
2025年11月22日(土)午前10時(日本時間同日午後6時)からサンピエトロ広場で行われた聖年の謁見での講話(原文イタリア語)。 講話9.希望するとは、明確な態度をとることである――ドロシー・デイ 親愛なる兄弟姉妹の […]
講話9.希望するとは、明確な態度をとることである――ドロシー・デイ
親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。ようこそおいでくださいました。
皆様の多くにとって、ここローマにいることは、大きな望みの実現です。巡礼を行い、目的地に着く人々にとって、決断の瞬間を思い起こすことは重要です。最初に、おそらく他のだれかのことばや招きによって、皆様の中で何かが動かされました。こうして主ご自身が皆様の手をとりました。皆様は望み、決断しました。このことがなければ、皆様は今ここにいません。ですから、このことを思い起こすのは重要です。
そして、先ほどわたしたちが福音書から耳にしたことも重要です。「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(ルカ12・48)。イエスは、ご自分のもっとも親しい弟子に、ご自分のもっとも近くにいる人々にこのことを語ります。わたしたちもこれまでの歩みから多くのものを与えられてきました。わたしたちはイエスとともに、教会とともにいました。たとえ教会が人間的な限界をもつ共同体であっても、わたしたちは多くのものを与えられてきました。それゆえ、イエスはわたしたちに多くのことを期待します。それは信頼と友情のしるしです。イエスが多くのことを期待するのは、イエスがわたしたちを知っておられるからです。わたしたちに何ができるかを知っておられるからです。
イエスは火をもたらすために来られました。それは、地上における神の愛の炎、わたしたちの心の望みの炎です。もしわたしたちが平和を不動の静寂と考えるなら、イエスはわたしたちから平和を取り去ります。しかし、不動の静寂としての平和は、真の平和ではありません。わたしたちは時として、「平安のうちに放っておかれる」ことを望みます。だれからもじゃまされず、他者がもはや存在しないことを望みます。それは神の平和ではありません。イエスがもたらす平和は、火のように、わたしたちに多くのことを求めます。何よりもイエスは、わたしたちが〈明確な態度をとる〉ことを求めます。不正と不平等を前にするとき、人間の尊厳が踏みにじられ、脆弱な人々がことばを奪われるとき、明確な態度をとってください。希望するとは、明確な態度をとることです。希望するとは、物事が以前と同じままであってはならないことを悟り、行動で示すことです。これも福音のいつくしみの炎なのです。
20世紀に生きた、小柄ながら偉大なアメリカ人女性の、ドロシー・デイ(1897-1980年)を思い起こしたいと思います。ドロシー・デイは、内なる炎をもっていました。明確な態度をとりました。彼女は、自分の国の発展モデルがすべての人に同じ機会をもたらさないことを見いだしました。多くの人にとって、夢は悪夢であることに気づきました。そして、キリスト者として、労働者、移住者、人のいのちを奪う経済によって拒絶された人々にかかわらなければならないことを悟りました。彼女は書き、奉仕しました。頭と心と手を一致させることは重要です。これが明確な態度をとることです。彼女はジャーナリストとしてものを書きました。つまり、ものごとを考え、人々に考えさせました。書くことは重要です。しかし、読むことも、今日、これまでにまして重要です。やがてドロシー・デイは、人々に食事を提供し、衣類を与え、自分が奉仕する人々と同じような服をまとい、同じような食事をしました。彼女は頭と心と手を一致させたのです。このように、希望するとは、明確な態度をとることなのです。
何千人もの人々がドロシー・デイの活動に加わりました。彼らは多くの都市、地域に施設を開設しました。そこは、大きな奉仕施設ではなく、人々が名前を呼び合い、互いに知り合い、怒りを交わりと行動に変える、愛と正義の場でした。明確な態度をとり、その結果を引き受けながら、前に進む――平和を実現する人々とは、このような人のことです。希望するとは、イエスと同じように、イエスとともに、明確な態度をとることです。イエスの炎は、わたしたちの炎です。聖年が、わたしたちの中に、教会全体に、この炎を再び燃え立たせてくれますように。
