
父からもっとも愛された者2.――降誕節における子どもについての黙想(マタ18・1-3、6)
親愛なる兄弟姉妹の皆さん。おはようございます。
前回の謁見で子どもたちについてお話ししましたが、今日も子どもについてお話しします。先週は、イエスがご自身のわざにおいて、もっとも小さい者を守り、受け入れ、愛することの重要性について何度も語ったことを考察しました。
にもかかわらず、今日でも世界中で、何億人もの未成年者が、成人としての義務を果たす最低年齢に達していないにもかかわらず、労働を強制され、その多くがとくに危険な労働に服しています。売春やポルノのために人身売買の対象とされ、結婚を強要される少年少女についてはいうまでもありません。残念ながら、現代社会では、子どもたちがさまざまな形で虐待と不当な扱いを受けています。いかなる性格のものであれ、未成年者に対する虐待はおぞましく残忍な行為です。それは単なる社会の問題ではなく、犯罪です。神のおきてに深刻なしかたで背く行為です。いかなる未成年者も虐待を受けてはなりません。たとえ一例であっても、すでに多すぎます。それゆえ、わたしたちの良心を呼び覚まし、虐待された子どもと若者に寄り添い、具体的な連帯を示すと同時に、彼らに落ち着いて成長できる機会と場所を与えるために努力する人々の間に信頼と協力を築く必要があります。ラテンアメリカのある国では、〈アランダノ〉(クランベリーの一種)と呼ばれるたいへん特別な果物が栽培されています。〈アランダノ〉を収穫するためには繊細な作業が要求されますが、人々はその作業を子どもにさせています。収穫のために子どもを奴隷にしているのです。
蔓延する貧困、家庭への社会的支援の不足、近年の疎外の増大、そして失業と不安定な雇用は、子どもたちにもっとも大きな犠牲を強いる要因となっています。社会の分断と道徳的腐敗が人々を「蝕む」大都市では、薬物やさまざまな違法行為に手を染める子どもたちがいます。わたしたちはどれほど多くのこうした若者が犠牲となるのを目にしてきたことでしょうか。時として彼らは悲惨なしかたで他の同世代の若者の「処刑人」となるように仕向けられ、自らとその尊厳と人間性を傷つけています。にもかかわらず、道端や小教区の近くでこうした失われたいのちを目にしても、わたしたちはしばしば見て見ぬふりをするのです。
わたしの国でもそのようなことがありました。ロアンという若者が誘拐されましたが、その行方はだれも知りません。一説には、彼は移植のために臓器を摘出するために移送されたといいます。ご承知のように、このようなことが行われています。このようなことが行われているのです。傷を負って戻って来る者もいれば、亡くなる者もいます。だからわたしは今日、このロアンという若者を思い起こしたいと思います。
二人の子供が、同じ区域ないし共同住宅に住みながら、二人のうちの一人は恵まれない家庭に生まれたがために、それぞれ対照的な反対の道と運命に進むように導くような社会的不正を認めるのは辛いことです。夢見ることが許される者と、あきらめなければならない者の間に、受け入れることができない人間的・社会的断絶が存在します。しかし、イエスはわたしたち皆が自由で幸福な者となることを望まれます。そして、すべての人をご自分の子として愛されます。もっとも小さい者を優しいみ心をもって愛されます。だからイエスは、わたしたちが立ち止まり、声をもたない人、教育を受けていない人の苦しみに耳を傾けるよう求めます。搾取、とくに未成年者の搾取と闘うことは、社会全体にとってよりよい未来を築くための主要な道です。一部の国は知恵深くも子どもの権利を法制化しています。子どもは権利をもっています。子どもの権利とはいかなるものか、インターネットで調べてみてください。
それゆえ、わたしたちは自問することができます。わたしは何ができるだろうか。第一に、児童労働を根絶したいなら、それに加担してはならないことを認識すべきです。これはどのような場合でしょうか。たとえば、児童労働で生み出された製品を購入するときです。食品や衣料品の背後に、学校に行かずに働く搾取された子どもがいることを知りながら、どうして食べたり着たりすることができるでしょうか。自分が購入しているものについての意識が、加担しないための第一歩です。製品がどこから来ているかをよく調べてみてください。個人としてできることは多くないという人がいるかもしれません。たしかにそのとおりですが、一人ひとりが一滴となり、一滴が他の多くの滴と一緒になって海となることができます。しかし、教会を含むさまざまな機関や企業にもそれぞれの責任を自覚させる必要があります。児童労働を利用しない、または認めない会社に投資先を変えることによって変化をもたらすことが可能です。多くの国や国際機関はすでに児童労働を禁止する法律や指針を公布していますが、できることはまだ多くあります。ジャーナリストの皆さんにも――ここには何人かのジャーナリストがおられます――、それぞれの役割を果たしてくださるようにお願いします。皆さんは人々が問題を意識できるようにし、解決策を見いだす助けとなることができます。恐れずにこの問題を明らかにしてください。
子どもたちがあまりにも早い年齢で大人になることを強いられるのを見ても目を背けずにいる多くのかたがたに感謝します。イエスのことばをいつも思い出してください。「わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタ25・40)。主のぶどう畑で喜びをもって働いた、コルカタの聖テレサは、もっとも恵まれず、忘れられた子どもたちの母でい続けました。聖テレサは優しいまなざしと関心をもって、目に見えない小さな者たち、不正な境遇に放置してはならない世界の多くの奴隷状態に置かれた人々を目にするわたしたちに同伴することができます。なぜなら、もっとも弱い者の幸福が、すべての人の平和を築くからです。マザー・テレサとともに、わたしたちも子どもたちの声となろうではありませんか。
「わたしは、遊ぶことができる
安全な場所を願います。
愛することができる人の
ほほえみを願います。
子どもである権利を
希望をもつ権利を
よりよい世界をもつ権利を願います。
人格として成長することができることを願います。
わたしはあなたをあてにしてよいでしょうか」(コルカタの聖テレサ)。
ありがとう。
