づきました。権力と富と健康と若さと美と王国です。しかし、まさにこの豊かな富が、彼の心の中に一つの問いを生みます。「何も失わないために、何をすべきだろうか」。そして、彼は悟りました。答えを見いだすための唯一の道は、神にさらに大きなたまものを求めることだということを。すなわち、神の計画を知り、それに忠実に従うために、神の知恵を求めることだということを。実際、ソロモンは、このようにして初めて、すべてのことが主の偉大な計画の中に位置を見いだすことを悟りました。たしかに、人生の最大の危険は、神の計画の外で人生を浪費することだからです。
イエスも福音の中で、徹底的に従わなければならない計画についてわたしたちに語ります。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14・27)。イエスはまたこういわれます。「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33節)。すなわちイエスはわたしたちを、ご自身の霊に由来する知恵と力をもって、ご自分がわたしたちに示す冒険にためらうことなく身を投じるように招きます。そして、わたしたちは、みことばを聞くために、自分自身と、自分が執着しているものや考えを捨てれば捨てるほど、この知恵と力を受け入れることができるのです。
何世紀にわたって、多くの若者がこのような人生の岐路に直面しなければなりませんでした。アッシジの聖フランシスコのことを考えてください。フランシスコも、ソロモンと同じように、栄光と名声を欲する、裕福な若者でした。そのため彼は、「騎士」の称号を与えられ、栄誉を得ることを望んで、戦争に出かけました。しかし、イエスは旅の途中で彼に現れ、彼がしていることについて反省させました。フランシスコは我に返り、神に単純な問いかけを行いました。「主よ、わたしに何をお望みですか」(1)
。そしてそこから、フランシスコは自分の歩みに立ち戻り、別の物語を書き記し始めたのです。それは、わたしたち皆が知っている、驚くべき聖性の物語です。彼は主に従うために一切を捨て(ルカ14・33参照)、貧しさを生き、兄弟、とくにもっとも弱い者、もっとも小さい者ヘの愛を、自分の父親の金銀や高価な布よりも優先したのです。
ほかにどれほど多くの聖人を思い起こすことができるでしょうか。わたしたちは時として彼らのことを偉大な人物であるかのように描きますが、彼らにとってすべては、彼らがまだ若い時に、神に「はい」と答え、自分のために何も残さずに神に自分を完全にささげた時から始まることを忘れています。このことに関して、聖アウグスティヌスは、自分の人生の「錯綜し紛糾しきった結び目」の中で、心の深いところで一つの声が彼に語りかけたと述べています。「わたしが望むのはあなたです」(2)。このようにして神はアウグスティヌスに新しい方向、新しい道、新しい論理を与えました。これらのもののうちで、アウグスティヌスの存在の何ものも失われることはありませんでした。
このような文脈において、今日わたしたちは聖ピエル・ジョルジョ・フラッサーティと聖カルロ・アクーティスに目を向けます。一人は20世紀初頭の若者であり、もう一人は現代の十代の若者です。二人とも、イエスを愛し、イエスのために進んですべてをささげました。
ピエル・ジョルジョは、学校と教会のグループ――カトリック・アクション、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会、イタリア・カトリック大学同盟、ドミニコ会第三会――を通して主と出会い、祈りと友愛と慈善のうちに、生きることの喜び、キリスト者であることの喜びによって、主をあかししました。貧しい人への支援物資を満載した荷車を引いてトリノの町を回る彼の姿を見て、友人たちは彼のことを「フラッサーティ運送会社」と名づけました。今日においてもピエル・ジョルジョの人生は信徒の霊性にとって光となっています。フラッサーティにとって、信仰は個人の信心ではありませんでした。福音の力と運動団体への所属に突き動かされて、彼は惜しみなく社会に関わり、政治活動に貢献し、熱心に貧しい人への奉仕に身をささげました。
一方、カルロは、両親アンドレアとアントニア――今日、お二人は二人の兄弟フランチェスカとミケーレとともにここにおられます――のおかげで、家庭の中で、後に学校で、そして何よりも小教区共同体でささげられた秘跡のうちに、イエスと出会いました。こうして彼は、祈りとスポーツと勉学と愛を幼年期から青年期の生活に自然に取り入れながら成長しました。
ピエル・ジョルジョとカルロはともに、神と兄弟への愛を、すべての人に与えられた単純な手段を通じて育みました。すなわち、毎日のミサ、祈り、とくに聖体礼拝です。カルロはこういっています。「太陽の前では日に焼ける。聖体の前では聖人となる」。また、こうもいっています。「悲しみとは、自分に目を向けることであり、幸福とは、神に目を向けることだ。回心とは、目を低いところからいと高いところへと移動させること以外ではない。たんに目を動かすだけで十分である」。彼らにとってもう一つの欠かせないことは、頻繁な告解でした。カルロはこう述べています。「わたしたちが本当に恐れるべき唯一のものは罪である」。だから彼は驚きます。なぜなら――彼自身のことばを使えば――「人々は自分の肉体の美しさに関心をもつが、自分の魂の美しさに関心をもたない」からです。最後に、二人は、聖人とおとめマリアに深い信心をもち、慈善のわざを惜しみなく実践しました。ピエル・ジョルジョはこう述べています。「貧しい人、病気の人の周りに、わたしは自分たちがもっていない光を見いだす」(3)。彼は慈善を「わたしたちの宗教の基盤」と呼び、カルロと同じように、とくにしばしば隠れた小さな行いを通してそれを実践しました。彼は、教皇フランシスコが「身近な霊性」(使徒的勧告『喜びに喜べ』7[Gaudete et exsultate])と呼んだものを生きたのです。
病が彼らを襲い、若いいのちを奪うまで、病は彼らを止めることなく、彼らが愛し、神に自らをささげ、神をたたえ、自分とすべての人のために祈ることをやめさせませんでした。ある時、ピエル・ジョルジョはこういっています。「死の日は私の人生でもっともすばらしい日になるだろう」(4)。ヴァル・ディ・カンツォ山に登り、頂上に顔を向ける姿を映した最後の写真に、彼はこう記しています。「高みに向けて」(5)。さらに、カルロは若い時から、よくこういっていました。天国はつねにわたしたちを待っている。明日を愛することは、今日、自分のいちばんよい実りをささげることであると。
愛する皆様。聖ピエル・ジョルジョ・フラッサーティと聖カルロ・アクーティスは、わたしたち皆を、とくに若者を招きます。人生を浪費せず、むしろそれを高いところへと向け、傑作を造るようにと。二人のことばはわたしたちを励まします。カルロは「わたしではなく、神を」といいました。ピエル・ジョルジョはいいます。「もし神があなたのすべての行いの中心にあるなら、そのとき目的に到達することになる」。これは彼らの聖性の、単純ではありますが優れた定式です。それは、人生を極みまで味わい、天の宴で主と出会うために、わたしたちが従うように招かれたあかしでもあります。
