教皇レオ十四世、2026年3月15日、ポンテ・マンモロのイエスのみ心小教区におけるミサ説教

2026年3月15日(日)四旬節第4主日の午後5時(日本時間16日午前1時)からローマのポンテ・マンモロのイエスのみ心小教区(サクロ・クオーレ・ディ・ジェズ・ア・ポンテ・マンモロ)でささげたミサ説教(原文イタリア語)。こ […]

2026年3月15日(日)四旬節第4主日の午後5時(日本時間16日午前1時)からローマのポンテ・マンモロのイエスのみ心小教区(サクロ・クオーレ・ディ・ジェズ・ア・ポンテ・マンモロ)でささげたミサ説教(原文イタリア語)。これが2月15日から始まった毎週日曜日の教皇によるローマ教区の5つの小教区連続訪問の最後となる。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の感謝の祭儀はこれまでにない喜びを帯びています。実際、わたしたちの今日のすばらしい集いは「喜び」の主日の雰囲気のうちに位置づけられます。この「喜びなさい」(laetare)はイザヤのことばからとられたものです。「エルサレムよ、喜べ」(入祭唱。イザ66・10参照)。

 このことはわたしたちに次のことを考えさせます。世界では現在、多くのわたしたちの兄弟姉妹が暴力的な戦争によって苦しんでいます。これらの暴力は、平和のために絶え間ない対話を必要としているときに、戦争によって問題と意見の相違を解決しようとする愚かな主張によって引き起こされています。さらにある人々はこうした死の選択に神の名を巻き込もうと望みます。しかし、神が闇の戦いに参加することはありえません。むしろ神はつねに人類に光と希望と平和を与えるために来られます。そして神は平和です。神に祈り求める人は平和を求めなければなりません。

 今日の主日のメッセージはこれです。人が自らの罪によって陥るどのような谷をも超えて、キリストはより強い光をもたらすために来られます。この光は悪の盲目から人を解放します。なぜなら、この光は新たな人生を開始させるからです。

 実際、イエスと生まれつきの盲人の出会いは(ヨハ9・1-41参照)、誕生の情景にたとえることができます。この誕生によって、生まれて来る幼子と同じように、この盲人は神の目によって自己と他者と人生を見ることによって、新しい世界を見いだします(サム上16・9参照)。

 ここで自問してみたいと思います。このまなざしは何から成り立っているでしょうか。それは何を明らかにするのでしょうか。「神の目で見る」とはどのようなことでしょうか。

 福音書記者ヨハネの記事によると、それは何よりもまず、苦しんでいる人を前にして、そのような人を蔑むべき拒絶された人、避けるべき問題としか考えず、利己主義的な個人主義の鎧に閉じこもるような人の偏見を乗り越えることを意味します。わたしたちはしばしば次のようなことばを耳にします。「ものごとがうまくいっているときには多くの友人がいたのに、試練のときにはその多くが離れ去ってしまった」。イエスはこのようなことをなさいません。イエスは目の見えない人を愛をもって見つめます。そして、その人を劣った人、厄介な存在としてではなく、助けを必要とする愛すべき人格として見つめます。こうして二人の出会いは、すべての人のうちに神のわざが示されるための機会となります。

 イエスは「しるし」、すなわち奇跡によって、神の力を現します。そして、いわば創造のわざを繰り返すようにして――泥と唾――、神の像と似姿として造られた被造物の美しさと尊厳を完全に回復して示します。こうして視力を回復した盲人は、光の証人となります。

 当然のことながら、それには努力が伴います。この人はそれまで知らなかった多くのことに慣れ、色と形を区別することを学び、人間関係を築き直さなければなりません。そしてそれは容易なことではありません。そればかりか、この人を取り巻く敵意は増し、人々は彼を問いただし、彼の両親さえも彼を弁護する勇気をもちません(ヨハ9・18-23参照)。不条理にも、彼の身近な人々は、起こったことを無効にしようとするかのように思われます。そればかりではありません。今や目が見えるようになった盲人に対する尋問の中で、訴えられるのは何よりもイエスです。イエスはこの人をいやすことによって、安息日を破ったとして告発されます。

