教皇レオ十四世、2025年11月16日、貧しい人の祝祭ミサ説教

2025年11月16日(日)年間第33主日の午前10時(日本時間同日午後6時)からサンピエトロ大聖堂で行った、貧しい人の祝祭ミサ説教(原文イタリア語)。 ―――  (ミサ前にサンピエトロ広場に集まった人々に対して行った挨 […]

2025年11月16日(日)年間第33主日の午前10時(日本時間同日午後6時)からサンピエトロ大聖堂で行った、貧しい人の祝祭ミサ説教(原文イタリア語)。
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(ミサ前にサンピエトロ広場に集まった人々に対して行った挨拶)

 おはようございます。ようこそおいでくださいました。

 福音書の中ですべての人が知っている箇所は、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタ5・3)です。わたしたちは皆、主の貧しい人々の中にいたいと望みます。なぜなら、わたしたちのいのちは神のたまものであり、わたしたちは感謝をもってこのたまものを受け取るからです。

 皆様が来てくださったことを感謝します。大聖堂は少し小さくなりました。皆様は教会の部分であり、スクリーンによってミサに参加できます。深い愛と信仰をもってミサに参加してください。そして、わたしたちが皆、キリストのうちに一つに結ばれることを知ってください。

 では、これからミサをささげ、その後、「お告げの祈り」のためにこの広場でまたお目にかかりましょう。

 神が皆様を祝福してくださいますように。よい日曜日となりますように。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 典礼暦年の終わりにある幾つかの主日は、歴史の最終目的を見つめるようにわたしたちを促します。第一朗読の中で、預言者マラキは「主の日」の到来を新しい時代の始まりとして垣間見ます(マラ3・19-20a参照)。「主の日」は、神の時として描かれます。その時、義の太陽を昇らせる夜明けのように、貧しい人々、へりくだった人々の希望は、主から最終的かつ決定的な答えを与えられます。そして、悪を行う者のわざと彼らの不正、とくに無防備な人々、貧しい人々を傷つけた行いは、根こそぎにされ、わらのように燃やされます。

 わたしたちが知っているとおり、この昇る義の太陽は、イエスご自身です。実際、主の日は、歴史の最後の日であるだけでなく、到来する神の子のうちにすべての人に近づくみ国でもあります。イエスは、福音書の中で、当時の特徴である終末論的な言葉遣いを用いて、このみ国を告げ知らせ、開始します。実際、イエス自身が、歴史の劇的な出来事の中に存在して働く、神の支配そのものです。それゆえ、これらの出来事は弟子を恐れさせるのではなく、彼らに粘り強いあかしを行わせ、イエスの約束がつねに生きて忠実であることを自覚させます。「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(ルカ21・18)。

 兄弟姉妹の皆様。これこそが、人生がかならずしもいつも喜ばしいものでなくても、わたしたちが拠り所とする希望です。今日も「教会は、『世の迫害と神の慰めとを通って旅を続け』、主が来るまで、主の十字架と死を告げ知らせながら進む」(第二バチカン公会議『教会憲章』8[Lumen gentium])のです。そして、あらゆる人間的な希望が尽きたかのように思われるときも、主が髪の毛一本も決してなくならせることはないという、天と地よりも揺るぎないこの唯一の希望は、いっそう確固としたものとなります。

 人生や社会における迫害、苦しみ、困難、抑圧の中で、神は決してわたしたちを独りきりにしません。神はわたしたちの側に立つかたとしてご自身を示します。聖書全体は、神がつねにもっとも小さい者、孤児、寄留者、寡婦の側に立つと語る糸で織りなされています(申10・17-19参照)。そして、神の子であるイエスにおいて、神の近さは愛の頂点に達します。だから、キリストの存在とことばは、もっとも貧しい人々にとって喜びと恵みの年となるのです。なぜなら、キリストは、貧しい人に福音を告げ知らせ、〈主の恵みの年〉を告げるために来られたからです(ルカ4・18-19参照)。

 わたしたちもこの恵みの年に特別な形であずかります。今日わたしたちは、「貧しい人のための世界祈願日」に、貧しい人の祝祭を祝うからです。親愛なる兄弟姉妹の皆様。教会全体が喜びにあふれるこのとき、わたしはとくに皆様に、主イエスご自身の決定的なことばを力強く伝えたいと思います。「わたしはあなたを愛している(Dilexi te)」(黙3・9)。まことに、わたしたちの小ささと貧しさを前にして、神は他のだれよりもわたしたちに目を留め、永遠の愛でわたしたちを愛してくださいます。そして、今日も、そしておそらくとくに、昔からある貧困と新しい貧困によって今なお傷つけられている現代において、神の教会は「貧しい人々の母であり、貧しい人々を迎え入れる正義の場所」(教皇レオ十四世使徒的勧告『わたしはあなたを愛している――貧しい人々への愛について(2025年10月4日)』39[Dilexi te])となることを望みます。

