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特集1 希望の聖年と教会一致の夢
特集2 戦時下に示されたカトリック教会の国家観
特集1 希望の聖年と教会一致の夢
聖年とは「共に歩む」こと
カトリック教会における聖年の歴史は、1300年の教皇ボニファツィオ8世によるサンピエトロ大聖堂巡礼への呼びかけから始まります。当時のヨーロッパでは同じキリスト者でありながら諸侯たちが様々な理由で対立していましたが、「旅は道連れ世は情け」と言うように、巡礼の旅はキリスト者がひとつの信仰のうちに同じ目的地に向かって歩む仲間だということを思い出す機会となりました。
ところで教会は「旅する神の民」、すなわち神の国の完成に向かって歴史の中で歩む信仰者たちの共同体であると言われます。このような意味で、聖年の巡礼はただの観光旅行ではなく、すべてのキリスト者が同じ信仰の道のりを歩む家族であるということを喜ぶための恵みであると言えるでしょう。
信仰で結ばれた兄弟姉妹として
この信仰という旅の中で忘れてはいけないのが、同じ信仰によって結ばれているキリスト教諸教派の兄弟姉妹たちの存在です。歴史の中で様々な要因によってキリスト教は諸教派に分かれてしまいましたが、それにも関わらずキリスト者は主の祈りにおいて「天におられるわたしたちの父よ、み国が来ますように」と唱えるたびに、自分たちが神の国の完成に向かって旅を続ける兄弟姉妹であるという想いを深めていくことができます。だからこそ、もし私たちの心のうちに教会一致を渇望するエキュメニカルな「開き」がなければ、そしてキリスト教諸教派の兄弟姉妹たちに対する愛が欠けているならば、どんなに聖年を盛大に祝ったとしても、それは画竜点睛を欠いたものになるでしょう。
聖年も教会一致も第一歩は「回心」から
カトリック教会において聖年では「免償」を受けることが大切にされますが、これを単なる「期間限定のお得な特典」として解釈するならば、それは浅い理解となるでしょう。むしろ聖年とは、無償の愛を限りなく注いでくださる神に立ち帰る恵みの機会、すなわち「回心」の時です。こうして私たちは罪によって傷つき頑なになってしまった心を神に向ける時、神のゆるしによって癒され、福音(よき知らせ)を喜びをもって生きる力をいただくのです。
ところでこの回心の必要性は、教会一致と切り離すことはできません。第一に、「主の祈り」で唱えられるように、神にゆるされることと兄弟をゆるすことは深く結びついています。カトリック教会を含めキリスト教の諸教派は互いに傷つけ合った歴史を持っていますが、諸教派の兄弟たちと互いにゆるし合わないならば、聖年を心の底から生きることは難しいでしょう。同じ洗礼によって罪がゆるされ神の子とされた兄弟姉妹としての絆を深めてこそ、私たちは聖年において受ける様々な恵みを真に喜び祝うことができるでしょう。
この「ゆるし合う」ことの大切さに加え、教会一致と回心が切り離せない理由がもうひとつあります。それは教会の分裂の根底にあるキリスト者たちの罪です。確かに諸教派の対立の原因には、キリストの福音への忠実さに関する理解や解釈の違いも含まれます。しかし歴史を見てみると、信仰の擁護よりもむしろ、人間の「エゴ」や競争心が教会分裂を増長してきたように思えます。実際に第二バチカン公会議の『教会憲章』第15項では、他教派を批判する前に、まずはカトリック信者一人ひとりが自己の浄化と刷新を生きることが教会一致への第一歩であるということが示されました。諸教派に属するすべてのキリスト者が回心の道を歩むことによってこそ、神の御旨を共に探していくことが可能となるのです。また、教皇ヨハネ・パウロ2世が回勅『キリスト者の一致』第21項で示しているように、回心の道のりは「愛のリズム」によって進んでいくものです。神の愛に満ちた呼びかけに応えていくことは、信仰者が互いに神の愛のうちに交わることへと必然的につながっていくはずなのです。
「キリストにおける一致」のための特別な年
キリスト教諸教派は確かに様々な違いを抱えていますし、特に信仰と職制の理解については互いに簡単には譲れないこともあります。しかしキリスト者はそのような違いよりもはるかに多い共通点で結ばれています。特にキリスト者は文字通りイエス・キリストを主と仰ぐ人々ですから、キリストは教会一致の中心です。それは逆を言えば、私たちはキリストから離れるほど互いにいがみ合ってしまうということでしょう。
イエスが神の子であり全人類の救い主であると信じるキリスト者たちは、解釈や実践が異なることがあろうとも、同じひとつの信仰によって結ばれています。そしてこの信仰を簡潔な言葉で示したものが、主日のミサなどで唱えられる使徒信条やニケア・コンスタンチノープル信条です。実際、多くの場合これらの信条を受け入れていることが、キリスト教に属しているかどうかを見分ける基準とされています。そして特にニケア・コンスタンチノープル信条が作成される最初のきっかけとなった第一ニケア公会議は、キリストの神性についてキリスト教諸教派が共通して抱いている信仰の要を宣言したものとして、教会一致のために非常に重要な意味を持っています。そして私たちがいま祝う2025年の聖年は、まさにこの第一ニケア公会議1700周年という特別な時なのです。これは、キリスト者が信仰においてひとつであるということを思い出すために神が与えてくださった恵みであると言えるでしょう。
祈りにおける一致