 こうしてそこに居合わせた人々のうちにもう一つの盲目性が明らかにされます。それは別の、さらに深刻な盲目性です。すなわち、神のみ顔を目の当たりにしながら、それが見えないことです。この人々は、救いをもたらす出会いの可能性を、形式的な規則を厳密に守ることによって与えられる不毛な安心と交換します。イエスはこのような鈍感な心を前にして、ためらうことなく、愛のわざをさまたげることのできる「安息日」など存在しないことを示します。要するに、イスラエルの民にとっての安息日の安息の意味は――そして、わたしたちにとっての主日、すなわち主の日の安息の意味は――、いのちの神秘をたまものとして祝うことです。このたまものを前にして、だれも苦しむ兄弟姉妹の助けを求める叫び声を無視することはできません。

 その意味で、もしかすると時としてわたしたちも、他者とその問題に気づかないとき、目が見えなくなることがありえます。しかしイエスは、わたしたちが、初期キリスト教共同体がよく理解していたように、別の生き方をするように求めます。初期キリスト教共同体においては、兄弟姉妹がたえず祈りながら、喜びと素朴な心をもってすべてのものを分け合いました(使2・42-47参照)。当時もさまざまな困難や障害がありました。しかし彼らがそれに屈することはありませんでした。彼らは洗礼のたまものによって力づけられて、新しい被造物として生きようと努めました。彼らはすべての人との交わりと平和のうちに生き、共同体のうちに、自分たちに寄り添って自分たちを支える家族を見いだしたのです。

 愛する友人の皆様。これがわたしたちが光の子としてもたらすように招かれた実りです(一テサ5・4-5参照)。そして皆様の小教区は約90年にわたりこの使命を忠実に果たして来られました。皆様は貧困と疎外と非常時の状況に特別に配慮し、皆様の地域にあるレビビア刑務所の存在に注意を向け、その他の気遣いと連帯のさまざまなしるしを示して来られました。

 わたしは、皆様が他の国々から来た多くの兄弟姉妹がこの地に定住できるように助けておられることを知っています。皆様は彼らが言語を学び、ふさわしい家を見つけ、公正で安定した仕事ができるように助けて来られました。困難も存在します。残念ながら、自分の利益を得るためにもっとも弱い人々の貧困状態を躊躇なく利用しようとする人々によってこの困難が悪化することも時として見られます。しかし、皆様がカリタスの奉仕、困難のうちにある女性や母親を受け入れるためのファミリーホーム、その他の活動によってこれらの課題に取り組んでおられることをわたしは知っております。またわたしは、皆様が活発に惜しみない心で、集会所や他の教育プログラムによって若者の教育に力を注いでおられることも知っております。

 聖アウグスティヌスは、わたしたちが世においてその鏡となるように招かれている神のみ顔について語りながら、当時のキリスト信者に向けてこう述べています。「愛はどんな顔をもっているのでしょうか。どんな形をもっているのでしょうか。どんな身長をもっているのでしょうか。どんな足をもっているのでしょうか。どんな腕をもっているのでしょうか。〔……〕両足はもっているのです。なぜなら、自らを教会へと運ぶからです。両腕はもっているのです。貧しい人たちへとそれを伸ばし差し出すからです。両目はもっているのです。なぜなら、それによって困窮している人のことが理解されるからです」(『ヨハネの手紙一講解』[In Johannis epistulam ad Parthos tractatus 7, 10〔岡野昌雄・田内千里・上村直樹・茂泉昭男訳、『アウグスティヌス著作集26 パウロの手紙・ヨハネの手紙説教』教文館、2009年、524頁〕])。また聖アウグスティヌスは愛について付け加えてこう述べます。「愛を保有しなさい、それを抱きなさい。愛にまさって甘美なものはないのですから」(同[ibid.〔前掲邦訳、525頁〕])。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。これが皆様にゆだねられた光のたまものです。皆様がこの甘美なたまものを皆様のうちで、皆様の間で成長させ、祈りとしばしば秘跡にあずかることと愛のわざによってそれを世に広めてくださいますように。皆様がその歩みの中でこの取り組みを続けてくださいますように。

 皆様の小教区がささげられているイエスのみ心が、このすばらしい共同体をつねに形づくり、守ってくださいますように。こうして皆様の共同体が、キリストと同じ思いで(フィリ2・5参照)、喜びと献身をもって、与えられた恵みの宝を生き、あかしすることができますように。

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