
2025年9月15日(月)午後5時(日本時間16日午前0時)からサンピエトロ大聖堂で行った、聖年の慰めの祝祭前晩の祈りの講話(原文イタリア語)。 ――― 「慰めよ、わたしの民を慰めよ」(イザ40・1)。この預言者イ […]
2025年9月15日(月)午後5時(日本時間16日午前0時)からサンピエトロ大聖堂で行った、聖年の慰めの祝祭前晩の祈りの講話(原文イタリア語)。
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「慰めよ、わたしの民を慰めよ」(イザ40・1)。この預言者イザヤの招きは、今日、わたしたちにも命令として届きます。それはわたしたちを招きます。弱さ、悲しみ、苦しみの状況を生きる多くの兄弟姉妹と神の慰めを分かち合うようにと。悲しみと絶望と病と嘆きのうちにある人々に対して、苦しみを終わらせ、それを喜びに変えることへの主の望みに関する、預言者のはっきりとした力強い告知が響き渡ります。この意味で、あかしをしてくださった二人のかたに改めて感謝申し上げたいと思います。すべての苦しみは、イエス・キリストの恵みによって変容させることが可能です。ありがとうございます。キリストのうちに肉となったこの憐れみ深いことばが、福音書がわたしたちに語る、善いサマリア人です。善いサマリア人は、わたしたちの傷をいやし、わたしたちの世話をしてくれます。暗闇のときにも、すべてが反対のことを示していても、神はわたしたちを独りきりにしません。むしろ、このような逆境のときにこそ、わたしたちは、わたしたちを決して見捨てない主が近くにいてくださることを、これまでにまして希望するように招かれます。
わたしたちは自分を慰めてくれる人を探しますが、しばしばそのような人を見いだすことができません。時として、心からわたしたちと苦しみを分かち合おうとしてくれる人の声が、耐えがたいものとなることがあります。たしかに、ことばが役に立たず、ほとんどうわべだけのものとなるような状況が存在します。このような時に残るのは、もしかすると、涙だけかもしれません。涙が枯れ果ててしまわないかぎり。教皇フランシスコは、イエスの空の墓の前で、途方に暮れて一人で泣いていたマグダラのマリアのことを思い起こしました。教皇はいいます。「マリアはただ泣いています。わたしたちの人生には、時として、イエスを見るためのレンズが涙であることがあります。わたしたちの人生には、涙だけがイエスを見るために自分を整えてくれるような時があります。この女性のメッセージは何でしょうか。『わたしは主を見ました』(ヨハ20・18)です」(1)。
親愛なる姉妹兄弟の皆様。涙は、傷ついた心の深い感情を表現する言語です。涙は、憐れみと慰めを願う、沈黙の叫びです。しかし、それ以上に、涙は、目と感覚と思考の解放と清めです。泣くことを恥じる必要はありません。泣くことは、自分の悲しみと、新たな世界への望みを表現する方法です。泣くことは、弱く、試練にさらされながら、喜びへと招かれた、わたしたちの人間性を語る言語なのです。
苦しみがあるところでは、どうしても問いが生じます。いったい、なぜこのような悪が存在するのだろうか。悪はどこから来るのだろうか。なぜ悪がわたしに降りかからなければならないのだろうか。聖アウグスティヌスはその『告白』の中で、次のように述べています。「悪はどこから生ずるのかと問うてみました。〔……〕悪の根は何で、種子はどのようなものなのだろうか。〔……〕どうしてそんなことがおこるのだろうか。神は善き方として、これらすべてのものを善いものに造りたもうたはずなのに。〔……〕このようなことを、私はみじめな胸のうちにとつおいつ考えていました。〔……〕それにもかかわらずカトリック教会のなかで、私たちの主であり救い主であるあなたのキリストへの信仰が、心のうちにゆるぎのない根をおろしはじめていました。それは多くの点でまだ形がととのわず、教えの規範からはずれてぐらついてはいましたが、私の心はそれをすてることなく、かえって日に日に信仰にひたされてゆきました」(Confessiones VII, 5〔山田晶訳、『世界の名著14 アウグスティヌス』中央公論社、1968年、225-227頁〕)。
聖書は、問いから信仰への移行においてわたしたちを導いてくれます。実際、わたしたちを自分自身にかがみこませ、わたしたちの心を現実から切り離してしまう問いもあります。何も生み出すことのできない思考も存在します。問いがわたしたちを孤立させ、絶望させるなら、それは知性をもおとしめます。しかし、詩編で行われているとおり、問いは、神がわたしたちに約束された正義と平和に対する抗議、嘆き、願いとなるべきです。そうすれば、たとえ答えがないように思われるときでも、わたしたちは天に橋をかけることができます。わたしたちは教会の中で、開かれた天である、イエスを求めます。イエスは神のわたしたちへの架け橋だからです。嵐の中のボートのように「形がととのわず、ぐらついていた」ように思われる信仰が、「ゆるぎのない」ものとなるとき、わたしたちに慰めが訪れます。
