教皇レオ十四世、2025年10月19日、イグナチオ・マロヤンら七名の列聖式ミサ説教

2025年10月19日(日)年間第29主日の午前10時30分(日本時間同日午後5時30分)からサンピエトロ広場で行った、イグナチオ・チョウクララ・マロヤン(司教・殉教者、トルコ 1869-1915年)、ピーター・トロット […]

2025年10月19日(日)年間第29主日の午前10時30分(日本時間同日午後5時30分)からサンピエトロ広場で行った、イグナチオ・チョウクララ・マロヤン(司教・殉教者、トルコ 1869-1915年)、ピーター・トロット(信徒・殉教者・パプアニューギニア 1912-1945年)、ヴィンチェンツァ・マリア・ポローニ(修道女・イタリア 1802-1855年)、マリア・デル・モンテ・カルメン・レンディレス・マルティネス(修道女・ベネズエラ 1903-1977年)、マリア・トロンカッティ(修道女・イタリア・エクアドル 1883-1969年)、ホセ・グレゴリオ・ヘルナンデス・シスネロス(信徒・ベネズエラ 1864-1919年)、バルトロ・ロンゴ(信徒・イタリア 1841-1926年)の7福者の列聖式ミサ説教(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 たった今朗読された福音の結びの問いかけがわたしたちの考察を促します。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18・8)。この問いは、主の目にもっとも貴いものをわたしたちに示します。それは、信仰、すなわち、神と人との間の愛のきずなです。今日、わたしたちの前に七名の証人、新しい聖人が立っています。この人々は神の恵みにより信仰のともしびをともし続けました。そればかりか、彼ら自身がキリストの光を広めることのできるともしびとなりました。

 偉大な物質的・文化的・科学的・芸術的な善よりも信仰が優れているのは、前者が軽蔑されるべきものだからではなく、信仰がなければそれらが意味を失うからです。神との関係は何よりも重要です。なぜなら、神は世の始まりに万物を無から造り、時の中で終わるすべてのものを無から救うからです。地上に信仰がなければ、子らは父なしに、被造物は救いなしに地に住むことになります。

 だから、人となった神の子であるイエスは、信仰について問いかけます。もし自分が世からいなくなれば、何が起きるだろうかと。天と地はそれまでと同じようにとどまっても、わたしたちの心に希望はなくなります。すべての人の自由は死に打ち負かされます。わたしたちのいのちへの望みは無へと崩れ落ちます。神への信仰がなければ、わたしたちは救いを希望することができません。それゆえ、イエスの問いかけはわたしたちを不安にします。しかし、この問いを発したのがイエスご自身であることを忘れてはなりません。実際、主のことばはつねに福音であり続けます。すなわち、喜びに満ちた救いの知らせであり続けます。この救いは、わたしたちが、聖霊の力により、御子を通して、御父から受ける、永遠のいのちのたまものです。

 愛する皆様。だからこそイエスは弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを」(ルカ18・1)教えたのです。わたしたちは息をするのに疲れることはありません。それと同じように、わたしたちはうむことなく祈らなければなりません。呼吸がからだの生命を支えるのと同じように、祈りは霊魂の生命を支えます。実際、信仰は祈りの中で表され、真の祈りは信仰によって生かされます。

 イエスはこのつながりをたとえ話によってわたしたちに示します。ある裁判官がいて、彼はやもめのしつこい要求に耳を貸そうとしません。しかし、やもめが粘り強く戸をたたき続けると、ついに裁判官は裁判を行います。一見すると、この粘り強さは、わたしたちにとって、とくに試練や苦難のときの希望のすばらしい例であるように見えます。しかし、女の粘り強さと裁判官の不承不承の態度は、イエスの挑発的な問いの前提となります。いつくしみ深い父である神は、「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」(ルカ18・7)。