このような信仰におけるキリスト者の一致が最も顕著に表れる場が「祈り」です。そもそも教会一致を目指すエキュメニカル運動は、イエスが十字架にかけられる前にゲツセマネの園で御父に捧げた「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ17・21)という祈りを原動力としています。この愛に満ちた祈りに応えてキリストを通して御父に祈りを捧げる時、キリスト者は様々な違いを超えて聖霊によってひとつになっていきます。このように教会一致は根本的には「神からの恵み」であり、エキュメニカル運動はその恵みに忠実であろうとする信仰者の応答であると言えるでしょう。
キリスト者の祈りの中でも頂点と言えるのはエウカリスティア(聖餐)、すなわちミサであり、この聖餐においてこそキリスト者はキリストの体として一致していきます。現時点では聖餐や職制の理解の違いから諸教派間の相互聖餐の夢は叶ってはいませんが、毎年1月18日から25日に行われる「キリスト教一致祈祷週間」や朝祷会など様々な機会でエキュメニカルな祈りの場が試みられています。
今年の復活祭は共に祈る最大のチャンス
聖年は常に「キリスト者はすべて、祈りにおいて共に旅する信仰の家族である」ということを思い起こす素晴らしい機会となりますが、その中でも今回の聖年は特別であると言えます。それは、2025年という年が西方教会(ローマ・カトリック教会やプロテスタント諸教会など)と東方教会(正教会など)が同じ日に復活祭を祝うことができる大きなチャンスだからです。
そもそも「キリストの復活を共に祝う」ということは、教会一致のために不可欠なこととして昔から尊ばれてきました。キリストの復活はキリスト教信仰の意味を根幹から支えるもの(一コリント15・17参照)ですし、またイエスの十字架刑によって四散した弟子たちが再び集まったのも復活した主との出会いからでした。この意味でキリストの復活は、教会一致の土台であるとも言えます。古代教会では復活祭の日付について論争が起きましたが、第一ニケア公会議では全教会が同じ日に復活祭を祝うべきであるということが強調されました。このような歴史的背景の中、「春分の後の満月に続く日曜日」に東西を含めた全教会が一致して復活祭を祝うことができるよう、日付を正確に計算する方法が編み出されていきました。
しかしそれから年月を経て、再び大きな問題が起こりました。キリスト教では古代から東西共に「ユリウス暦」というローマ帝国で使われていた暦を用いていましたが、16世紀になるとこの暦と実際の天体の動きの間にある誤差が大きくなり、復活祭の日付を計算する基準となる春分の日がいつなのかが正確には分からなくなっていきました。これを危惧した教皇グレゴリオ13世は、当時の天体観測技術を駆使してより正確な暦を作るよう命じました。これが現在日本でも西暦として使用されている「グレゴリオ暦」です。これにより西方教会はグレゴリオ暦を採用しましたが、1054年以降西方教会との交わりをほとんど持たなくなっていた東方教会は、それまでの伝統を重んじてユリウス暦をもとに復活祭の日付を決め続けました。こうして東西教会は違う日に復活祭を祝うことになってしまったのです。この事に関しては教皇フランシスコも2014年にエルサレムからローマへの帰路におけるインタビューで次のように嘆いています。
「ねえ、あなたのキリストはいつ復活しますか。」「来週ですよ。」「私のキリストは先週もう復活しましたよ。」と言うのは少し滑稽です。そうです、復活祭の日は一致のしるしなのです。(教皇フランシスコ2014年5月26日、筆者訳)
ところが、この二つの暦の復活祭の日付が数年に一度重なることがあります。そして2025年がまさにその年なのです。前述の通り偶然にも2025年は、教会一致のために復活祭を同一の日に祝う必要性を強調した第一ニケア公会議1700周年でもあり、カトリック教会では聖年も祝われます。すでに見たように聖年はそもそも教会一致と深く結びついている上に、このような偶然が重なるので、教皇フランシスコは聖年公布の大勅書『希望は欺かない』の中でこれを神の御摂理であると述べています。
教皇フランシスコはこれまで、東西教会が今後共に復活祭を祝うことができる日付を模索していく可能性について幾度か言及しています。このためには諸教会間で綿密な話し合いが必要となるため容易なことではありませんが、少なくともこの2025年という恵みの年の復活祭を教会一致のために最大限に活用しなければもったいないでしょう。ぜひ日本でも、カトリック教会とプロテスタント諸教会の間はもちろんのこと、正教会の方々も交えて、共に主の復活の喜びを分かち合うために祈りの場を持つ可能性について考えてみてはいかがでしょうか。
教皇グレゴリオ13世
(シピオーネ・プルツォーネ、16世紀後半、個人蔵)
希望のうちに共に歩む
ここまで聖年と教会一致の関係性について見てきましたが、エキュメニカル運動を促進していくためには今回の聖年のテーマである「希望」がとても大切です。実際に教会一致運動に携わっていると、その困難さを目の当たりにして気を落としそうになることもあります。しかし焦りも絶望も、信仰の歩みを麻痺させてしまいます。たとえまだ互いに多少の距離があっても、神の国に向かって歩む巡礼者として同じ道を歩もうとしているならば、そこには不完全ながらもある種の一致がもうすでに始まっているという希望が見えてきます。
