教育基本法改定への懸念について

2006年11月2日 内閣総理大臣 安倍晋三様 文部科学大臣 伊吹文明様 教育基本法改定への懸念について  安倍首相は、9月29日に行われた初の所信表明演説のなかで、「教育の目的は、志のある国民を育て、品格ある国家、社会 […]

2006年11月2日

内閣総理大臣 安倍晋三様
文部科学大臣 伊吹文明様

教育基本法改定への懸念について

 安倍首相は、9月29日に行われた初の所信表明演説のなかで、「教育の目的は、志のある国民を育て、品格ある国家、社会をつくること」であると述べられ、教育基本法「改正」案(以下「政府改定案」という)の早期成立を期すとされました。これについて、日本カトリック司教協議会社会司教委員会は、以下のとおり深刻な懸念を表明いたします。

 ご存知のようにカトリック教会は、長らく我が国の教育に協力してまいりました。現在、幼稚園、小学校、中・高等学校、短期大学、専門専修学校、大学と各種学校など800余りの施設において、24万人以上におよぶ園児、児童、生徒と学生の成長のために、日夜できるかぎりの力を注いでおります。
  また、国際的な共同体であるカトリック教会は、すでに何世紀にもわたり、世界のいたるところで、その国や地域の社会や文化のさまざまな必要性に応じつつ、子どもと成人の人間的な可能性の開花のために尽力してまいりました。
  こうした実践と経験に照らすとき、去る4月28日の閣議決定により上程された教育基本法改定案に示される教育観は、これからの児童・生徒・学生の人格的な発展と、彼らが担う日本と国際社会の将来に重大な障害をもたらすものであるので、カトリック教会としては、受け入れることができません。その理由は以下のとおりです。

現行教育基本法の変わらぬ価値

 今日の日本の教育制度が看過できぬほど疲弊し、危機に直面していることはたしかです。いじめや不登校、学級崩壊、自立心・学ぶ意欲と学力の低下、学校間の格差拡大、青少年の規範意識や道徳心の希薄化、家庭や地域による教育力の弱まり、大学の国際競争力の不十分さなど、教育をめぐる状況にはさまざまな問題が渦巻いています。安倍首相が言われるとおり、日本の教育を根本から見直し、子どもと親と教師が安心して希望をもって学べる環境をつくる「教育の再生」は、焦眉の課題です。しかしながら、これについては拙速な国会審議による法制の改定ではなく、主権者である国民の一人ひとりが、いかにすればこの国の次世代に、生き甲斐と希望を与える創造性豊かな教育が可能になるかを考えるために、「百年の計」といわれる息の長い徹底した議論が続けられなければなりません。
  子どもが直面している問題は、大人社会のゆがみの投影でもあるのですから、原因のすべてを教育に負わせ、「だから教育基本法を改定する」というのは短絡にすぎるのではないでしょうか。日本社会全体をおおう自信喪失や閉塞感、不安感の広がり、倫理観や社会的使命感の喪失は、法律の条文を変えることで解決できることではありません。他のより根深い原因を見いだし、総合的に解決の道を探ることこそが政治の課題ではないでしょうか。現在、国会で審議されている政府改定案および安倍首相による教育再生会議は、学校や学区選択の自由化にともなう学校評価制度による競争の激化、教員免許の更新制度などの管理強化による教職員の多忙化を促すものであります。厳しい競争にもかかわらず、若年層の雇用が絶望的な状況にあるのを目の当たりにして、生徒たちが学習意欲をそがれている現状を鑑みれば、市場原理を教育に導入した結果「ゆとり」や「個性化」とは逆の「管理」と「内面の支配」が進行した教育現場に、教育基本法の改定が新たな救済を与えるとは考えられません。子どもたちに問題が起こっている原因の根本が、教育の退廃であるよりも、むしろ政治の結果により社会格差が広がり、人々が不安になっていることにあることが見過ごされてはならないと思います。
 教育基本法は、その前文で、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」が日本の教育の課題であるとしています。そして児童・生徒が、一人の主権者として「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献」しうるよう、「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底」することを求めています。そこから「教育の目的」は「人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」にあると第一条で定めます。このように崇高で普遍的な人間観・教育観が、なぜ訂正されるべきだというのでしょうか。現在の混迷する社会状況においてこそ、むしろこの教育基本法の精神を今一度根本的に咀嚼しなおすことが求められているのではないでしょうか。
 また、現行の教育基本法がこの60年間の教育に与えた積極的側面を適正に評価すべきことは言うまでもありません。例えば、平和教育が健全な国際的視野を形成することに貢献してきたこと、個人の尊厳を重視することが同和教育や男女平等教育をはじめとする人権教育を促進し、平等な社会を形成することに貢献してきたこと、生徒の人格を大切にすることが教師と生徒の関係を力学的なものではなく、対話的なものとし、対話を大切にする社会を形成することに貢献してきたこと、競争の原理を学校現場で抑制したことが、社会全体のさまざまな格差を生み出す力を抑えたことなどがあげられます。このような実りを生み出している現行法をより地道に実施することこそ、今求められているのではないでしょうか。

