
教皇レオ十四世、2026年8月12日、一般謁見演説
連続講話「第二バチカン公会議の諸文書」
Ⅲ.『典礼憲章』(Sacrosanctum Concilium)
6.典礼暦年(聖書朗読箇所:黙1・5-8)
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
第二バチカン公会議『典礼憲章』(Sacrosanctum Concilium)第5章は典礼暦年に当てられています。今日はこのテーマに目を向け、すべての信者の生活における典礼暦年の価値を説明したいと思います。
何よりもまず思い起こすべきなのは、キリスト教の祝祭日の周期を「典礼暦年」と呼ぶことは、修道院長・神のしもべプロスペル・ゲランジェ(1805-75年)によって教会用語として広まったことです。
教皇ピオ十二世は回勅『メディアトル・デイ(1947年11月20日)』(Mediator Dei)の中でこう述べます。「典礼暦年は〔……〕単なる過ぎ去った出来事の、冷たい、力のない表現でも、昔の物事の単なる想起でもない。それはむしろキリスト自身であり、キリストが教会の中に生き続け、限りのない愛の道を歩んでおられる。キリストは、地上の生活において、各地を巡って善を行いつつこの道を始められた。人の魂がキリストの諸神秘に触れ、いわばそれによって生きるよう慈悲深く配慮されたのである。実に諸神秘は〔……〕、つねに現存し、働いている」(『メディアトル・デイ』第三部 聖務日課と典礼暦年、第二章 典礼暦年[小柳義夫訳、あかし書房、1970年、144頁])。それゆえ典礼暦年を、キリストが歴史の中で実現する救いのわざを絶えず現実化するものとして理解しなければなりません。教会はこの時間的周期をたどることによって主のあがないのわざに触れ続け、こうしてすべての信者は主の恵みで満たされます(『典礼憲章』102c参照)。わたしたちのために死んで復活されたイエスとの出会いは、教会がつねに追い求める目的であり、過越の出来事を祝うことをあらゆる瞬間の中心に据えます。
そのため公会議教父は、「根源的な祝日」である主日を「典礼暦年全体の基礎であり中核」(『典礼憲章』106参照)とみなします。現代のさまざまな言語における主日の名称は、それが「主の日」(dies Domini)であることを示します。主日をおもに「太陽の日・日曜日」(Sunday, Sonntag)と呼ぶ言語においても、キリストとのつながりが垣間見られます。キリストはすべての人を照らす真の「正義の太陽」なのです。
教皇聖ヨハネ・パウロ二世は使徒的書簡『主の日――日曜日の重要性(1998年5月31日)』(Dies Domini)の中で、主日は主の日であり、教会の日であり、人間の日であり、究極的に「この上ない日」であると教えます。「日曜日は週ごとの復活祭であり、キリストが死者のうちから復活した日を思い起こし、その日を現実のものとします。そのため、日曜日は時間の意味を明らかにする日でもあるのです。〔……〕復活から生じ、人間の時間、年月、世紀を貫いて行き先を示す矢印のように、キリスト者が目指す目標、すなわちキリストの第二の到来を指し示します。日曜日は終わりの日、すなわち「再臨(パルーシア)」の日をあらかじめ示します」(同75)。その日、すべての人が再びよみがえるのです。
主日を聖化するために根本的なのは、感謝の祭儀を祝うことです。公会議教父によれば、みことばに耳を傾け、キリストのからだにあずかることは、「一つに集まる(convenire in unum)」『典礼憲章』106参照)こと、すなわち信者が集まって祝うことを意味します。キリスト教共同体はこの集会によって主との交わりそのものを目に見えるものとし、自分たちがキリストに属し、教会に忠実に従うことをあかしします。この集会を単なる仮想的な存在に置き換えたり、単なる受動的な集まりに矮小化したりすることはできません。実際、典礼集会は、「『新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えて』(一ペト1・3)くださる神に感謝をささげるため」(同)にともに集められた兄弟姉妹の行動的な参加によって行われます。
このことに関連して、すべての人にお願いします。主日に仕事を休むことができない人もミサにあずかることができるようにするためのよりよい条件を整えるように努めてください。
愛する友人の皆様。主日によって区切られた典礼暦年は、教会の信仰と信心を絡み合わせる興味深い歴史をもちます。実際、2世紀以来、週ごとの復活の記念に、年に一度の復活祭の「盛儀」(『典礼憲章』102)が付け加えられました。復活祭は聖霊降臨祭で頂点に達する50日間の「喜びに満ちた期間」へと延長され、悔い改めの性格をもつ四旬節によって準備されます(『典礼憲章』109参照)。過越の聖節をモデルとしてその後行われた降誕の聖節の発展は、神のことばの受肉と、主の降誕と、世に対する主の公現の神秘を再体験することを可能にしました。やがて教会は、「御子の救いのわざから切り離すことができないほどのきずなで結ばれたかた」(『典礼憲章』103)であるおとめマリアの崇敬と、「天において神に完全な賛美を歌い、われわれのために執り成している」「殉教者や他の聖人たちの記念」(同104)をさまざまな季節の中に組み込みました。
このように典礼暦年は、救いの歴史に関する教えを秘跡の形であらためて提示し、メシアの期待から、過越の神秘の完成へ、そして将来の栄光の先取りへと信者を導きます。教会は典礼暦年によってキリストの神秘の救いをもたらす現実を祝い、信者がこの神秘にますます深くあずかることを可能にします。そのため典礼暦年は、あらゆる司牧活動にとっての指導原理であり、その本質的な枠組みをなすものです。