実際、最近の教会一致運動では「レセプティブ・エキュメニズム」(Receptive Ecumenism)、日本語に訳すならば「受容的エキュメニズム」という方法論が注目されています。それはすなわち、キリスト教諸教派が互いのうちに存在する聖霊の賜物を認め合い、その多様性から学び合う姿勢を意味します。確かに、歴史の中で宣言された相互断罪を解こうとする動きはすでに前世紀から見られました。たとえば聖年準備の年であった2024年は、カトリック教会とルーテル教会間の「義認の教理に関する共同宣言」25周年という記念の年でした。しかしこれからはさらに一歩進んで、互いの良いところを積極的に認めてそれを生かし合いつつ、その相互の出会いの中で共にキリストに深く出会っていくということが求められるでしょう。これは自分たちが受け継いできた信仰のあり方を否定することではなく、相手のうちにも自由に働く聖霊に心を開くことなのです。この意味で、「共に歩む教会」としてのシノダリティを深めようとしているカトリック教会は、東西の諸教会の実践から多くを学ぶことができるでしょう。
さらに、教会一致の希望は人類一致の夢にも深く結びつくものです。そもそも前世紀初頭に本格的に始まった教会一致運動は、諸教派間の分裂が宣教にとっての最大の障害であるという宣教者たちの訴えから始まりました。実際、神の愛と兄弟愛の大切さを告げ知らせている一方で諸教派が対立していては、信用に足る証しにはなりえません。まさにキリスト者が心をひとつにして喜びのうちに福音を世に告げ知らせ、共に愛の奉仕に生きてこそ、真の意味でキリストの教会は「人類一致のしるしであり道具」(『教会憲章』第1項)となることができるでしょう。戦争が絶えない今の時代にあって教皇は聖年の大勅書の中で平和実現を呼びかけていますが、その希望の第一歩は教会一致を共に願う心から始まるのです。
最後に、忘れてはいけないのが若者たちの存在です。聖年の大勅書では「若者の夢」の大切さが語られていますが、教会一致においても若者は希望の担い手です。「テゼの歌」で有名なフランスのテゼ共同体の集いでも、また様々な祈りや奉仕の場でも、若者たちは教派を超えてすぐに親睦を深め、キリストにおける信仰によって交わっていきます。この若者たちの純粋な心こそ、イエスがあれほど夢見たキリスト者の一致を実現する力となっていくことでしょう。ぜひ日本でも聖年という神からの贈り物を大切に受け止め、若者たちからも学びながら、全キリスト者が共に信仰の喜びを分かち合うことができるよう希望のうちに力を合わせて歩んでいきましょう。
特集2 戦時下に示されたカトリック教会の国家観
1936(昭和11)年に発行された『公教要理』に、次のような問答があったことをご存じでしょうか(「第三十三課 第四誡(三)」)。
245 君主に対する臣民の義務は何でありますか。
君主は国家の最高の地位に在す御方で国家を治め給う主権者でありますから、臣民たる者は、君主を敬い、愛し、忠節を尽し、又、常に君主の安泰を祈らねばなりません。
246 国家に対する国民の義務は何でありますか。
国家と国民とは盛衰を共にするものでありますから、国民たるものは、愛国の至誠を致し、国憲国法に遵い、兵役、納税などの義務を尽さねばなりません。
また、翌1937年発行の『公教会祈禱文』には、次のような祈りが収録されています。
皇国の為にする祈
あゝ天主、我等は主の御前に平伏し、光輝ある我が大日本帝国に生まれ出でたる幸を、深く主に感謝し奉る。主は主の御光栄のために、我が国に極東に於ける特殊の使命を与え給い、建国以来二千六百年の間、常に天佑と神助とを以て我が国を護り給えり。我等如何にして主の祝福に報いんや。我等は之によりて常に感謝に溢れて、天皇陛下に忠誠を誓い、聖寿の無窮と竹の園生の弥栄とを祈り奉り、一旦緩急ある時は義勇公に奉じて、益々国威を中外に宣揚せんと欲す。願はくは我等の尽忠報国の真心を祝福し給へ。また天上の真理の光を我が国の上に輝かし、救霊の御恩恵をあまねく我が同胞に注ぎ給え。かくて大いなる平和の裡に、外に対しては官民心を一にして国運の発展を計り、内にありては上下相和して太平の治を楽むことを得しめ給え。我等の主キリストによりて。アーメン。
【語注】天祐=天のたすけ。天助。/聖寿=天子の年齢・寿命をいう語。/無窮=きわまりのないこと。永遠。無限。/竹の園生=皇族の異称。/緩急=〔「緩」には意味はない〕危険や災難のさしせまった場合。
なぜ教会は、『公教要理』の中に、このような教えを挿入したのでしょうか。なぜ『公教会祈禱文』の中に、このような祈りを載せたのでしょうか。
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終戦から80年となる2025年にあたって、本特集では、『カトリック的国家観』と題された一冊の本を手掛かりにして、戦前の日本のカトリック教会が、国家や戦争をどのように捉えていたのかについて考えていきます。
教会の戦争責任を問うといったことは、歴史に関して多角的な視点をもってなされるべきものであって、このような特集で簡単に扱えることではありません。ですので本特集は、あくまでも資料を紹介するだけにとどまるものです。しかし、上の二つの引用だけでも、初めて知る人にとっては、大いに衝撃的なのではないでしょうか。ですから、資料の紹介にすぎないとしても、それなりに意味のあることだと思っています。皆さんにとって、戦争について、平和の尊さについて考えるためのきっかけとなれば幸いです。
(引用については、旧字は新字に、旧仮名遣いは新仮名遣いに、また一部の漢字を仮名に、適宜置き換えています)
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『カトリック的国家観』は、1932(昭和7)年12月に刊行されました。筆者は、後に大阪大司教区の初代大司教、そして枢機卿となる、田口芳五郎師です。当時田口師は、この本の発行元である「カトリック中央出版部」の部長(編集長)を務めていました。