悪が存在するところでは、悪に打ち勝ち、悪に息をつかせることをしない、励ましと慰めを求めなければなりません。教会の中で、それは、決して独りきりにならないことです。あなたを慰め、あなたとともに泣き、あなたに力を与えてくれる人の肩にもたれかかることは、だれも奪うことのできない薬です。なぜなら、それは愛のしるしだからです。苦しみが深いときには、交わりから生まれる希望がますます強力なものとならなければなりません。この希望は欺くことがありません。
わたしたちが耳にしたあかしは、次の確信を伝えてくれます。苦しみが暴力を生み出してはなりません。暴力が勝利を収めることはありません。なぜなら、愛は暴力に打ち勝つからです。愛はゆるすことを知っているからです。わたしたちは、ゆるしから生まれる解放以上に大きな解放を、望むことができるでしょうか。ゆるしは、たとえどのような暴力を受けたとしても、恵みによって、心を開くことができるからです。受けた暴力を消し去ることはできませんが、暴力を振るった人に対するゆるしは、地上における神の国の先取りであり、悪を終わらせ、正義を打ち立てる、神のわざが生み出す実りです。あがないは憐れみであり、わたしたちがまだ主の再臨を待ち望んでいる間に、未来をよりよいものとすることができます。主だけが、あらゆる涙をぬぐい取り、歴史の巻物を開いて、わたしたちが今日、正当化することも理解することもできない頁を読むことを可能にしてくださいます(黙5章参照)。
兄弟姉妹の皆様。不正や虐待の暴力を受けた皆様にも、今日、マリアは繰り返してこういわれます。「わたしはあなたの母です」。そして主は、心の奥底で皆様にこういわれます。「あなたはわたしの子です」(ヨハ19・26-27参照)。一人一人の人に与えられたこの個人的なたまものを、だれも取り去ることはできません。残念ながら、教会の中のある人々は皆様を傷つけました。しかし、教会は、今日、皆様とともに、聖母の前にひざまずきます。わたしたちが皆、もっとも小さい人、もっとも弱い人を優しく守ることを、聖母から学ぶことができますように。わたしたちが皆様の傷に耳を傾け、ともに歩むことを学びますように。人生は、受けた悪によってのみ定義されるのではなく、わたしたちを決して見捨てず、教会全体を導かれる、神の愛によって定義されます。このことを知る力を、わたしたちが悲しみの聖母から受け取ることができますように。
さらに、聖パウロのことばは、わたしたちに次のことを教えます。神から慰めを受けるとき、わたしたちも他者に慰めを与えることができるようになります。使徒パウロはいいます。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(二コリ1・4)。わたしたちの心の秘密は神に隠されることがありません。自分の力にのみ頼ることができると錯覚して、神に慰めていただくことを妨げてはなりません。
兄弟姉妹の皆様。この前晩の祈りの終わりに、皆様には小さな贈り物が与えられます。それは「神の小羊」(Agnus Dei)です。「神の小羊」は、イエスの神秘を、すなわち、イエスの死と復活と、悪に対する善の勝利の神秘を思い起こすために、わたしたちの家に持ち帰ることのできるしるしです。イエスは、慰め主である聖霊を与える小羊です。この慰め主は、わたしたちを決して見捨てることなく、必要なときにわたしたちを慰め、恵みによって力づけてくださいます(使15・31参照)。
死によってわたしたちから引き離された、わたしたちが愛する人々は、失われたのでも、むなしく消え去ったのでもありません。彼らのいのちは主に属しています。主は、善い羊飼いとして、彼らを抱き寄せ、ご自分にしっかりと結びつけ、いつの日かわたしたちのもとに返してくださいます。その日、わたしたちは、永遠の幸福をともに味わうことができるのです。
愛する皆様。個人の苦しみが存在するのと同じように、現代には、人類全体の集団的な苦しみも存在します。これらの人々は、暴力と飢餓と戦争の重荷に押しつぶされながら、平和を願い求めています。この大きな叫び声は、あらゆる暴力をなくし、苦しむ人々が安らぎを再び見いだせるために、祈り、行動するように、わたしたちを義務づけます。しかし、それは何よりもまず神のわざです。神は、憐れみに震える思いをもって、み国の到来を待ち望むからです。わたしたちが伝えることができなければならない真の慰めは、次のことを示すことです。すなわち、平和は可能です。そして、平和は、わたしたちがそれを押さえつけないかぎり、わたしたち一人一人の中で芽生えます。各国の政治指導者が、とくに罪のない子どもの叫び声に耳を傾け、この子どもたちを保護し、慰める未来を、彼らに保障してくれますように。
これほどの暴虐がはびこる中でも、わたしたちは確信しています。神は、助けと慰めをもたらす手と心を、苦しみと悲しみのうちにある人々を励ますことのできる、平和を実現する人々を、豊かに与えてくださるということを。イエスがわたしたちに教えてくださったとおり、ともに真心をもって、祈り求めようではありませんか。「み国が来ますように」。
