
『希望の新たな地図を描く――第二バチカン公会議『キリスト教的教育に関する宣言』
公布60周年にあたって』
Lettera Apostolica Disegnare nuove mappe di Speranza di Papa Leone XIV in occasione del LX anniversario della Dichiarazione conciliare Gravissimum educationis
目次
1.序言
2.ダイナミックな歴史
3.生きた歴史
4.『キリスト教的教育に関する宣言』という羅針盤
5.人格の中心性
6.アイデンティティと補完性
7.被造物を観想する
8.教育の星座
9.新たな空間を航海する
10.教育に関するコンパクトという、道しるべ
11.希望の新たな地図
1.序言
1.1.希望の新たな地図を描くこと。2025年10月28日は、人間生活における教育の大きな重要性と現代的意味に関する第二バチカン公会議『キリスト教的教育に関する宣言』(Gravissimum educationis)公布60周年記念日です。第二バチカン公会議は、この文書によって、教育は付随的な活動ではなく、福音宣教の根幹を形づくるものであることを教会に思い起こさせました。教育は、福音が教育的・関係的・文化的な行為となるための具体的な方法です。急速な変化と、方向性を失わせる不確実性に直面する今日、この教育という遺産は驚くべき回復力(レジリエンス)を示します。教育共同体がキリストのことばによって導かれるならば、それは後退せず、活力を取り戻します。壁を築くのではなく、橋を架けます。彼らは、学校、大学、専門教育と市民教育、学校司牧と青年司牧、研究において、知識と意味を伝えながら、創造性をもって応答します。なぜなら、福音は古びることなく、「万物を新しくする」(黙21・5)からです。すべての世代は、再生をもたらす新しさとして福音に耳を傾けます。すべての世代は、福音と、その種をまき、成長させる力を発見する責任をもっています。
1.2.わたしたちは、複雑で、断片化され、デジタル化された教育環境の中で生きています。だからこそ、立ち止まって、「キリスト教的〈パイデイア〉の宇宙観」に目を向け直すのが賢明です。それは、何世紀にもわたって自らを刷新し、教育のあらゆる多面的な側面に積極的な霊感を与えることができたビジョンです。福音は最初から「教育的なきらめく星座」を生み出してきました。それらは、謙遜であると同時に力強く、時代を読み解き、信仰と理性、思想と生活、知識と正義の一致を守ることのできる経験です。嵐のときには命綱となり、凪のときには帆を張りました。夜には航海を導く灯台となりました。
1.3.『キリスト教的教育に関する宣言』は、その力を失っていません。その受容は、今日でもわたしたちの歩みを方向づける多数の活動とカリスマを生みました。学校と大学、運動団体と会、信徒の会、修道会、国内的・国際的ネットワークです。これらの生きた団体は、ともに、21世紀の海を渡り、切迫した課題にこたえることができる、霊的・教育的な遺産を強固なものとしました。この遺産は固定的なものではありません。それは、方向を示し、旅のすばらしさを語り続ける、羅針盤です。今日期待されることは、教会が60年前に期待していたことよりもさらに大きくなっています。この期待は、広がり、複雑なものとなっています。世界で数百万人の子どもが初等教育を受けられずにいるのを目の当たりにするとき、わたしたちはどうして行動せずにいられるでしょうか。戦争、移住、不平等、さまざまな形の貧困が引き起こす、劇的な教育的危機の状況を目の当たりにするとき、わたしたちの取り組みを新たにする切迫した必要性を感じずにいられるでしょうか。教育は――わたしの使徒的勧告『わたしはあなたを愛している――貧しい人々への愛について』(Dilexi te)で思い起こしたとおり――、「キリスト教的愛の最高の表現の一つ」(1)です。世界はこの希望の形を必要としています。
2.ダイナミックな歴史