『カトリック的国家観』の初版は、以下の6章で構成されています。
第一章 カトリックの国家観
第二章 非カトリック国家とカトリック教会との関係
第三章 忠孝と愛国心とカトリシズム
第四章 カトリックの戦争観
第五章 社会主義、共産主義とカトリシズム
第六章 神社参拝問題を繞りて
翌年出された改訂増補版では、「神社参拝問題を繞りて」という副題が付され、「国際平和とカトリシズム」が第四章として挿入されて、以降繰り下がり、全7章の構成になっています。
改訂増補版で副題が添えられたことからも判断できますが、本書執筆の第一の動機は、初版発行の年の5月に起きた、上智大学生による靖国神社参拝拒否の出来事です。大急ぎで執筆し、同年内の刊行に漕ぎ着けたのでしょう。巻頭には、当時の東京大司教、ジャン・アレキシス・シャンボン師による「序」が寄せられていますが、そこには次のように書かれています。
最も甚しく且危険な錯誤は、最高の権限の賛意に依り、国内に更めて許容されたカトリシズム其自体を、危険思想の中に包含する事である。カトリシズムは、寧ろ、其等危険思想に対し反駁すべき使命を有って居る。(中略)カトリシズムは、天より支配者としての使命を付与せられた者に対しては、臣下としての忠誠を勧奨し、又、祖国を形成するその浩大なる家族の各員の相互間にあっては、家庭的、慈父的精神を慫慂するものである。其故、日本帝国に於ける数十万のカトリック信者等を目して愛国心が薄弱である等と主張するのは、信者等を最も侮辱するものであろう。(原文改行)此の小冊子は、我々に対しての誤れる非難が吐かれた諸点に関し、カトリック教の教義を披瀝する為に記述されたものである。従って、簡明に、卒直に作成されて居る。吾人はあえて何人にも抗弁しようとするものではない。我々を一個のカリカテュールとなしたるに対し、我々は、真正の愛に伴う信頼に拠り、我々の真実の姿を茲に表示するものであるに過ぎない。
【語注】慫慂=他の人が勧めてそうするように仕向けること。
とくに古い書物にあっては、序というものは要するに権威づけですから、このように漢語を多用して、大仰で、もって回った言い方をするものです。ですが、それにしても……という感想を、現代に生きるわたしたちは当然ながらもってしまいます。
いずれにせよ、当時の時局にあって、わたしたちキリスト者には何ら後ろ暗いところはないと声高に弁明しているのが、この『カトリック的国家観』なる書です。
さて、上智大生による靖国神社参拝拒否とは、いかなる出来事だったのでしょうか。
1932年5月5日のことです。配属将校(軍事教練のために学校に配属された現役の陸軍将校のこと)北原一視大佐が、上智大学予科の学生60名を靖国神社に引率しました。その際、3名のカトリック信者の学生が、自身の信仰ゆえに本殿への敬礼を拒否しました。
1896(明治29)年に出された『公教要理』の第一戒(我は主なる汝の神なり、我の外汝に神あるべからず)についての問答には次のようにあります。
○妄信とは何ぞや
△妄信とは世間の神仏を信仰し、偶像を拝み、札、守、占等を信ずるの類なり
○是の外には妄信に属することなきや
△寺に詣で、香花を備え、仏事を営み、神社仏閣に寄附金する等は妄信の罪なり
敬礼を拒否した学生は、この教えに従ったのです。
ちなみに、先に挙げた、この出来事の4年後である1936年に出された『公教要理』では、「妄信」は「迷信」と置き換えられて、次のような記述になっています。
199 迷信とは何でありますか。
迷信とは、天主にのみなすべき礼拝を被造物に対してもすることであります。
200 占、呪などを信じ且行うことは、差支がありませんか。
占、呪などは道理に反くだけでなく、天主に厳しく禁じられておりますから、是等を信じ又行うことは、迷信として之を避けねばなりません。
201 表面だけで迷信の行をなし、又は口先だけで教を棄てることなども罪になりますか。
表面だけで迷信の行をなし、又は口先だけで教を棄てることなどは、総て虚偽の行であって、天主を侮辱し、他人を躓かせることであります。それ故、罪たることを免れません。
以前はあった「世間の神仏」「神社仏閣」といった表現は、ここでは使われていません。
さて北原大佐は、その「事件」を直ちに上層部に報告し、陸軍は配属将校引き揚げの意向を示します。配属将校が引き揚げるというのは、その学校で軍事教練が行われなくなるということで、卒業生が得るはずの、幹部候補生となること、徴兵の猶予、兵役期間の短縮といった恩典を失い、「一般中学卒業生」と同等の資格しか得られなくなることを意味します。それに何よりも、反国家的組織というレッテルを貼られることになります。
そのためシャンボン大司教は、9月22日付で鳩山一郎文部大臣にあてて、学生に求められている靖国参拝の意味について照会する手紙を送ります。国立公文書館に所蔵されている原文は候文ですので、『カトリック的国家観』の最終章に引用形式で示されている、文体が改められたものを引用します。
学校行事として、天主公教徒たる学生生徒児童が神社並に招魂社に参拝を要求せらるるに際して生ずる困難に関して玆に御照会申し上ぐるものでありますが、日本の天主公教徒の忠誠及び愛国心に就いて、或いは天主公教会が日本に於いても他の諸国に於けると同じく正当なる政府の権威に対する衷心よりの尊敬を育成するに貢献する所少なからざる事実に就いては、何人も之を信じて疑わざる所であろうと愚考する次第であります。上述の困難は天主公教徒が自己の信奉する以外の宗教の儀式と同一の観ある諸儀式に参加する事に対する良心の反対に基づくものでありますが、前記の行事に参列するを要求せらるる理由は言う迄もなく愛国心に関するものにして、宗教に関するものにあらずと思惟致します。故に若し彼等がかかる機会に団体として敬礼に加る事を求めらるるは、偏に愛国的意義を有するものにして毫も宗教的意義を有するものにあらざること明かにせらるるならば、参加に関する吾人の困難は相当減少すべき事を明言致します。