カトリック教会の立場

 教育基本法のこうした教育理念は、わたくしどもカトリック教会の見方と深く符合するものです。カトリック信仰に基づく教育において、児童・生徒の一人ひとりは、知性と自由意志、知恵と良心を与えられ、神にかたどったいのちをいただく人間です。彼らは、自分の持ち物と生活のすべてを愛する者たちと分かち合い、死にいたるまで人々をいつくしんだイエス・キリストの愛の精神にならうように育成されます。キリスト教の教育は、イエス・キリストに現された神のいつくしみにおいて、同胞であるすべての人間、とりわけ貧困や飢餓、財と資源の不公平な配分に苦しむ者たち、社会的・人種的・政治的な差別をこうむる者たちなど、最も立場の弱い者の権利と尊厳を尊重し、外国人や立場の異なる他者のあらゆる悲惨に惜しみなく心を開き、さらにすすんで侮辱を赦し、和解によって敵意を乗り越えた共同体の建設を祈り求める生き方を追求します。それは、愛に反するいかなる搾取や暴力とは相容れない生活であるので、この世の支配勢力による抑圧や戦争にはきわめて厳格に反対いたします。
  ところが、今日の世界を見渡せば、地球的な拡がりにおいて経済・社会・政治・文化的に力をもつ者が、もたざる者たちを抑圧しています。人々は、そうした流れの中で生き残るために、金銭・快楽・栄誉・権力などの偶像を礼拝する誘惑に絶えずさらされています。諸国民と国際共同体の間に、またわたしたちの身近なところで分裂と暴力が生じている原因は、つきつめれば、真の神秘性を畏れ敬う感覚を忘れてしまった結果による、人間の利己主義と自己の利得追求への欲望にあるのでしょう。それに対して、次世代の国際社会にはばたく子どもたちの教育には、力による圧政と支配ではなく、いつくしみの神の前に立つ人格として、愛と正義の要求への回心と和解、物や文化の分かち合いを通して互いに交わりながら、愛と正義と平和の共同体を建設する人間になるという視点がなにより大切です。こうした意味で、わたくしどもは、現行教育基本法が謳う「人格の完成」の教育に賛同しているのです。

根本的な懸念事項

 以上のキリスト教的視点から考慮するならば、政府改定案には、懸念される点が多々見受けられます。

1.「人格の完成」をめざす教育から「国策に従う人間」をつくる教育への逆戻り

 まずなによりも重大な問題は、政府改定案が、子どもたち一人ひとりの「人格の完成」をめざす教育から「国策に従う人間」をつくる教育へと、教育の目的についての価値体系を百八十度逆転させていることです。教育とは、本来、人間の内面的価値にかかわる普遍的・文化的な営みですから、一時の政治的な立場や利害に従属するものであってはならないものです。わたくしども日本のカトリック教会は、明治憲法の下で、1932年の「上智大学生靖国神社参拝拒否事件」を契機として、国家による教育への不当な介入に苦慮した経験をもちますので、この点については大きな関心を持っております。
  現行教育基本法は、そもそも戦争の悲惨な体験への痛切な反省から生まれたものです。戦前・戦中の教育は、国家権力の強い統制下におかれ、「教育勅語」に基づく画一的な教育を児童・生徒に押しつけるものでしたが、それはやがて軍国主義一色に染め上げられ、結果として青少年が無謀極まる戦争に巻き込まれました。
  敗戦の後、灰燼から立ち上がり、明るい国家を再建するという国民の希望を託して制定された日本国憲法の精神を実現するために、憲法13条及び26条を受けて、教育の基本理念を定めたのが教育基本法です。それは、教育が、祖国を破滅の淵にまで追い込んだ国家目的の手段となり、子どもたちがそのための道具・材料とされたことへの反省から、なにより教育が一人ひとりの人間のためにあり(前文および第1条)、そのため教員は、国家ではなく国民全体への奉仕者であることを明記し(第6条)、国家による教育への不当な介入と支配を防ぐために制定されたのです(第10条)。それゆえこの法律は、憲法の附属法として、憲法と同様に国家に対して制約を課すのみならず、その普遍的な性格に応じて、「児童の権利に関する条約」などの国際条約との間の整合性をも確保することが求められる法律です。
  ところが政府改定案は、憲法改定への布石としての意味合いが込められているのでしょうが、教育基本法を憲法の精神から引き離すことをはかり、現行法の原則を根底から覆そうとしています。すなわち、現行法第10条1項「国民全体に対し直接に責任を負って」を削除し、これを「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」(政府案第16条1項)に置き換え、また、第6条の「全体の奉仕者」を削除して、主権者である国民ではなく、国家や地方行政、教育委員会などが主体となって教育を統制するという戦前教育への逆行が意図されています。それはさらに、政府法案の第2条が「教育の目標」を達成するための五つの「徳目」を挙げて教育内容にも介入すること、第17条が「教育振興基本計画」により教育内容と共に学校と教員の関係、教員の研修や評価などを詳細に決定、実施、それに応じて予算配分することから、教育が国や地方公共団体の命じるとおりに実施されることが目指されていることにもあてはまります。
  教育は「人格の完成」という個人の内心の自主性にかかわる営みですから、その目標を法律によって義務づけて強制したり、さらにそれを評価しうるものでは決してありません。この点で、特にいわゆる愛国主義的な徳目である「公共の精神を尊び」(第2条3項)、「伝統文化を尊重し」、「国と郷土を愛する」(同5項)など、本来個人の内心の自由に属する事柄を評価の対象ともなりうる教育目標とすることは、憲法19条が保障した思想・良心・内心の自由を踏みにじることにもなりかねません。こうした条項が盛り込まれることにより、すでに東京都教育委員会による「君が代」歌唱をめぐる教員の大量処分において現実となっているような、思想・良心・信条に対する暴挙がさらに頻発することが危惧されます。
 なお、愛国心の問題と関連して、政府改定案が日本に在住して教育を受けている外国籍の児童・生徒および保護者をどれほど配慮しているのかについても懸念されます。わたくしども日本のカトリック教会や他のキリスト教会の構成員には、多くの外国籍の人々がおります。今後ますます国際化していく日本社会の教育を考えるにあたっては、こうした異文化を背景とする人々の存在をも考慮せねばならないと思います。