2.1.カトリック教育の歴史は、聖霊の働きの歴史です。教会が「母、また、教師」(2)であるのは、優越性によってではなく、奉仕によってです。教会は、師である神の使命を担いながら、人を信仰へと生み出し、自由の成長に同伴します。それは、すべての人が「いのちを受けるため、しかも豊かに受けるため」(ヨハ10・10)です。受け継がれてきた教育様式は、真理と善へと招かれた神の像としての人間像と、この召命に奉仕する方法の多様性を示します。教育のカリスマは厳格な定式ではありません。それはすべての時代の必要に対する独創的な応答です。
2.2.最初の数世紀の砂漠の師父たちは、たとえ話や格言によって知恵を教えました。彼らは本質的なことがら、ことばの規律、心を守ることへの道を再発見しました。彼らは、どこにでも神を見いだすまなざしに関する教育法を伝えました。聖書の知恵をギリシア・ローマの伝統に接ぎ木した聖アウグスティヌスは、真の教師は真理への望みをかき立て、しるしを解釈し、内なる声に耳を傾ける自由を教えることを理解しました。修道制はこの伝統を人里離れたところにまでもたらしました。そこでは数十年にわたり古典的著作が研究され、注解され、教授されました。沈黙のうちに文化に奉仕する、この活動がなかったなら、多くの優れた著作が今日まで伝わることはなかったことでしょう。その後、「教会の中心から」、最初の大学が生まれました。大学は最初から「人類の利益のために知的創造と知識の普及を行う場として、他に比肩するものがないこと」(3)を示しました。大学の教室における思弁的な思考は、托鉢修道会の仲介のうちに、堅固な組織化を行い、学知の前線にまで達する可能性を見いだしました。多くの修道会がこの知の分野で最初の一歩を踏み出し、教育学的な革新と社会的に先見的な方法によって教育を豊かなものとしました。
2.3.教育は多くの方法で表現されました。『学事規定』(Ratio Studiorum)によって、学際的で、かつ実験にも開かれた形で展開されたカリキュラムを適用しながら、豊かなスコラ的伝統がイグナツィオ的霊性と融合されました。17世紀のローマで、聖ヨセフ・デ・カラサンス(1557-1648年)は、識字と計算は能力の問題以前に尊厳の問題であることを洞察して、貧しい人々のための無料の学校を開設しました。フランスでは、聖ヨハネ・バプティスタ・ド・ラ・サール(1651-1719年)が「当時のフランスの教育制度から労働者と農民の子どもが排除される不正に気づき」(4)、キリスト教学校修士会を創立しました。19世紀初頭、聖マルスラン・シャンパニャ(1789-1840年)は、「教育を受ける機会が少数の人々の特権であり続けていた時代に、子どもと若者、とくにもっとも困窮した子どもと若者を教育し、宣教する使命に全身全霊で取り組みました」(5)。同様に、聖ヨハネ・ボスコ(1815-88年)は、「予防教育」によって、規律を合理性と親密さへと変容させました。ビンセンサ・マリア・ロペス・イ・ビクニャ(1847-90年)、フランチェスカ・サヴェリオ・カブリーニ(1850-1917年)、ヨゼフィーナ・バキタ(1869-1947年)、マリア・モンテッソーリ(1870-1952年)、カテリーヌ・ドレクセル(1858-1955年)、エリザベス・アン・セトン(1774-1821年)のような勇気ある女性たちは、少女、移住者、もっとも貧しい人々のために門戸を開きました。わたしは『わたしはあなたを愛している――貧しい人々への愛について』で述べたことを繰り返します。「キリスト者の信仰にとって、貧しい人々を教育することは、恩恵ではなく、義務です」(6)。これらの具体的な系譜は、教会において、教育学が抽象的な理論ではなく、肉体と情熱と歴史であることをあかししています。
3.生きた歴史
3.1.キリスト教的教育は集合的な活動です。だれも一人で教育を行いません。教育共同体は「わたしたち」です。そこでは、教師、学生、家庭、行政当局者、ボランティア、司牧者、市民社会が、いのちを生み出すために歩み寄ります(7)。この「わたしたち」は、「ずっとこのようにやってきた」という沼地で水がよどむのを防ぎ、水が流れ、はぐくみ、潤さざるをえないように仕向けます。教育の基盤はつねに同じです。すなわち、真理と関係性を受け入れることができる、神の像です(創1・26)。それゆえ、信仰と理性の関係の問題は、選択可能なテーマではありません。「宗教的真理は、一般的認識の一部ではなく、その条件である」(8)のです。