この引用に続く本文も、参考のために引用しておきましょう。
右大司教の書簡中にも見得る如く、カトリック者は、上述の忠君愛国の精神を保持することに於いては、人後におちぬものである。カトリック者は自然法と神法との二重法を以て、忠君愛国の誠を致すべきであって、君のため、国のために必要とあらば、殉教する時の如き赤心を以て喜び勇んで死地に赴くものである。又、君の為、国の為に一命を致せる人々を敬うことに於いても、カトリック者は他宗教徒に優るとも劣る者ではない。カトリック教会は、其の創立当初から今日に至るまで、既に別章に論述せる如く、其の典礼、儀式、祈禱中に於いても、君のため、国のため、祈を献げ来った。日本に於いても、カトリック者は、カトリック的宗教行為を以ても、或いは彌撒聖祭に与り、或いは聖体降福式及び公の祈禱に参列して、皇室と皇国とのために熱禱を献ぐるとともに、他の方法を以ても、臣民としての、国民としての任務を忠実に遂行しつつあるのである。
【語注】赤心=偽りのない心。まごころ。誠意。
こうした文章に接すれば、現代の大半の読者は辟易してしまうことでしょう。「君のため国のために必要とあらば、殉教する時の如き赤心を以て喜び勇んで死地に赴くものである」などと、それこそ声高らかに言い切っているのですから。
しかし当時の教会は、何とかして宗教弾圧へと発展することのないよう、それだけは是が非でも阻止しようと、必死だったことは確かです。かといって、その結果生じた妥協や迎合を、是としようと考えるわけではありません。しかし同時に、時代の制約がいかに過酷であったか、それを考えることなく批判することも、過去から学ぶ姿勢にはつながらないのではないかとも思います。
一つ誤解してはならず、正しく把握しておきたいことがあります。日本のカトリック教会が「忠君愛国」を奨励したのは、昭和のこの時期からなのではなく、それよりもはるか前からだということです。迫害を恐れ、この時期に急遽「忠君愛国」を是としたのではありません。
1911(明治44)年に初版が出され、1919(大正8)年に増補再版がなされている、後に仙台司教となる浦川和三郎師の『基督信者宝鑑』には、次のように書かれています。
天主様は「汝、父母を敬うべし」と命じなさいました。この「父母」と云ふのは、唯だ私等を生んで育てて下さった父母のみを指すのではない。忝くも私等を愛し、養い、教え、護って行って下さる天皇陛下も、亦た私等の心を傾けて尊敬愛慕すべき慈父であらせられまする。我等が父母兄弟と一家楽しく暮して行けるのは、陛下の御恩ではありませんか。学校に出て、智能を啓発いて、立派な国民となれるのも陛下の御恩ではありませんか。外敵の侵害を蒙らぬで、各々その堵に安じること出来るのも、何処へ乗出しても、一等国民として対等の交際がして行けるのも、陛下の御恩ではありませんか。左すれば陛下を慈父として尊敬愛慕するのは理の当然で御座いましょう。(中略・原文改行)愛国の方でも夫と同じで、人は生れながらに自分の国土を愛するものである。(中略・原文改行)耶蘇様を見なさい。私等と等しい人間に御生れ遊ばしたのですから、亦た私等と等しい性情を持って居られた。私等が日本の国を愛するが如く、御自分もユデアの国を深く愛された。幾ら国民から反対されても、讒言誹謗されても、その国を去ろうとは致しなさらぬ。「我はイスラエルの家の迷える羊の方へ遣わされたものである。……子供のパンを取って犬に投与えてはならぬ」(マテオ一五ノ二四)と云って、異邦人に向っては御教をお説きなさらぬのでありました。
冒頭に引用した1936年版『公教要理』の二つの問答が、なぜ第四戒(汝の父母を敬え)の説明として挙がっているのかが、これを読むとよく理解できます(ちなみに1896年版『公教要理』では「○第四戒の命ずる所は父母と長上に対する務のみなるや△第四戒は父母並に長上に立つ者の務をも含むなり/○政府に対する務は如何△政府に対する務は官吏の位に従いて之を敬い、其の義しき命令に遵う事なり」と、実に簡潔な記述だけがあります)。この『基督信者宝鑑』も後に幾度か改訂が加えられているのですが、1938(昭和13)年版で上の引用に該当する箇所を見ますと、時代の流れでしょうか、微妙な書き換えが行われ、漢語が増え、美文調が強まっています。つまり、より昂揚を促す文体に変えられています。
それにしても最後のマタイ福音書の引用は、いささか衝撃的ですらあります。27~28節のカナンの女とイエスのやり取りは、完全に無視されています。
なお、補足しておきますと、『カトリック的国家観』には、1928(昭和3)年発行の『公教会祈禱文』から「皇室の為にする祈禱」という祈りが引用されています。しかし、冒頭に引用した「皇国の為にする祈」と比べるとずっとシンプルで、君主の上に御父からの恵みが注がれ、心身ともに健やかであることを願うものです。もっとも、それを妥当というのではありませんが……。
さて、シャンボン大司教の照会に対し、9月30日付で文部次官より回答が出されています。こちらも原文は候文ですから、前と同じく『カトリック的国家観』から引用します。
