
2026年3月8日(日)四旬節第3主日の午後5時(日本時間9日午前1時)からローマの奉献の聖マリア(サンタ・マリア・デッラ・プレゼンタツィオーネ)小教区でささげたミサ説教(原文イタリア語)。 ――― 親愛なる兄弟 […]
2026年3月8日(日)四旬節第3主日の午後5時(日本時間9日午前1時)からローマの奉献の聖マリア(サンタ・マリア・デッラ・プレゼンタツィオーネ)小教区でささげたミサ説教(原文イタリア語)。
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親愛なる兄弟姉妹の皆様。
四旬節第三主日に皆様とともにいられることをうれしく思います。四旬節第三主日は、受難と死と復活の過越に至るまでイエスに従うわたしたちの歩みの重要な段階です。
この旅路において、神の近さとわたしたちの信仰生活は深くからみ合っています。主はわたしたち一人ひとりのうちで洗礼の恵みを新たにしてくださることによって、わたしたちを回心へと招きながら、ご自身の愛と、わたしたちが果たすように示す愛のわざによって、わたしたちの心を清めます。このことに関連して、イエスとサマリアの女の出会いはわたしたちの取り組みを深めてくれます。実際、今日の福音は、わたしたちに語りかけるだけでなく、わたしたちについて語り、わたしたちが神との関係を見つめ直す助けとなります(ヨハ4章参照)。
サマリアの女のいのちと愛への渇きは、わたしたちの渇きでもあります。それは、罪によって傷つきながら、神への望みを深く抱く、教会と全人類の渇きでもあります。わたしたちは水を求めるのと同じように神を求めます。わたしたちは、たとえそのことに気づかなくても、さまざまな出来事の意味を問いかけ、自分自身と周りの人々のために望む善がどれほど不足しているかを感じるたびごとに、神を求めています。
わたしたちはこのような探求の中でイエスと出会います。イエスはすでに井戸のそばにおられます。サマリアの女は、真昼の太陽の下、旅に疲れて、井戸のそばに一人でおられるイエスに出会います。女は、おそらく他の女性たちの偏見に満ちた目を避けるために、普段と違う時間に井戸に来ています。イエスは女の心の中にこのような差別の理由を読み取ります。すなわち、結婚の失敗と現在の同棲によって、女が村の娘や妻や母親と一緒にいるのは不適切なものとなっています。にもかかわらず、イエスは女を待っていたかのように井戸のそばに座っています。この驚くべき出会いは、教皇フランシスコがしばしば述べたとおり、イエスが人を驚かす神を現すための方法の一つです。それは、わたしたちがどのような人生を送ろうとも、人生が主の前にどのような姿で示されようとも、その人生を変えるもっともすばらしい方法です。
イエスというかたは、他のだれよりもこのサマリアの女を愛します。女が日々の水を求めるとき、イエスは、すべての渇きをいやし、すべての安らぎを得ない心を安らがせることができる、新しい生きた水を女に与えようと望みます。なぜなら、この水は、神のみ心から湧き出て、あらゆる期待を満たすことのできる、尽きることのない水だからです。
イエスの働きかけは、水そのものよりも偉大な善の探求を開始させます。主は女にいわれます。「もしあなたが、神のたまものを知っていたならば」。それは非難ではなく約束です。「わたしは、あなたのためにたまものとなってくださる神を知らせるために、ここにいる」。たしかに神は、神を知らず、神から遠く離れ、罪に定められたあなたのためにたまものとなってくださいます。このたまものはあなたを変えます。あなた自身が永遠のいのちに至る水が湧き出る泉となるのです。かつての苦しみと霊的な乾燥に満ちた渇きの代わりに、神の子は、御父のあわれみから湧き出る水によって新たにされたいのちのたまものを与えてくださいます。主との出会いによってすべてが造り変えられます。渇いていた女は泉となり、排除された女は自信に満ちた女となります。恥辱に満ちた女は今や喜びに満たされ、村で沈黙していた女はすべての住民のための宣教者となります。
道を見失い、人生で失敗した自分が、神の清いたまものである新鮮な水を飲み、自らが他の人々のためのたまものとなることなど、女が想像もできなかったことでした。どのようにしてこのことが生じたのでしょうか。イエスと出会い、イエスと対話することによってです。イエスはわたしたちの救いのために人となられた、神の生けることばだからです。
福音の記事は、人であり、預言者であり、メシアであり、救い主であるイエスのあり方の根本的な特徴を次第に認識していく女の成長の歩みを正確に示します。サマリアの女は、イエスの傍らにいて、イエスに寄り添うことによって、自らも真理の泉となります。神のたまものである新しい水は、女の心から湧き出始めました。すると女はすぐに自分の村へと走って戻るようにという促しを感じます。ついに女は恥辱から解放され、自分を自由にしたかたであるイエスをすべての人に知らせたいと望むようになります。このかたによってすべての驚くべきことが可能にされたからです。女はかつて自分を罪に定めた人々のところに行きます。神が彼女をゆるしてくださったからです。そして女はそのことを語り、告げ知らせ、あかしします。女を井戸に赴くように駆り立てた水への渇きは、今や彼女を造り変えた、自分を圧倒する新しいことを伝えたいという望みに変わります。
親愛なる友人の皆様。わたしたちは皆、洗礼によって新しい水の恵みを受けました。この恵みはあらゆる罪を洗い流し、あらゆる渇きをいやします。サマリアの女と同じように、四旬節の今日、わたしたちはこの秘跡のたまものを再発見するための時を与えられています。洗礼の秘跡は、門のように、わたしたちを信仰とキリスト教生活へと導き入れてくれます。主は優しいよい牧者として、わたしたちを待っておられ、わたしたちがどこにいても、わたしたちがどのような状態にあっても、つねにわたしたちに同伴してくださいます。主はあわれみをもってわたしたちの傷をいやし、わたしたちのためのたまものとなり、わたしたちも兄弟のためのたまものとなることを可能にしてくださいます。
皆様の小教区共同体がさまざまな課題のある地域に置かれていることをわたしはよく承知しています。懸念すべき疎外と、物質的・道徳的貧困の状況には事欠きません。青少年や若者も、死の商人に欺かれたり、未来に幻滅しながら成長する危険にさらされています。多くの人が、住居と、尊厳のある生活を保障する雇用と、出会い、遊び、何かよいことを共に計画することのできる安全な環境を待ち望んでいます。
福音の井戸と同じように、この小教区には、心の傷を負い、尊厳を犯され、希望に飢え渇く人々が訪れます。皆様の緊急の、人々を解放する務めは、イエスが近くにおられることを示すことです。公正で真実で完全な生活を提案することによって、脅威となる悪からわたしたちの生活を救い出したいというイエスのみ心を示すことです。すべてのキリスト教共同体の脈打つ鼓動である聖体から出発することによって、皆様の小教区共同体の活動が教会のしるしとなるように、皆様を励まします。それは、母として、非難することなしに自分の子らを気遣い、受け入れ、彼らに耳を傾け、危険に対する支えとなる教会です。真理の泉としてわたしたちの中から湧き出る福音のことばが、わたしたち一人ひとりが目を開き、何が善であり何が悪であるかを知恵をもって判断でき、自由で成熟した良心を形成するための助けとなってくれますように。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。信頼をもって前に進んでください。どんな状況においても、主はわたしたちとともに歩み、わたしたちの歩みを支えてくださいます。至聖なるおとめマリアが皆様の信仰の歩みに寄り添い、謙遜に勇気をもって福音をのべ伝える喜びを与えてくださいますように。