この聖ジョン・ヘンリー・ニューマン――今年の教育界の祝祭との関連でニューマンを聖トマス・アクィナスとともに教会の教育的使命の共同守護聖人と宣言できることをたいへん喜ばしく思います――のことばは、知的な責任性と厳密性をもちながら、深く人間的でもある認識のための取り組みを新たにするようにという招きです。〈理性〉にのみ頼らせる〈信仰〉の照明説に陥らないように注意することも必要です。自らの教えを発展させ、深めるために、現代人の自己認識のしかたを深く理解する、共感的で開かれたものの見方を回復することによって、暗礁から抜け出ることも必要です。ですから、望みと心を認識から切り離すべきではありません。それは人格をばらばらにすることを意味します。カトリック大学とカトリック学校は、疑問を沈黙させる場所ではありません。疑いを追放すべきではなく、それに同伴すべきです。そこでは、心と心が対話します。とるべきなのは、他者を脅威ではなく善として認める、傾聴による方法です。「心は心に語りかける」(Cor ad cor loquitur)は、聖ジョン・ヘンリー・ニューマンが聖フランシスコ・サレジオ(1567-1622年)の手紙からとったモットーです。「人の心に触れるのは、ことばの多さではなく、心の誠実さです」。
3.2.教育とは、自らを刷新する、希望と情熱の行為です。なぜなら、それは、わたしたちが人類の未来のうちに見いだす約束を示すからです(9)。教育活動の具体性と深さと広さは、プラトンの『ソクラテスの弁明』(Apologia 30a-b〔田中美知太郎訳、『ソクラテスの弁明ほか』(中公クラシックス)中央公論新社、2002年、46頁〕)が述べるとおり、「魂ができるだけすぐれたものになるよう、ずいぶん気をつかう」――神秘的でありながら現実的な――作業です。教育とは、「約束の職業」です。教育においては、時間と信頼と能力が約束されます。正義とあわれみ、真理への勇気と慰めの香油が約束されます。教育とは、愛の務めです。この愛は、人間関係の破れた布地を修繕し、次のことばに約束の重みを回復することによって、世代から世代へと伝えられます。「すべての人は真理を知ることができます。しかし、他者の助けによって進むなら、この歩みはきわめて忍耐しうるものとなります」(10)。真理は共同体の中で探求されるのです。
4.『キリスト教的教育に関する宣言』という羅針盤
4.1.公会議の『キリスト教的教育に関する宣言』は、すべての人が教育を受ける権利を確認し、家庭が人間性の最初の学びやであることを示します。教会共同体は、信仰と文化を統合し、すべての人の尊厳を尊重し、社会と対話する環境を支えるように招かれます。文書は、教育を技能訓練や経済的手段に限定するあらゆる試みに警告します。人格は「スキルプロフィール」でもなければ、予想可能なアルゴリズムに尽きるものでもありません。人格は、顔であり、歴史であり、召命なのです。
4.2.キリスト教的教育は、霊的、知的、感情的、社会的、肉体的なものを含めた、人格全体を包みます。それは、労働と理論、自然科学と人文科学、技術と良心を対立させません。むしろ、専門性に倫理が宿り、倫理が抽象的なことばでなく日々の実践となることを求めます。教育の価値は、効率性の秤のみによって量られるものではありません。教育の基準は、尊厳と、正義と、共通善に奉仕する能力です。このような統合的な人間論的ビジョンが、カトリック的教育学の基盤であり続けなければなりません。カトリック的教育学は――聖ジョン・ヘンリー・ニューマンの思想の後に従いながら――、純粋に商業主義的なアプローチに反対します。このアプローチは、今日、しばしば教育を機能性と実用性を基準として評価するように強いるからです(11)。
4.3.これらの原則は、過去の思い出ではありません。それは導きの星です。真理は共同で探求されるものであり、自由は放縦ではなく応答であり、権威は支配ではなく奉仕であるといわれます。教育の文脈においては、「問題の分析のためにも、解決のためにも、真理を独占していると主張」(12)してはなりません。むしろ、「なぜそれが起こったかや、どうすればそれを克服できるかについて性急に答えを出すよりも、アプローチのしかたを知ることの方が重要です。目的は、つねに異なるさまざまな問題に立ち向かうことを学ぶことです。なぜなら、すべての世代は新しく、新しい課題と、新しい夢と、新たな問いをもっているからです」(13)。カトリック教育の務めは、わたしたちがみなしごではなく子であることを思い起こしながら、紛争と恐怖によって特徴づけられた世界に信頼を再構築することです。この認識から、兄弟愛が生まれます。