九月二十二日附を以て照会の学生生徒児童の神社参拝の件に関しては、左記の如くである。
学生生徒児童等を神社に参拝せしむるは教育上の理由に基づくもので、此の場合に学生生徒児童の団体が要求せらるる敬礼は愛国心と忠誠とを現すものに外ならないのである。
これによって日本の司教たちは、神社参拝は愛国心の表明であり宗教的儀式ではない、つまり、1936年版『公教要理』に書かれるところの「天主にのみなすべき礼拝」には該当しないと理解し、それを許容することとなり、この件はとりあえず収束するはずでした。
しかし、10月になってから、1日付の報知新聞を皮切りに、新聞各紙がこの問題を取り上げることになり、事態は再燃します。
上智大学は10月21日付の東京朝日新聞に、本学は宗教学校ではなく、「報道には幾多の事実に相反」する点があると表明する「謹告」を掲載しました。
しかし陸軍は12月に、文部省の同意も得ずに、北原大佐の異動を決めてしまいます。約1年後に新たに配属将校が決まるまで、上智大学は配属将校のいない学校となり、経営的にも大きな打撃を受けました。
***
当然のことですが、こうした時局にあって「忠君愛国の誠を致す」には、何よりも戦争を肯定しなければなりません。不戦論者、絶対平和論者は、非国民とされるのです。お国のために、挙国一致して戦うとの意志表明を明確になさねばなりません。
先に示した目次のとおり、『カトリック的国家観』には「カトリックの戦争観」と題された章があります。それが何を伝えているのかを見てみます。
この章では、まず戦争の定義、戦争の分類が一般論として論じられたのち、絶対平和論者の主張は次の3点であると説明されます。すなわち、戦争は、①自然法の原則に反する、②キリスト教的愛のおきてにもとる、③福音の精神と古代の教会著述家が述べる教理に反する、の3点です。
これについて、一つ一つ反論が加えられます。
①については、まず戦争には二つのタイプがあるとされます。一つは、現在受けている暴力に対して暴力をもって防御する「守戦」であり、これを正当防衛として認めることこそ「自然法的原則」であるとされます。二つ目は、すでに受けた侮辱を取り去って損害を賠償させるために行う「攻戦」で、国には自国の権利と善とを擁護する義務があるのだから、他に有効な手段がない場合は、戦争に訴える権利を当然有するのだとしています。
②については、国家の要人は、国家それ自体の真正な栄達の確保、擁護、進展の義務、そして国民に余計な負担を与えない義務を有しており、そのうえで彼らは「友誼的義務」をも有しているが、国民に対するそれと、他国民、敵国民に対するそれは同等ではなく、それらの義務を、同時に同程度に果たすことはできないのだと論じ、直面する問題に鑑み、他を犠牲にする必要もあるのだとします。ゆえに、国家国益のために必要であれば、「害悪を承知しながらも戦争をせねばならぬ」のであり、戦争からつねに善を凌駕する悪が生まれるわけではないのだから、以上のことから愛のおきてにも背かないのだと結論づけています。
③は前半(福音の精神に反する)と後半(古代の教会著述家が述べる教理に反する)に分けて論証されます。引用が中心なので要約が難しく、多少長くなってしまいますが、この③の前半部分こそがいちばん重要だと思われますから、煩をいとわず論点を紹介していきます。
最初に、不戦論者は旧約聖書を見ないで、新約聖書だけに根拠を置いているのだと断じ、旧約において正戦が是認されているのは明らかだとし、「戦争が其の性質上自然法的正義と超自然法的愛との掟に反しているとしたら、神は、旧約に於いても、決して戦争を是認し、なお開戦命令を下さなかったであろう」と主張します。
次に、不戦論者がその主張の根拠とする聖書箇所が示されます(以下引用は新共同訳に置き換えています)。挙げられるのは、マタイ26・52「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」、同じくマタイ5・39「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」、同44節「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」、そして山上の説教の中の「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5・9)です。そして不戦論者は、戦争をする人は「敵を憎み、悪に対して善をかえさず、無慈悲、乱暴である」と訴えているのだとします。
これに反論が加えられます。まず中世のフランシスコ・スアレスの神法と自然法についての考えを紹介したうえで、戦争を肯定しうる根拠を新約聖書から拾っていきます。マタイ21・33以下の「ぶどう園と農夫のたとえ」にある「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し」との記述、続く22章の「婚宴のたとえ」の中の「王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」との記述、そしてルカ3・14にある「わたしたちはどうすればよいのですか」との救いについての兵士の問いに対する洗礼者ヨハネの回答が「武器を収めよ、軍隊を脱走せよ」というのではなく、単に「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」といったにすぎないということが挙げられています。最後のものについては、アウグスティヌスを引用したトマス・アクィナスの説が援用されています(『神学大全』Ⅱ-2、第40問題第1項)。
