
2026年4月12日(日)復活節第二主日(神のいつくしみの主日)の正午に教皇公邸書斎の窓から「アレルヤの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。 「アレルヤの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べた。 […]
2026年4月12日(日)復活節第二主日(神のいつくしみの主日)の正午に教皇公邸書斎の窓から「アレルヤの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
今日、多くの東方教会はユリウス暦に従って復活祭を祝います。復活した主への信仰の交わりのうちに、これらの共同体の皆様に心から平和のあいさつを送ります。このあいさつとともに、戦争によって苦しむ人々、とくに愛するウクライナの人々のために心から祈ります。キリストの光が苦しむ人々の心を慰め、平和への希望を力づけてくださいますように。国際社会がこの戦争の悲劇に対する関心を失うことがありませんように。
愛するレバノンの人々にも、この苦しみと恐怖と神への揺るぎない希望の日々の中で、これまでに増して寄り添います。すべての人の良心に記され、国際法の中で認められた人道的原則は、戦争の残酷な影響から民間人を保護する道徳的義務を伴います。わたしは紛争当事者に対して、停戦と、平和的解決の早急な追求を呼びかけます。
今週の水曜日(4月15日)に、スーダンにおける流血の紛争が開始して3年を迎えます。罪なくしてこの非人道的な悲劇の犠牲となったスーダンの人々の苦しみはいかばかりのものでしょうか。戦争の当事者に対して、武器を沈黙させ、この兄弟どうしの戦争を一刻も早く終わらせるために無条件で真摯な対話を開始するよう呼びかけます。
終わりに教皇は次のようにイタリア語で述べた。
明日(4月13日)、アルジェリア、カメルーン、アンゴラ、赤道ギニアのアフリカ4か国への10日間の使徒的訪問のために出発します。祈りをもってわたしに同伴してくださるようにお願いします。ありがとうございます。
皆様、よい日曜日をお過ごしください。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。あらためてご復活おめでとうございます。
教皇聖ヨハネ・パウロ二世によって神のいつくしみにささげられた、今日の復活節第二主日に、福音の中で使徒トマスへの復活したイエスの出現が語られます(ヨハ20・19-31参照)。この出来事は、復活の八日後、共同体が集まっているときに起こりました。そのときトマスは師であるかたと出会います。師であるかたは、トマスに、釘の跡を見、手を脇腹の傷に入れ、信じるようにと招きます(27節参照)。これは、復活したイエスとわたしたちの出会いについて考えさせる場面です。わたしたちはどこで復活したイエスと出会うでしょうか。どのようにしてこのかたを認めるでしょうか。どのようにこのかたを信じるでしょうか。この出来事を語る聖ヨハネは、わたしたちに正確な指示を与えます。トマスは〈八日目に〉、〈集まっていた共同体〉の中で、イエスと出会い、〈その犠牲のしるし〉のうちにイエスを認めます。この経験から、四福音書全体の中でもっとも崇高な信仰告白が生まれます。「わたしの主、わたしの神よ」(29節)。
確かに、信じることはかならずしも容易なことではありません。トマスにとってもそうでしたし、わたしたちにとっても同じです。信仰は、養われ、支えられることを必要とします。そのため、「八日目」、すなわち、主日のたびごとに、教会はわたしたちが最初の弟子たちと同じように行うように招きます。すなわち、集まって、ともに感謝の祭儀を祝うようにと。わたしたちは感謝の祭儀の中でイエスのことばに耳を傾け、祈り、信仰を宣言し、愛のうちに神のたまものを分かち合い、キリストのいけにえとの一致のうちに自分のいのちをささげ、キリストのからだと血によって養われます。それは、「ミサ」すなわち「派遣(ミッシオ)」ということばが示すとおり(『カトリック教会のカテキズム』1332参照)、その後、わたしたちもキリストの復活の証人となるためです。
主日の感謝の祭儀は、キリスト者の生活にとって欠くことのできないものです。明日わたしはアフリカへの使徒的訪問に出発します。ところで、最初の数世紀のアフリカ教会の何人かの殉教者、すなわちアビティナエの殉教者は、このことに関してすばらしいあかしを残しました。感謝の祭儀を祝うことをやめればいのちを助けるという申し出がなされたとき、彼らは、主の日を祝わなければ生きることはできないと答えました。わたしたちの信仰は感謝の祭儀によって養われ、成長します。感謝の祭儀によって、わたしたちの努力は、たとえそれが限界のあるものであっても、神の恵みによって、一つのからだ――キリストのからだ――の部分の働きに結びつけられて、全人類に対する唯一の偉大な救いの計画を実現します。感謝の祭儀によって、わたしたちの手も「復活した主の手」となります。労働と、犠牲と、歳月の経過のしるしのうちに、復活した主の現存と、あわれみと、平和のあかしとなります。これらのしるしはしばしば、優しく触れ、握手し、愛のわざを行うことによって、手の中に刻まれるからです。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。平和を強く必要としている世界の中で、このことはこれまでに増してわたしたちが聖体における復活した主との出会いを熱心に信じるようにと促します。それは、わたしたちが愛の証人、和解の担い手として再出発するためです。最初に見ないのに信じた(ヨハ20・29参照)おとめマリアが、このように行うことができるようにわたしたちを助けてくださいますように。