5.人格の中心性
5.1.人格を中心に置くことは、アブラハムの先見の明をもって教育することを意味します(創15・5)。すなわち、人々に、人生の意味と、不可侵の尊厳と、他者への責任を見いださせることです。教育とは、たんなる内容の伝達ではなく、徳を身に着けさせることです。教育は、奉仕できる市民、あかしをすることができる信者、孤独ではなくいっそう自由な人間を育てます。そして、教育は、突然行われるものではありません。わたしは、愛するチクラヨ教区で過ごしていた頃、サント・トリビオ・デ・モグロベホ・カトリック大学を訪問したときのことを思い起こします。その機会に、わたしは学術的共同体に向けて次のように述べました。「人は生まれながらにして専門家ではありません。すべての大学の歩みは、一歩一歩、一冊一冊、年月と、さまざまな犠牲によって築かれます」(14)。
5.2.カトリック学校は、信仰と文化と生活がより合わされる環境です。それはたんなる機関ではなく、キリスト教的なビジョンがあらゆる学科、あらゆる相互作用に浸透する、生きた環境です。教育者には、雇用契約を超えた責任が求められます。教育者のあかしは、授業と同じように価値があります。そのため、教育者の――学問的、教育学的、文化的、霊的――養成が決定的に重要です。共通の教育的使命を共有することは、共通の養成の歩みも必要とします。それは「初期の、そして継続的な教育計画です。この計画は、現在の教育的課題を把握し、課題に対処することができるためのより効果的な手段を提供できます。〔……〕それは、教育者が進んで学び、知識を深め、方法を刷新またアップデートするだけでなく、霊的・宗教的養成を受け、分かち合いを行うことも意味します」(15)。技術的なアップデートだけでは不十分です。耳を傾ける心、励ますまなざし、識別する知性を培うことも必要なのです。
5.3.家庭は第一の教育の場であり続けます。カトリック学校は保護者と協力しますが、保護者に取って代わることはできません。なぜなら、両親は「教育の任務、とくに自分たちの第一の務めである宗教教育の任務を熱心に果たさなければならない」(16)からです。教育の連携は、内面性と傾聴と共同の責任を必要とします。それはプロセスとツールと共同の評価によって築かれます。それは労苦であるとともに祝福でもあります。うまくいけば、信頼が生まれます。失敗すれば、すべてが脆弱になります。
6.アイデンティティと補完性
6.1.『キリスト教的教育に関する宣言』は、すでに補完性の原則の重要性と、異なる地方教会の状況によって環境が変わることを認識していました。しかし、第二バチカン公会議は、教育を受ける権利と、その普遍的に有効な基本原理を明らかにしました。公会議は、両親と国家が担う責任を明確にしました。公会議は、学生が「正しい良心に従って道徳的価値を評価」できるようにする教育を提供することを「神聖な権利」(17)と見なし、為政者にこの権利を尊重することを求めました。さらに公会議は、教育を、労働市場や、しばしば冷酷で非人間的な財政の論理に従属させることのないようにと警告しました。
6.2.キリスト教的教育は、振り付けとして示されます。リスボンで開催されたワールドユースデー(WYD)において、わたしの前任者である故教皇フランシスコは、大学生たちに向けてこう述べました。「人間の人格を中心に置く、新たな振り付け師となってください。人生というダンスの振り付け師となってください」(18)。「全人的に」人格を教育するとは、風通しのない仕切りを作らないことです。真の信仰は、付加された「内容」ではなく、他のすべての内容に酸素を供給する息吹です。こうして、カトリック教育は人類共同体におけるパン種となります。それは、相互関係を生み出し、還元主義を克服し、社会的責任に開かれます。現代の課題は、源泉を見失うことなく現代の問いを取り上げる、統合的なヒューマニズムに挑むことです。
7.被造物を観想する