 どれだけ多くの貧困が現代世界を圧迫していることでしょうか。まず物質的な貧困が存在しますが、しばしばもっとも若い人々にかかわる、多くの道徳的・精神的な状況による貧困も存在します。すべてを貫く悲劇は、孤独です。孤独は、貧困を総合的に見るようにわたしたちを促します。なぜなら、時として緊急の必要にこたえなければならないのは確かであるとはいえ、まさに孤独の壁を打ち壊すために、すべてにわたって関心の文化を育まなければならないからです。それゆえわたしたちは、どこにいても、どこで生きていても、他者と一人ひとりの人に関心を向けたいと思います。この関心の態度を家庭の中で伝え、職場や学校、さまざまな共同体、デジタル世界をはじめとしたあらゆる場所で、それを具体的に実践し、疎外された人々に手を伸ばし、神の優しさの証人となってください。

 今日、とくに残念ながら世界のさまざまな地域に見られる戦争の姿は、わたしたちの無力な状況を確認しているかのように思われます。しかし、無力さのグローバル化は、あるいつわりから、すなわち、歴史はつねにこのようなものであり、変わることができないという思い込みから生まれます。しかし、福音は、まさにこのような歴史の混乱の中で主がわたしたちを救いに来られることを、わたしたちに語ります。だからわたしたちキリスト教共同体は、今日、貧しい人々のただ中で、この救いの生きたしるしとならなければなりません。

 貧困はキリスト者に訴えかけるだけでなく、社会で責任ある立場にあるすべての人にも訴えかけます。それゆえわたしは、各国首脳、政治指導者の皆様に、もっとも貧しい人々の叫び声に耳を傾けるように勧告します。正義のないところに平和はありえません。そして、貧しい人々は多くのしかたで、すなわち、その移住と、叫び声をもって、わたしたちにこのことを思い起こさせます。この叫び声は、幸福と進歩の神話によってしばしばかき消されています。この神話は、すべての人を考慮に入れず、そればかりか、多くの人を忘れ去り、彼らを運命にゆだねるからです。

 慈善事業に携わるかたがた、多くのボランティアのかたがた、もっとも貧しい人々の状態の改善に努めるかたがたに感謝申し上げます。同時に、社会に対する批判的意識をいっそうもってくださるように皆様を励まします。皆様がよく知っておられるとおり、貧しい人々の問題はわたしたちの信仰の本質へと立ち帰らせます。貧しい人々はわたしたちにとって社会学的なカテゴリーにすぎないものではなく、キリストの肉体そのものです(教皇レオ十四世使徒的勧告『わたしはあなたを愛している――貧しい人々への愛について(2025年10月4日)』110[Dilexi te]参照)。そのため、「教会は、母として、旅路を歩む人々とともに歩みます。世が脅威を見いだすところに、教会は子を見いだします。壁が築かれるところに、教会は橋を架けます」(同75)。

 ともに取り組もうではありませんか。使徒パウロがテサロニケのキリスト信者に書き送っているとおり(二テサ3・6-13参照)、わたしたちは、主の栄光の再臨を待ち望みながら、自分に閉じこもり、他者と歴史とのかかわりを断つように仕向ける、宗教的な内面主義のうちに生きてはなりません。その反対に、神の国の追求は、人間の共存を、だれをも排除することのない、すべての人のための兄弟愛と尊厳の空間に変えようとする望みを意味します。最終目的に心をとめず、自分たちとともに旅する人々に無関心な、上の空の旅人のように生きる危険はつねに存在します。

 今日の貧しい人の祝祭に、もっとも貧しい人々の中でキリストに仕え、キリストとともに謙遜と自己否定の道を歩んだ聖人たちのあかしから霊感を受けたいと思います。わたしはとくに、聖ベノア・ヨゼフ・ラブレ(1748-83年)の姿を改めて示したいと思います。ラブレはその「神の放浪者」の生涯によって、すべての貧しいホームレスの人々の守護聖人として特徴づけられます。「マリアの賛歌」の中で神の選択をわたしたちに思い起こさせ、声をもたない人々の声となったマリアが、わたしたちがみ国の新しい論理に歩み入るための助けとなってくださいますように。こうして、受け入れ、ゆるし、傷口を包帯で巻き、慰め、いやす神の愛が、わたしたちのキリスト信者としての生活の中にますます存在するようになりますように。

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