
教皇レオ十四世、2026年6月3日、一般謁見演説
連続講話「第二バチカン公会議の諸文書」
Ⅲ.『典礼憲章』(Sacrosanctum Concilium)
3.儀式、しるし、象徴(聖書朗読箇所:ルカ24・28-31)
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
『典礼憲章』(Sacrosanctum Concilium)に関する講話を続けるわたしたちは、聖なる典礼を構成するいくつかの要素、すなわち、儀式、しるし、象徴について少し考察したいと思います。
第二バチカン公会議は、典礼運動の貴重な成果に基づいて、わたしたちが古代教会の意識と教父の教えのうちにきわめて生き生きとした真理を再発見できるように助けてくれました。キリスト教典礼の儀式は、秘跡の神秘の外的な覆いや、恣意的な儀式の集合体ではなく、神のたまものがわたしたちに届くために教会が行う仲介です。だからこそ公会議は、典礼の中で儀式と祈りを通して実現される〈信仰の神秘〉(Mysterium fidei)を理解するようにわたしたちを招きます(『典礼憲章』48参照)。
儀式は典礼行為に形を与え、また儀式を通してわたしたちの生活を形づくり、わたしたちがイエス・キリストを通して神の現存を味わうことを可能にする霊的な感受性をわたしたちのうちに生み出します。当然のことながら、このことは、わたしたちが典礼に対して部外者あるいは傍観者にとどまるのではなく(同)、主の命令に従って自らの全体――からだと思いと心――で典礼に参加するときに起こります。こうしてわたしたちは聖なる儀式を通して、神のことばに耳を傾け、感謝と礼拝をささげ、兄弟愛を分かち合い、教会の交わりを深めるように形づくられます。わたしたちは、自分たちが同じ信仰によって一つに結ばれた、多くの顔をもった集まりであることを再発見します。
儀式は明確に定められた一連の動作を行わせますが、こうした動作は時としてわたしたち個々人の自発性への傾向と対立することがありえます。しかし、儀式の論理は自由を枠にはめることではありません。反対に、儀式は、そのリズムの落ち着いた荘厳さによって、慌ただしい活動を中断させ、わたしたちを本質的なものへと連れ戻します。こうしてわたしたちは、生産性を求める計算によって導かれることのない行動の新たな次元、時間と空間の新たな次元を再発見します。わたしたちは儀式の中で無償性の論理を体験し、心を生まれ変わらせる安息を見いだし、神の恵みが自らに先立つことを認識し、聖霊に満たされたリズムのうちに生きることを学びます。
儀式の文法は、典礼の固有なしるしと象徴によって織りなされています。公会議が述べるとおり、「典礼において、人間の聖化が感覚的なしるしによって示され、それぞれのしるしに固有のしかたで実現される」(『典礼憲章』7)のです。『カトリック教会のカテキズム』はこれらのしるしの価値を考察して次のことを思い起こさせます。「これらのしるしや象徴の意味は、創造のわざと人間文化とに根を下ろし、旧約時代の出来事の中で徐々に明らかにされ、キリストご自身とそのわざにおいて完全に明らかなものとされます」(同1145)。水のしるしは特徴的です。それは、創造の初めから洪水まで、紅海の渡渉からヨルダン川まで、そして、キリストの脇腹から流れ出て、キリストの死と復活に浸される秘跡のしるしとなる水にまで及びます。
「しるし」と「象徴」はしばしば同義語として用いられる術語です。実際には、しるしは、それが単なる思想ではなく、意味と価値の体系全体を示すことができるときに、象徴となります。こうして、たとえば、祝福された水を注がれるとき、洗礼によって与えられたたまものに関する自覚と、キリストにおける新たな生活への決意とが、わたしたちのうちで新たにされます。第二に、象徴は、何よりもまず行為であることによって、本質的に実践的な性格をもちます。ひざまずいて平和を祈るように、単純で共同の行為もあれば、あらゆる秘跡を構成する行為のように、より拘束力のある行為もあります。何よりも象徴は、それを成り立たせる物質的な要素に対しても、それに触れる人々に対しても、行為遂行的で変容をもたらす独特の次元をもちます。それは帰属意識を生み、心と精神に触れ、真の教会的関係を生み出すからです。
教皇フランシスコは使徒的書簡『わたしはせつに願っていた(2022年6月29日)』(Desiderio desideravi)の中で、ロマーノ・グァルディーニのことばを自分のものとしながらこう述べます。「典礼的養成の務めにおける最初の課題は〔……〕人間がもう一度、象徴(シンボル)を理解できるようにならなければならないということです」(同44)。わたしたちは、典礼の儀式によって教育され、祭儀の美しさを繊細な手で恣意性なしに大切にし、真の秘義教育に努めなければなりません。適切な秘義教育のカテケージスを伴う生きた敬虔な典礼の体験は、神との出会いへと開かれた心をすべての人の中に再び呼び覚ますための最良の手段です。この開かれた心は、受肉の論理の中で、霊も魂もからだも含めた(一テサ5・23参照)人間全体をかかわらせることによって初めて生じうるのです。