7.1.キリスト教的人間論は、尊敬と、一人ひとりへの同伴と、識別と、すべての人間的次元の発展を促す教育スタイルの基盤です。中でも、被造物を観想することによって実現し、強められる、霊的なインスピレーションは二次的なものではありません。この側面は、キリスト教哲学と神学の伝統の中で新しいものではありません。そこでは自然の研究が、神の痕跡(vestigia Dei)を示すことも目的としていたからです。バニョレージョの聖ボナヴェントゥラは、『ヘクサエメロン講解』(Collationes in Hexaemeron)の中で、次のように述べています。「世界全体は影であり、道であり、痕跡である。世界は外部から記された書物である(エゼ2・9)。なぜなら、すべての被造物のうちには神の範型の映しがあるが、闇も混ざっているからである。それゆえ、世界は、光に不透明さが混ざった道のようなものである。世界はその意味において道である。窓から差し込む光線が、ガラスの異なる部分の異なる色に応じて色が変わって見えるのと同じように、神の光は、それぞれの被造物に異なるしかたで映し出され、異なる属性を帯びるのである」(19)。これは、異なる性格に合わせて選択された教育の柔軟性にも当てはまります。これらの性格は――それぞれのしかたで――、被造物の美とその保護へと収斂します。こうして教育計画には「知恵と創造性として行使される学際性(l’inter- e la trans- disciplinarietà)」(20)が求められます。
7.2.わたしたちの共通の人間性を忘れることが、分裂と暴力を生み出してきました。そして、地球が苦しむとき、貧しい人々はいっそう苦しみます。カトリック教育は黙っていてはなりません。カトリック教育は、社会正義と環境正義を結びつけ、節度ある持続可能な生活様式を推進し、便利なことだけでなく正しいことを選択できる良心を教育しなければなりません。すべての小さな行為――浪費を避けること、責任を伴う選択をすること、共通善を守ること――は、文化的・道徳的識字教育なのです。
7.3.エコロジカルな責任は、技術的なデータに尽きるものではありません。技術的なデータも必要ですが、それだけでは不十分です。必要なのは、頭と手と心を動員する教育です。すなわち、新しい習慣、コミュニティの様式、徳の実践です。平和は争いがないことではありません。平和は、暴力を拒絶する柔和な力です。「武器のない平和、武器を取り除く平和」(21)への教育は、あわれみと、和解をもたらす正義の言語を学ぶために、攻撃的なことばや人を裁く目という武器を捨てることを教えます。
8.教育の星座
8.1.「星座」と言うのは、カトリック教育界が生きた多元的なネットワークだからです。すなわち、小教区の学校と単科大学、大学と高等教育機関、職業訓練所、運動団体、デジタルプラットフォーム、サービス・ラーニングの取り組み、学校・大学・文化司牧です。それぞれの「星」は固有の輝きをもっていますが、全体で航路を描きます。かつて競合していたところで、今日、わたしたちは諸機関の歩み寄りを求めています。一致は、わたしたちのもつもっとも預言的な力です。
8.2.方法論や組織の違いは、重荷ではなく、むしろ資源です。カリスマの多元性は、適切に調整されるならば、一貫した、生産的な枠組みを形成します。相互につながった世界において、ゲームは地域と世界という二つのテーブルで行われます。教師と生徒の交流、諸大陸を横断する共同プロジェクト、よい実践の相互承認、宣教的・学術的協力が必要です。未来は、いっそう協力し、ともに成長することを学ぶことをわたしたちに求めています。
8.3.星座は無限の宇宙に自らの光を反射します。万華鏡のように、星座の色は、からみ合いながら、さらなる色彩の変化を生み出します。これがカトリック教育機関の分野において生じます。カトリック教育機関は、市民社会、政治・行政機関、生産部門や労働部門の代表者との出会いに開かれています。カトリック教育機関は、これらといっそう積極的に協力しながら、理論が経験と実践によって支えられるために、教育課程を共有・改善するよう招かれています。さらに歴史は、わたしたちの教育機関が、真に人間的な教育を望む、信仰をもたない人や他宗教の生徒と家族を受け入れていることを教えます。そのため――すでに行われてきたとおり――、参加的な教育共同体を推進しなければなりません。この参加的な教育共同体においては、信徒、修道者、家庭、学生が、公的・私的機関とともに、教育的使命の責任を共有するのです。