そして次のように喝破します。「不戦論者が引用する聖書の句は、決して彼等の主張を確証するものではない。これらの多くは国家の主権者が開戦権乃至交戦権を有するやの問題に言及せずして、個人に特種の場合に勧諭として与えているのみである。又キリストの山上の説教に於いて、国家は内外の敵に対して武力で応答出来ぬと教えているとは笑止千万である」。その論拠として、アウグスティヌスやトマスの論が引用されています。
余計な批評のことばを挟むつもりはありませんが、ここに示されている聖書のことばの利用法からは、反面的に多くのことを学び取れるはずです。
後半については、さほど目を止めるべき点もないので、紙幅の都合もありますから省略します。
このように戦争は是認しうるものなのだと説いたうえで、ではそれが、いかなる条件のもとで是とされるのかが次に述べられます。示される条件は次の3点です。
A 開戦が正当な主権によってなされること――正当な主権を有するのは、「完全なる独立国家のみ」と説明されています。
B 開戦が正当な理由によってなされること――正当な理由は、敵の不正行為が重大であり人倫的に確実であって、他のことではそれを補償できない場合に成り立つと説明されています。
C 開戦が正しい意向をもってなされること――正しい意向とは、「平和と正義」を目的とする、傷つけられた秩序の回復であると説明されています。
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これ以降、日本のカトリック教会は、日本の国体をほぼ全面的に支持するような姿勢へと傾いていきます。
以下に、その後の主要な文書を紹介して本特集を終えることにします。
1934(昭和9)年に、カナダ人宣教師に対するスパイ嫌疑から、奄美のカトリック教会が弾圧を受ける事件が起きました。早坂久之助長崎司教は、教区の司祭を集めての協議を経て、1935年2月3日付で訓令を発布しました。この訓令には次の6つの項目が挙げられています。
1 国体と教会の教義とは本質が異なるのだから、何ら矛盾はなく、国体の尊厳について信者を指導しなければならない。
2 神社参拝の許可は、軍部の重圧への迎合による教義の変更ではなく、そこに宗教的意義が認められないからであって、稲荷神社などへの参拝まで認めるものではない。
3 国家にとって重要な祝祭日には、国旗を掲揚することを奨励する。
4 招魂祭や慰霊祭などは、国家的意義をもっているといえども神仏式の祭式であるため、従来は参列を禁じてきた。しかし「国に殉じたる御霊に対し祈る」という意義をもつものゆえ、参加は差し支えない。
5 国防への関心は、時局に対応するための国民の義務であり、軍人を招聘して講演会を開き、信徒の認識を確かなものとする必要がある。
6 「国防献金慰問金品」などへの消極的態度を改め、積極的に、社会への宣伝に効果あるようなかたちで行わなければならない。
翌月には、九州4教区長、すなわち早坂長崎司教、アルベルト・ブルトン福岡司教、エジド・ロア鹿児島知牧区長、ヴィンチェンツォ・チマッティ宮﨑知牧区長の連名による四旬節の教書が発表されます。3月31日付日本カトリック新聞1面トップに掲載されたこの教書には、次のようにあります。
殊に我が国は万世一系の、天皇陛下の統治し給う所であるのは、大和民族在って以来の歴史的事実であり、且又、吾等の祖先から伝統的に懐いて居る動かすことの出来ない信念でありますのは、今更茲に喋々する必要がありません。一国は一家の如く、義に於いては君臣の別はありますが、情に於いては父子の如く、天地と倶に窮無く栄え行く君臣一体の家族的国体であり、これは実に世界に比べるもの無き所でありますから、克く之を自覚し昔からの国民精神の中に自ら含まれて居る皇室中心主義の精華を天壌と偕に無窮に輝かし、忠君愛国の至誠を致すよう努めねばなりません。これが為には平生の国民の義務を果すことに忠実を旨とすることが必要であります。即ち自ら勇んで兵役に服し、克く税金を納むるなど、常に国憲、国法に遵い、又、時に際して発せられる国家の命令に心から服し、政府の各階級の公吏に対しては相応しき礼儀と尊敬とを払い、其の命令に従わねばなりません。斯の如きは常に国民の心懸けて居るべき所でありますのは勿論、特に現在の如き非常時に際しては一層緊張した心構を以て努めねばならぬのであります。
【語注】天壌=天と地。天地。
この教書は、「皇国の為に熱誠を籠めて祈」ることを約して閉じられています。
4月には25日付で駐日教皇庁使節パウロ・マレラ大司教を筆頭に、シャンボン東京大司教、ジャン・バティスト・カスタニエ大阪司教、早坂長崎司教、ブルトン福岡司教、広島代理区長ヨハネス・ロス司教、札幌代理区長ヴェンチェスラオ・キノルド司教に加え、名古屋、鹿児島、宮﨑の教区長と、函館、四国の教区管理者、計13名の連名による「全日本教区長共同教書」が発布されました。
万世一系の天皇による統治についての記述などは、前述の九州4教区長の教書と変わるところはほとんどありませんが、美文調はいっそう際立って、長々とした文章になっています。
ただ、終わり近くに次のような箇所があり、これは特筆すべき点かと思います。
尚、今回吾等司教、教区長一堂に会したる際期せずして一致せる企図の一を諸子に伝え、戮力協心を希求せんとするものであります。即ち、吾等は、日本カトリック教徒の愛国の至情を表す一助として、当局に吾等の愛国の赤誠罩れる飛行機を献納せんと欲するのであります。願わくは、司祭、修道士、修道女並に一般信徒諸子は、これが達成に賛助、努力せらるる所あらんことを!