2.格差の再生産・社会の差別的な構造・社会階層の固定化の助長

 もう一つの大きな懸念事項は、政府改定案が、教育の根本を平和と民主主義とそれに基づく平等に見てきたこれまでの原則(現行法第3条)を逆転し、選別と差別、さらにうがって見れば憲法第9条改定を見越して戦争遂行のための国民動員の手段にしようとしているということです。
  政府改定案は、教育を受ける者の「資質」(第1条、第5条)や「能力」(第2条2項、第4条、第5条)を強調しますが、それは「人格の完成」という目標に向けられた主権者としての「個人の尊厳」(現行法前文)および「個人の価値」(同第1条)を高めるための「能力」(同第3条)ではなく、職業と結びついて市場から評価される「能力」でしょう。これは、日本の義務教育が従来もっていた国民の平等を促す機能を弱め、すでに部分的に進行している習熟度別指導・学校選択自由化・小中高の一貫校導入などによる教育の序列化や、教員や学校に対する外部評価など、教育における能力主義・競争主義をさらにあおることになります。わたくしどもが危惧するのは、その結果として、国民の間に階層差による分断や差別が生じるということです。
 こうした方向性は、日本社会に進行するいわゆる「新自由主義改革」と連動したものでしょう。1990年代以後、財界主導による日本の労働力政策の転換により、長期の正規雇用はすでに著しく制限され、不安定な雇用に甘んじる人々が激増しており、最近では、懸命に労働しながらも報われない「ワーキング・プアー」や、こうした社会構造になじめない「ニート」と呼ばれる若者たちの問題が注目されています。しかしながら、政府改定案は、少数の「国家にとって有用な人材」と多数の下層労働力をつくりだすシステムの進行に加担し、これをますます加速させるものです。このような教育が行われ続けるならば、富裕な階層の子どもは恵まれた教育環境を利して、親たちが得ていた社会の支配権を再び受け継ぎ、貧しい階層出身の子どもはあいかわらず低い地位に落としめられたまま、というサイクルがますます根深く固定していくことでしょう。
  政府改定案の背景にあるこうした市場競争原理の教育への導入は、結局のところ、教育現場と社会全体に深刻な分裂と不安定をもたらすものです。政府はこうした事態を上からの統制によって束ねるためのイデオロギーとして、「愛国心」や「公共の精神」を強調しますが、そうした内心への強制は、個人の尊厳に基づく自由とは全く反対の奴隷的服従を強いることによって、「何も考えず、何も問わない」人間をつくることであり、わたくしどもがとらえている教育の本質を破壊します。

 以上のように、教育基本法改定の動きの中に透けて見える愛と正義に反する圧力、すなわち競争の強制による分断と差別が人々の間の人間らしい協力や連帯を断ち切っていく働きに対して、わたしたちは同調することができません。安倍総理大臣、伊吹文部科学大臣におかれましては、教育基本法の改定にこだわるのではなく、むしろ真の教育再生に向けて国民全体にいきわたった議論を喚起し、日本の将来を担う大切な子どもたちの一人ひとりを見つめて、彼らの健やかな成長を暖かく見守り支援する、愛と正義に即した教育改革が実行されるよう、ご尽力をお願いいたします。

以上

日本カトリック司教協議会 社会司教委員会
委員長  髙見三明(長崎教区大司教)
委 員  谷 大二(さいたま教区司教)
松浦悟郎(大阪教区補佐司教)
宮原良治( 大分教区司教)
菊地 功( 新潟教区司教)

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