9.新たな空間を航海する
9.1.60年前、『キリスト教的教育に関する宣言』は信頼の時代の幕を開きました。それは方法と言語の現代化を励ましたのです。今日、この信頼はデジタル分野によって試されます。技術(テクノロジー)は人格に奉仕しなければならないものであって、人格に取って代わるものであってはなりません。技術は学習プロセスを豊かなものにしなければならないのであって、人間関係と共同体を貧しくするものであってはなりません。ビジョンを欠いたカトリック大学とカトリック学校は、魂のない効率主義、知識の画一化に陥るおそれがあります。これらはさらに霊的な貧困化をもたらします。
9.2.現代の空間に住むためには、司牧的な創造性を必要とします。デジタル分野を含めた教員の養成。アクティブ・ティーチングの活用。サービス・ラーニングと責任ある市民行動の推進。あらゆる科学技術恐怖症(テクノフォビア)を避けることです。テクノロジーに対するわたしたちの態度は敵対的なものであってはなりません。なぜなら、「技術の進歩は、神の創造についてのご計画の一部」(22)だからです。しかし、教育計画、評価、プラットドーム、データの保護、教育機会の公平性についての識別が求められます。いずれにせよ、いかなるアルゴリズムも教育を人間的なものにするものに取って代わってはなりません。すなわち、詩、アイロニー、愛、芸術、想像力、発見する喜びであり、さらには、成長の機会としての誤りを学ぶことです。
9.3.肝腎な点は、テクノロジーではなく、その使用です。人工知能とデジタル環境は、尊厳、正義、労働の保護へと方向づけられなければなりません。公共的倫理と参加の基準によって統制されなければなりません。適切な神学的・哲学的考察を伴わなければなりません。カトリック大学には決定的な任務があります。「文化のディアコニア」を提供すること、教授職を減らし、無用のヒエラルキーなしにともに座ることのできるテーブルを増やすことです。それは、歴史の傷に触れ、聖霊のうちに、民衆の生活から生まれる知恵を探求するためです。
10.教育に関するコンパクトという、道しるべ
10.1.わたしたちの歩みを方向づける星の一つが、教育に関するグローバル・コンパクト(2020年10月15日)です。教皇フランシスコがわたしたちにゆだねたこの預言的な遺産に感謝します。それは、普遍的な兄弟愛の教育のための連携とネットワークへの招きです。その7つの道は、わたしたちの基盤であり続けます。(1)人格を中心に据えること。(2)子どもと若者に耳を傾けること。(3)女性の尊厳と完全な参加を推進すること。(4)家庭を第一の教育者として認めること。(5)受容と包括性に心を開くこと。(6)人間に奉仕するために経済と政治を刷新すること。(7)ともに暮らす家を大切にすることです。これらの「星」は、人間化の具体的なプロセスを生み出すことによって、世界の学校、大学、教育共同体に霊感を与えました。
10.2.『キリスト教的教育に関する宣言』から60年、教育に関するグローバル・コンパクトから5年がたった今、歴史は新たな緊急性をもってわたしたちに問いかけています。急速かつ深刻な変化が、子ども、青少年、若者をかつてないほどの脆弱性にさらしています。守るだけでは不十分です。見直すことも必要です。わたしはすべての教育機関にお願いします。認識と意味、能力と責任、信仰と生活を再び組み合わせながら、新しい世代の心に語りかける時代を切り開いてください。教育に関するグローバル・コンパクトは、より包括的な、グローバルな教育的星座(Global Educational Constellation)の一部です。さまざまなカリスマと機関は、多様でありながらも、現代の暗闇の中でわたしたちの歩みを方向づける、統一的な輝かしい計画を形成します。
10.3.わたしは、7つの道に、3つの優先課題を付け加えます。第一の優先課題は、内的生活にかかわります。若者は深さを求めています。沈黙の空間、識別、良心と神との対話を必要としています。第二の優先課題は、デジタルな人間にかかわります。人格をアルゴリズムよりも優先し、技術的、感情的、社会的、霊的、エコロジカルな知性を調和させながら、テクノロジーとAI(人工知能)の賢明な利用を教育してください。第三の優先課題は、武器のない平和、武器を取り除く平和にかかわります。非暴力的な言語、和解、壁を築くのではなく橋を架けることを教育してください。「平和を実現する人々は、幸いである」(マタ5・9)が、学習の方法、また、内容となりますように。