【語注】戮力=力を合わせること。協力。/協心=心を合わせて助け合うこと。/赤誠=偽りや飾りのない心。まごころ。
戦争への協力を、ここまで積極的かつ具体的に示しているのです。
この献納の発起人は、早坂司教が代表を務める「長崎カトリック兵器献納会」というグループで、翌1936年7月5日付の日本カトリック新聞は、全国から献金が集まり、海軍に「航空機其他軍用器材充実費として」2万2千円が、陸軍に「小型患者輸送飛行機一台献納費として」3万円が、それぞれ寄付されたと報じています。
陸、海軍への寄付を報じる1936年7月5日付の日本カトリック新聞
こうした一連の動きと同時に、日本のカトリック教会は、自分たちがとるべき対応について、マレラ大司教を通じてローマにも問い合わせを行っていました。それへの応答として、教皇庁布教聖省が1936年5月26日付で「祖国に対する信者のつとめ」という指針を公布しています。
この指針は、以下の3点のことを示しています。
1 「政府によって国家神道の神社として管理されている神社において通常なされる儀式は(中略)、国家当局者によって単なる愛国心のしるし、すなわち皇室や国の恩人たちに対する尊敬のしるしと見なされている。(中略)単なる社会的な意味しかもっていないもの」であるため、「カトリック信者がそれに参加し、他の国民と同じように振る舞うことが許される」。
2 「信者が葬儀、結婚式など日本の社会で通常に行われている私的な儀礼にあずかる場合(中略)、他の宗教に由来するものであるとしても」、場所、人、一般通念によって「単なる礼儀や相互の愛情の表現に過ぎない」とされる「すべての儀礼に」カトリック信者が参加することが許される。
3 「典礼に関する宣誓が、日本のどこかでなされている場合でも、司祭は、あらゆる議論を避け、この件に関して布教聖省が示した本指針に素直に従うべきである」。 (引用はカトリック中央協議会福音宣教研究室訳)
上の1に関して、カトリック中央協議会福音宣教研究室が編集した『歴史から何を学ぶか――カトリック教会の戦争協力・神社参拝』が、実に興味深い指摘をしています。これを報じた日本カトリック新聞1936(昭和11)年7月26日号は、上にある「それに参加し、他の国民と同じように振る舞うことが許される」とあるのを「他の参列者と同様これらに参列するように教えねばならない」と伝えているのです。許可が義務にすり替わっています。しかも、先に紹介した文部省からの回答をまず掲げて、布教聖省の指針はその回答に「従うべき旨を命じているのみでなく、積極的に問題の範囲を広めて、なお次の如き原則を与えている」という一言が前に置かれているのです。これが何かしらの意向が働いた結果なのか否かは分かりません。ですが、過誤であったとしても、あまりにも重大な過誤であったといわざるをえません。
翌1937年に盧溝橋事件が起きます。そして日中戦争が勃発し、時代の闇はいっそう深まってゆきます。軍部による国民の監視はいっそう強化され、カトリック教会も戦争への協力をいっそう厳しく課されることになっていくのです。
戦後80年にあたり本特集では、平和について考えるための資料を、ごくわずかではありますが紹介しました。教会は自らがとった態度について十分な反省をし、それを未来につなげていかなければなりません。「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことです」――聖ヨハネ・パウロ二世教皇の広島アピールのこのことばを、何度も何度も思い起こさなければなりません。
しかし、先に書きましたように、迎合を決して是とはせずとも、時代の制約がきわめて過酷であったことも確かです。本特集には、特定の個人を糾弾するような意図はまったくありません。その点はくれぐれもご理解くださいますようお願いいたします。
(奴田原智明)
【参考文献】
田口芳五郎著、『カトリック的国家観』カトリック中央出版部、1932年
同、『カトリック的国家観――神社参拝問題を繞りて』(上掲の改訂増補)カトリック中央出版部、1933年
天主公教会編・発行、『公教要理』、1896年
同、(発行所はカトリック中央出版部)、1936年
天主公教会編、『公教会祈禱文』カトリック中央出版部、1937年
浦川和三郎著、『基督信者宝鑑』(増補再版)天主堂、1919年
同第5版、誠文館、1938年
高木一雄著、『大正・昭和カトリック教会史1』聖母の騎士社、1985年
カトリック中央協議会福音宣教研究室編著、『歴史から何を学ぶか――カトリック教会の戦争協力・神社参拝』新世社、1999年
※語注は、『大辞林 第四版』(三省堂、2019年)による。
謝辞
1937年版『公教会祈禱文』は、上智大学にも国会図書館にも蔵書がなく原本の確認に難渋したのですが、お会いする機会があったので髙見三明大司教に相談したところ、長崎純心大学が所蔵していることが判明し、確認がかないました。同大学と大司教に心より感謝申し上げます。
