
2026年2月1日(日)の正午に教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。 「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べた。 親愛なる兄弟姉妹の皆様。 隣り合う国である […]
2026年2月1日(日)の正午に教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
隣り合う国であるキューバとアメリカ合衆国の間の緊張の高まりに関するニュースを深い懸念をもって受け止めています。わたしはキューバ司教団のメッセージに心を合わせ、責任あるすべての人々に対して、暴力とキューバ国民の苦しみを増大させる可能性のあるあらゆる行動を避けるために、真摯で効果的な対話を推進するようにお願いします。コブレの愛の聖母がこの愛する地のすべての子らを守ってくださいますように。
コンゴ民主共和国の北キブ州の炭鉱の崩落による多くの犠牲者のために祈ることを約束します。主が、深い苦しみのうちにある人々を支えてくださいますように。
最近の数日間、ポルトガルとイタリア南部を襲った嵐によって亡くなったかたがた、被災したかたがたのためにも祈ります。洪水による深刻な被害を受けたモザンビークの人々のことも忘れません。
今日イタリアでは「世界の戦争と紛争の民間人犠牲者の追悼日」を記念します。残念ながら、この行事は悲惨な形で今日的な意味をもっています。実際、毎日、公然と道徳と法を侵す武力行使による民間人犠牲者が生まれています。このような容認しがたい不正が終わるとき、昨日と今日の死者と負傷者に真の意味で敬意を表することになるのです。
来る金曜日(2月6日)にミラノ・コルティナ冬季オリンピックが開幕し、パラリンピックが続いて開催されます。主催者とすべての選手の皆様にごあいさつ申し上げます。このすばらしいスポーツの祭典は、兄弟愛の力強いメッセージであり、平和な世界への希望を再び燃え上がらせます。それがオリンピックにともなって古来行われてきた「オリンピック休戦」の意味でもあります。諸民族の平和を求める人々と、権威ある地位にある人々が、この機会に緊張緩和と対話による具体的な行動をとることを願います。
1月28日(水)にコンゴ民主共和国東部の北キブ州ルバヤにある鉱山で起きた崩落事故により、これまでに200人以上が死亡したことが報道されている。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。
今日の典礼では、イエスが全人類に向けて告げ知らせた福音のすばらしい箇所が朗読されます。すなわち、真福八端の福音です(マタ5・1-12)。実際、それは主が歴史の暗闇の中でともした光であり、御父が聖霊の力によって御子を通して実現する救いの計画を明らかにします。
キリストは山上で弟子たちに新しい律法を授けます。それは、石ではなく、心に記された律法です。この律法は、たとえ世に対しては失敗し、みじめなものに思われても、わたしたちの人生を新たにし、よいものへと変えます。神だけが貧しい人々や苦しむ人々を真に幸いだと呼ぶことができます(3-4節参照)。なぜなら、神は無限の愛によってすべての人にご自身を与える、最高善だからです。神だけが平和と正義を求める人々を満足させることができます(6、9節参照)。なぜなら、神は世の正しい裁き主であり、永遠の平和の造り主だからです。柔和な人、あわれみ深い人、心の清い人は、神のうちにのみ喜びを見いだします(5、7-8節)。なぜなら、神が彼らの望みをかなえてくださるからです。神は迫害にあるときのあがないの源であり、いつわりにおける真理の錨です。なぜなら、イエスはこう宣言されるからです。「喜びなさい。大いに喜びなさい」(12節)。
この真福八端は、神をキリストが示した神と異なる形で考える人々にとってのみ、逆説であり続けます。権力者がつねに地上の支配者であることを期待する人々は、主のことばに驚き続けます。幸福が金持ちのものだと考えることに慣れている人々は、イエスを失望させる者と思うかもしれません。しかし、失望はキリストへの信仰の欠如のうちにあります。キリストは、すべての人とご自分の人生を共有する貧しい人であり、苦しみを耐え忍ぶ柔和な人であり、十字架の死に至るまで迫害された、平和を実現する人なのです。
このようにしてイエスは歴史の意味を照らします。この歴史は、勝利者によって記される歴史ではなく、神が抑圧された人々を救うことによって実現する歴史です。御子は御父の愛の現実主義によって世を見つめます。これに対して、教皇フランシスコが述べたとおり、「まやかしの名手」が存在します。「彼らは希望を与えられませんから、そうした人たちに従うべきではありません」(教皇フランシスコ「お告げの祈り(2019年2月17日)」)。これに対して神は、何よりもまず世が希望のない者として見捨てる人々に希望を与えます。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。ですから、真福八端はわたしたちにとって幸福の試金石となります。それはわたしたちに自問させます。自分たちは幸福を金で買う成果とみなすのか、分かち合われるたまものとみなすのか。幸福を消費される対象のうちに置くのか、自分たちに同伴する人間関係のうちに置くのかと。実際、試練の苦しみがあがなわれた者の喜びへと変えられるのは、「キリストのために」(11節参照)、すなわち、キリストのおかげです。イエスは、遠く離れた慰めについて語るのではなく、とくに苦難のときにわたしたちをつねに支えてくれる絶えざる恵みについて語るのです。
真福八端は、身分の低い者を高く上げ、思い上がる者を打ち散らします(ルカ1・51-52参照)。それゆえ、いつの世の人も幸いな者と呼ぶ、主のはしためである、おとめマリアの執り成しを願い求めます。
