教皇レオ十四世、2025年11月8日、聖年の講話 8.希望するとは、あかしすることである――イシドール・バカンジャ(一コリ1・26-27)

2025年11月8日(土)午前10時(日本時間同日午後6時)からサンピエトロ広場で行われた聖年の謁見での講話(原文イタリア語)。 講話8.希望するとは、あかしすることである――イシドール・バカンジャ  親愛なる兄弟姉妹の […]

2025年11月8日(土)午前10時(日本時間同日午後6時)からサンピエトロ広場で行われた聖年の謁見での講話(原文イタリア語)。


講話8.希望するとは、あかしすることである――イシドール・バカンジャ

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。ようこそおいでくださいました。

 聖年の希望は、神への驚きから生まれます。神は、わたしたちが慣れ親しんでいるものとは異なります。聖年は、わたしたちがこの違いを認め、現実の生活に反映させるように促します。だから聖年は恵みの年です。わたしたちは変わることができます。わたしたちは、主の祈りで「天に行われるとおり地にも行われますように」と唱えるときに、このことをつねに願うのです。

 聖パウロはコリントの信徒にあてて書いた手紙の中で、彼らの間で地がすでに天に似たものになり始めていることに気づくように招きます。パウロは、彼らが自分たちの召命について考え、そうでなければ集まることのなかった人々を神が出会わせてくれたことに目を向けるようにと語ります。家柄がよいわけでなく、能力のない人々が、今や貴い、重要な者となっています(一コリ1・26-27参照)。つねにもっとも小さい者から始める神の基準は、コリントにおいてすでに「地を揺るがすもの」となっています。この「地震」は、世を破壊するのではなく、再び目覚めさせます。パウロがあかしする十字架のことばは、良心と、一人ひとりの人の尊厳を再び目覚めさせるのです。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。〈希望するとは、あかしすることです〉。すべてのことがすでに変わり、何も元のままではないことをあかしすることです。そのため今日は、アフリカにおける一人のキリスト教的希望の証人について皆様にお話ししたいと思います。すなわち、1994年からコンゴの信徒の守護聖人、福者となった、イシドール・バカンジャ(1885-1909年)です。イシドール・バカンジャは、コンゴがベルギーの植民地だった、1885年に生まれました。町に学校がなかったため、学校に通わず、煉瓦職人の見習いとなりました。彼はカトリックの宣教師、トラピスト会修道士の友となりました。バカンジャは、これらの人々からイエスの話を聞き、キリスト教的教育を受けて、20歳頃に洗礼を授けられました。その時から彼のあかしはますます輝きました。希望するとは、あかしすることです。新たないのちをあかしするとき、困難の中でも光は増し加わります。

 実際、バカンジャは、彼の信仰と誠実さを認めない、良心のかけらもないヨーロッパ人の主人のために農場労働者として働きます。この主人は、キリスト教と、植民者の虐待から先住民を守ろうとした宣教師を憎んでいました。しかし、バカンジャは、おとめマリアの像を描いたスカプラリオを最期の時まで首にかけ、希望を失わずに、あらゆる酷使と拷問に耐えました。希望するとは、あかしすることです。バカンジャは、自分は何の恨みも抱いていないとトラピスト会の司祭たちに宣言しながら、亡くなりました。そればかりか、彼は、自分をそのような目に遭わせた人々のために来世において祈るとまで約束しました。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。これが十字架のことばです。それは、悪の鎖を断ち切る、生きたことばです。それは、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろす、新しい種類の力です。こうして希望が生まれます。北半球の古くからの教会は、新しい教会からこうしたあかしをたびたび受け取ります。このあかしは、正義と平和の国である、神の国に向けてともに歩むようにと促します。とくにアフリカは、このような回心を呼びかけます。そして、多くの若者の証人をわたしたちに示しながら、そうしています。希望するとは、地が本当に天に似たものとなりうることをあかしすることです。これこそが聖年のメッセージです。

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