
教皇レオ十四世、2026年3月11日、一般謁見演説
連続講話「第二バチカン公会議の諸文書」
Ⅱ.『教会憲章』(Lumen gentium)
3.神の民である教会(聖書朗読箇所:エレ31・33)
2026年3月11日(水)午前10時(日本時間同日午後6時)からサンピエトロ広場で行った一般謁見演説(原文イタリア語)。
今日レバノンのクラヤアで、レバノン南部のキリスト教村落の一つのマロン典礼小教区の司祭であるピエール・エル・ライイ神父の葬儀が行われます。これらのキリスト教村落は再び戦争の悲劇を経験しています。わたしはこの厳しい試練の時にある全レバノン国民に寄り添います。
アラビア語で「エル・ライイ」は「牧者」を意味します。ピエール神父は、よい牧者であるイエスの愛と犠牲をもって自分の民につねに寄り添い続けた、真の牧者でした。ピエール神父は、爆撃によって何人かの小教区信徒が負傷したと聞くとすぐに、躊躇することなく彼らを助けるために駆けつけました。主が、ピエール神父の流した血を、愛するレバノンのための平和の種としてくださいますように。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。イランと中東全体の平和のために、とくに罪のない多くの子どもを含む多数の民間人の犠牲者のために祈り続けてください。わたしたちの祈りが苦しむ人を慰め、未来に対する希望の種となりますように。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。ようこそおいでくださいました。
公会議の『教会に関する教義憲章』(Lumen gentium)の考察を続けているわたしたちは、今日、神の民をテーマとする第二章について考察します。
世界と人類を創造し、すべての人を救うことを望まれる神は、具体的な民を選び、彼らの中に住まうことによって、歴史において救いのわざを行います。そのため神はアブラハムを召し出し、その子孫が天の星のように、海辺の砂のように増えることを彼に約束します(創22・17-18参照)。神はアブラハムの子らを奴隷状態から解放した後、彼らと契約を結び、彼らに寄り添い、彼らを守り、彼らが迷うたびに彼らを呼び集めます。それゆえ、この民のアイデンティティは、神のわざと神への信仰によって与えられます。彼らはすべての民族、全人類を自らのもとに引き寄せる灯台のように、他の諸国民のための光となるように招かれます(イザ2・1-5参照)。
公会議はこう述べます。「これらすべてのことは、キリストにおいて結ばれる新しい完全な契約と、人となった神のみことば自身によって伝えられるより十全な啓示を準備して表象するものであった」(『教会憲章』9[Lumen gentium])。実際、キリストは、ご自身のからだと血を与えることにより、この民をご自身のうちに決定的なしかたで集めます。今やこの民はあらゆる国から来た人々から構成されます。しかし彼らは、キリストへの信仰と、キリストとの一致と、復活したかたの霊に生かされたキリストと同じいのちを生きることによって一つに結ばれています。これが教会です。それは、キリストのからだから自分の存在を引き出し(1)、キリストのからだそのものである(2)、神の民です。それは他の民のような民ではありません。むしろ、神によって呼び集められ、地上のすべての民族から来た人々から成る、〈神の〉民です。この民を一致させる原理は、言語でも文化でも民族でもなく、キリストへの信仰です。それゆえ教会は――公会議の輝かしい表現を用いるならば――「イエスを信じ仰ぐ人々の集まり」(『教会憲章』9[Lumen gentium])です。
教会は、まさにメシア、キリストを頭とするがゆえに、メシア的な民です。教会の成員が功績や称号を誇ることはありません。むしろ彼らが誇るのは、キリストのうちに、キリストによって神の子どもであるというたまものだけです。それゆえ、教会において真に大切なのは、あらゆる務めや任務以前に、キリストに接ぎ木されていること、恵みによって神の子どもであることです。これが、わたしたちがキリスト信者として求めるべき唯一の名誉ある称号でもあります。わたしたちは、御父からたえずいのちを与えられ、互いに御父の子ども、兄弟として生きるために、教会の中に存在します。したがって、教会における人間関係を生かす法は、愛です。この愛を、わたしたちはイエスのうちに与えられ、体験します。そして教会の目的は神の国です。教会はこの神の国を目指して全人類とともに歩みます。
すべての人の主であり救い主であるキリストと一つに結ばれた教会は、決して自分のうちに閉じこもることができず、むしろ、すべての人に対して、すべての人のために開かれています。公会議はわたしたちに次のことを思い起こさせます。キリストを信じる者が教会に属しているなら、「すべての人が、神の新しい民に加わるように招かれている。したがって、この民は、単一、唯一のものとして存続しながら、全世界に向かって、またあらゆる時代を通して広められるはずのものである。それは、初めに人間性を一つのものとして造り、分散してしまった自分の子らを一つに集めることを決意した神のみ心の計画が成就されるためである」(『教会憲章』13[Lumen gentium])。それゆえ、まだ福音を受け入れていない人々も、ある意味で神の民と教会へと方向づけられています。そして教会は、キリストの使命に協力しながら、すべてのところで、すべての人に福音を広めるように招かれています(『教会憲章』17[Lumen gentium]参照)。それは、すべての人がキリストと出会うことができるようになるためです。これは次のことを意味しています。教会の中にはすべての人のための場所があり、また、なければなりません。そして、すべてのキリスト信者は、福音をのべ伝え、自分が生活し、活動するあらゆる場であかしを行うように招かれているということです。こうしてこの民は、さまざまな文化の豊かさと資源を受け入れると同時に、それらを清め、高めるために福音の新しさをそれらの文化に与えることによって、自らのカトリック性を示します(『教会憲章』13[Lumen gentium]参照)。
この意味で、教会は唯一でありながら、すべての人を含みます。ある偉大な神学者が次のように述べるとおりです。「救いの唯一の『箱舟』として、教会は、その広大な身廊のうちに種々さまざまな人間のすべてを収容せねばならない。教会は祝宴の唯一の大広間であり、教会が供する料理は全被造物から受けたものである。教会はキリストの縫い目のない寛衣であり、また同時に、色とりどりに織りなされたヨセフの寛衣でもある」(3)。
とくに多くの紛争と戦争を経験している現代にあって、教会が、国籍、言語、また文化を異にする人々が信仰の力によってその中で共存する民であるのを知ることは、大きな希望のしるしです。教会は人類の心そのものに置かれたしるしです。それは、父である神がそのすべての子らをそこへと招いている、一致と平和への呼びかけ、また預言なのです。
