
2025年12月20日(土)午前10時30分(日本時間同日午後6時30分)からサンピエトロ広場で行われた、最終回となる聖年の謁見での講話(原文イタリア語)。 講話11.希望するとは、いのちを生み出すことである――わたした […]
講話11.希望するとは、いのちを生み出すことである――わたしたちの希望であるマリア
親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。ようこそおいでくださいました。
降誕祭を間近にしたわたしたちはいいます。「主は近いのです」(フィリ4・5〔聖書協会共同訳〕参照)。イエスがおられなければ、この「主は近いのです」ということばは、脅威のように聞こえるかもしれません。しかしわたしたちはイエスのうちに、預言者たちが洞察したとおり、神があわれみに満ちたかたであることを見いだします。幼子イエスは、神があわれみの心をもっておられること、そのあわれみの心を通してつねにいのちを生み出すかたであることをわたしたちに示します。イエスのうちにあるのは、脅威ではなく、ゆるしです。
愛する友人の皆様。今日で、教皇フランシスコが1月から始めた土曜日の聖年の謁見は最後となります。聖年は終わろうとしていますが、この聖年がわたしたちに与えた希望は終わりません。わたしたちは希望の巡礼者であり続けます。わたしたちは聖パウロのことばを聞きました。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」(ロマ8・24)。希望がなければ、わたしたちは死んでいます。わたしたちは希望によって光へと向かいます。希望はいのちを生み出します。実際、希望は対神徳です。すなわち、神の力です。だから希望は、いのちを生み出します。希望は人を殺すのではなく、誕生と再生をもたらします。希望はまことの力です。人を脅かし、殺すものは力ではありません。そのようなものは傲慢であり、攻撃的な恐れであり、何も生み出すことのない悪です。神の力は誕生をもたらします。だからわたしは最後にこういいたいのです。〈希望するとは、いのちを生み出すことです〉。
聖パウロはローマのキリスト者に向けて、わたしたちに考えさせることを書き送ります。「被造物がすべて今日まで、ともにうめき、ともに産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(ロマ8・22)。これは力強いイメージです。それは、わたしたちが大地と貧しい人々の叫び声に耳を傾け、それを祈りへと導くための助けとなります。「被造物がすべて」叫び声を上げています。しかし、多くの権力者はこの叫び声に耳を傾けません。地上の富は、少数の人々、ごく少数の人々の手に握られています。それは――不当にも――大地と貧しい人々の叫び声にしばしば耳を傾けようとしない人々の手にますます集中しています。神は被造物の富をすべての人のものとしてお定めになりました。それは、すべての人がそれを分かち合うためです。わたしたちの務めは、奪うことではなく、いのちを生み出すことです。しかしながら、信仰において、大地と貧しい人々の苦しみは、産みの苦しみです。神はつねにいのちを生み出します。神は今も創造しておられます。そしてわたしたちも、希望のうちに、神とともにいのちを生み出すことができます。歴史は、神と、神に希望を置く人の手のうちにあります。存在するのは、奪う者だけではありません。何よりもまず存在するのは、いのちを生み出す者です。
姉妹兄弟の皆様。キリスト者の祈りが深くマリア的な祈りなのは、わたしたちがナザレのマリアのうちに、いのちを生み出すわたしたちの一人を見いだすからです。神はマリアを子を産む者とされました。そして、すべての子どもが母親に似ているように、神はマリアの特徴をもってわたしたちのもとに来られました。マリアは神の母であるとともに、わたしたちの母でもあります。わたしたちは「元后あわれみの母」(Salve Regina)の祈りの中で「われらの希望」と唱えます。マリアは御子に似たかたであり、御子もマリアに似たかたです。わたしたちも、神のことばに顔とからだと声を与えた聖母に似た者です。わたしたちがマリアに似ているのは、わたしたちが地上で神のことばを生み出し、わたしたちが耳にする叫び声を誕生へと造り変えることができるからです。イエスは再び生まれることを望まれます。わたしたちはイエスにからだと声を与えることができます。これが、被造物が待ち望む誕生です。
希望するとは、いのちを生み出すことです。希望するとは、世が神の世となるのを見ることです。それは、神と人間とすべての被造物が、楽園の都で、すなわち新しいエルサレムで、ともに新たに歩む世界です。わたしたちの希望であるマリアが、わたしたちの信仰と希望の旅をつねにともに歩んでくださいますように。