 このことばをわたしたちの良心のうちで響かせようではありませんか。主はわたしたちに、神がすべての人の正しい裁き主であることを信じるかどうかを、わたしたちに問いかけます。御子はわたしたちに、御父がつねにわたしたちの善とすべての人の救いを望んでおられることを信じるかどうかを、尋ねます。このことに関して、二つの誘惑がわたしたちの信仰を試します。第一の誘惑は、悪のつまずきから力をくみ取ります。それは、神が抑圧された人々の叫びに耳を傾けず、罪のない人々の苦しみを憐れまないとわたしたちに考えさせます。第二の誘惑は、神がわたしたちの望みどおりに行動されるはずだと思い込むことです。すると祈りは、どのように正しく効果的に行動し、存在するかを自分たちに教えるようにという、神への命令に変わります。

 子としての信頼の完全な証人であるイエスは、この二つの誘惑からわたしたちを解放します。イエスは、罪のないかたとして、とくに受難の際に次のように祈ります。「父よ、御心のままに行ってください」(ルカ22・42参照)。これは、師であるかたが主の祈りの中でわたしたちに教えてくださったのと同じことばです。イエスは、何が起ころうとも、子として御父に身をゆだねます。それゆえ、わたしたちは、イエスの名における兄弟姉妹として、こう唱えます。「聖なる父よ、 最愛の子イエス・キリストを通して、 いつどこでもあなたに感謝をささげることは、まことにとうとい大切な務めです」(第二奉献文叙唱)。

 教会の祈りは、神がすべての人のためにご自分のいのちを与えることによって、すべての人に正義を行われることをわたしたちに思い起こさせます。それゆえ、「あなたはどこにおられるのですか」とわたしたちが主に叫ぶとき、わたしたちはこの呼びかけを祈りに変え、神が罪のない人が苦しんでいるところにおられることを見いだします。キリストの十字架は神の義を現します。そして、神の義はゆるしです。神は悪に目を留め、それをご自身に負うことによって、悪をあがないます。わたしたちが苦しみや暴力、憎しみや戦争によって十字架につけられるとき、キリストはすでにそこにおられます。わたしたちのために、わたしたちとともに十字架上におられます。神が慰めることのない悲しみはありません。神のみ心から遠く離れた涙はありません。主はわたしたちに耳を傾け、ありのままの姿のわたしたちを抱きしめ、わたしたちをご自身の姿へと造り変えてくださいます。しかし、神の憐れみを拒絶する人は、隣人を憐れむことができません。平和をたまものとして受け入れない人は、平和を与える道を知りません。

 愛する皆様。今、わたしたちは、イエスの問いかけが希望と行動への力強い招きであることを理解できます。人の子が来られるとき、神の摂理への信仰を見いだすだろうか。実際、この信仰が、わたしたちの正義への取り組みを支えます。なぜなら、わたしたちは、神が愛のゆえに世を救い、わたしたちを運命論から解放してくださることを信じているからです。それゆえ、わたしたちはこう自らに問いかけます。困難のうちにある人々の訴えを耳にするとき、わたしたちは御父の愛の証人となっているだろうか――キリストがすべての人に対して御父の愛の証人であったのと同じように。キリストは、へりくだる者として、権力のある人を回心させ、正しい者として、わたしたちを正しい者にします――今日、新しい聖人たちがあかしするように。この聖人たちは、英雄でも、何らかの理想の擁護者でもなく、真の人間です。

 これらのキリストの忠実な友は、その信仰のゆえに殉教しました――司教イグナチオ・チョウクララ・マロヤンとカテキスタのピーター・トロットのように。福音をのべ伝える者、宣教者でした――マリア・トロンカッティ修道女のように。カリスマ的な会の創立者でした――ヴィンチェンツァ・マリア・ポローニ修道女や、カルメン・レンディレス・マルティネス修道女のように。信心への熱心な心をもった、人類への慈善家でした――バルトロ・ロンゴと、ホセ・グレゴリオ・ヘルナンデス・シスネロスのように。彼らの執り成しが試練のうちにあるわたしたちを支え、彼らの模範が聖性への共通の召命へとわたしたちを促しますように。この目的をめざして歩みながら、うむことなく祈ろうではありませんか。わたしたちが学んで確信したことを堅固に守りながら(二テモ3・14参照)。こうして、地上における信仰は天への希望を支えるのです。

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