10.4.わたしたちは、カトリックの教育ネットワークが独自の広がりをもっていることを自覚しています。この星座は、すべての大陸に達し、とくに低所得の地域に存在しています。それは教育の可動性と社会正義を具体的に約束します(23)。この星座は質と勇気を要求します。すなわち、教育計画、教員養成、ガバナンスにおける質です。貧しい人々に教育機会を保障し、脆弱な家庭を支え、奨学金と包括的な方針を推進する勇気です。福音の無償性はレトリックではありません。それは関係性の様式であり、方法であり、目的です。教育機会が特権であり続けているところで、教会は門戸を開き、新しい道を開発しなければなりません。なぜなら、「貧しい人々を失うこと」は、学校そのものを失うに等しいからです。これは大学にも当てはまります。包括的な視点と心のケアは、わたしたちを画一化から救い出します。奉仕の精神は想像力を活気づけ、愛の火を再び燃え立たせます。
11.希望の新たな地図
11.1.『キリスト教的教育に関する宣言』60周年を迎えて、教会は実り豊かな教育の歴史を祝うとともに、時のしるしに照らして、その提言を現代化する課題に直面しています。カトリックの〈教育の星座〉は、伝統と未来が矛盾なくからみ合うことを印象的に示します。生きた伝統は、存在と奉仕の新たな形へと手を差し伸べます。星座は、多様な経験の中立的で平板な連鎖に還元されません。わたしたちは、鎖ではなく、星座を、すなわち、驚きと覚醒に満ちたからみ合いをあえて思い浮かべます。この星座には、希望をもって、また、福音への忠実さを失わずに、勇気ある見直しを行いながら、諸課題を乗り切る力があります。わたしたちはこれが労苦を伴うことも自覚しています。ハイパー・デジタル化は、注意力を分散させるおそれがあります。人間関係の危機は、心を傷つけるおそれがあります。社会の不安定と不平等は、望みを消し去るおそれがあります。にもかかわらず、まさにここで、カトリック教育は灯台となることができます。懐古趣味的な逃れ場ではなく、識別と、教育的刷新と、預言的なあかしの実験場となることができます。希望の新たな地図を描くこと――これが緊急の使命です。
11.2.教育界の皆様にお願いします。ことばの武器を取り除き、目を高く上げ、心を守ってください。ことばの武器を取り除いてください。なぜなら、教育は、論争によってではなく、優しく耳を傾けることによって進むからです。目を高く上げてください。神がアブラムにこういわれたように。「天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい」(創15・5)。自分がどこへ、また、なぜ向かっているのかを自問できるようにしてください。心を守ってください。人間関係は意見に優先し、人格は計画に優先します。時間と機会を無駄にしないでください。「アウグスティヌスのことばを引用するなら、わたしたちの現在は直観です。わたしたちは時間を生き、自分の手から逃げていく前にそれを活用しなければなりません」(24)。愛する兄弟姉妹の皆様。終わりに、使徒パウロの勧めを自分のものとしたいと思います。「世にあって星のように輝き、いのちのことばをしっかり保つでしょう」(フィリ2・15-16)。
11.3.この歩みを、〈上智の座〉(Sedes Sapientiae)であるおとめマリアと、すべての教育者の聖人にゆだねます。司牧者、奉献生活者、信徒、教育機関の責任者、教師、学生の皆様にお願いします。教育界で奉仕する者、希望の振り付け師、知恵のうむことのない探求者、美の表現の信頼の置ける作り手となってください。レッテルを貼らずに、多くの物語を語ってください。不毛な対立をせずに、聖霊のうちに交響曲を奏でてください。そうすれば。わたしたちの星座は、輝くだけでなく、わたしたちを方向づけてくれるでしょう。自由にする真理へと(ヨハ8・32参照)、正義を強める兄弟愛へと(マタ23・8参照)、欺くことがない希望へと(ロマ5・5参照)。
2025年10月27日 『キリスト教的教育に関する宣言』60周年記念日の前晩
サンピエトロ大聖堂にて
