
2025年9月20日(土)正午(日本時間同日午後7時)からサンピエトロ広場で行われた聖年の正義の祝祭参加者への講話(原文は、最初のスペイン語と英語による挨拶のほかは、イタリア語)。 ――― おはようございます。よう […]
2025年9月20日(土)正午(日本時間同日午後7時)からサンピエトロ広場で行われた聖年の正義の祝祭参加者への講話(原文は、最初のスペイン語と英語による挨拶のほかは、イタリア語)。
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おはようございます。ようこそおいでくださいました。(以上スペイン語と英語。以下イタリア語。)
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
司法という広大な分野でさまざまな立場で活動する人々にささげられた聖年の祝祭にあたり、皆様をお迎えできてうれしく思います。さまざまな裁判所を代表して、多くの国から来られた関係者の皆様と、個人、共同体、国家間の秩序ある関係に必要な奉仕に日々従事しておられるかたがたにご挨拶申し上げます。この祝祭に参加された他の巡礼者の皆様にもご挨拶申し上げます。聖年は、わたしたち皆を巡礼者とします。この巡礼者は、決して欺くことのない希望のしるしを再発見しながら、「教会と社会とに、人間どうしのかかわりに、国際関係に、すべての人の尊厳の促進に、被造界の保護に、なくてはならない信頼を取り戻せるように」(教皇フランシスコ『2025年の通常聖年公布の大勅書(2024年5月9日)』25)望みます。
正義とその役割について詳しく考察するために、これ以上によい機会はありません。ご承知のとおり、正義は、社会の秩序ある発展のために不可欠であり、すべての人の良心を鼓舞し、方向づける枢要徳です。実際、正義は、人間の共存のために高次の役割を果たすよう招かれています。この役割は、たんなる法の適用や、裁判官の仕事に還元されることも、手続き的な側面に限定されることもありません。
「あなたは義を愛し、悪を憎む」(詩45・8〔聖書協会共同訳〕)という聖書の表現は、善を行い、悪を避けることをわたしたちに思い起こさせ、促します。「各人に各人のものを与えよ」という格言は、なんと深い知恵を含んでいることでしょうか。しかし、このすべてをもってしても、わたしたち一人一人のうちにある正義への深い望み、すなわち、すべての人間社会において共通善を築くための中心的な手段である正義への渇望をいい尽くすことはできません。実際、正義は、人間の尊厳、人間の他者との関係と、共生と組織と共通の規則から成る共同体の次元を結びつけます。それは、すべての人の価値を中心に据える社会関係の循環です。このすべての人の価値は、個人の行動から生じうるさまざまな紛争の形態に対して、あるいは、制度や組織にも影響を及ぼしうる共通の感覚の喪失から、正義によって守られなければなりません。
伝統はわたしたちに、正義が何よりもまず徳であること、すなわち、理性と信仰に基づいてわたしたちの行為を秩序づける、堅固で安定した態度であることを教えます(1)。とくに正義という徳は「神と隣人とに帰すべきものを帰すという一貫した堅固な意志」(2)によって成り立ちます。このような観点から、信者にとって正義は、「各自の権利を尊重させ、人間関係の中で個人と共同善とに関する公平を促進する調和を定めさせます」(3)。正義の目的は、弱者、すなわち、抑圧、排除あるいは無視の犠牲となっているために正義を求める人々を保護する秩序を保証することです。
福音書には、人間の行為が、横暴な悪に打ち勝つことのできる正義によって評価される、多くのたとえ話があります。たとえば、裁判官に正義感を取り戻させた、粘り強いやもめの訴えを思い起こすことができます(ルカ18・1-18参照)。しかし、最後の一時間働いた労働者に、一日中働いた労働者と同じ賃金を支払う、より高次の正義も存在します(マタ20・1-16参照)。あるいは、憐れみを人間関係を解釈する鍵とし、失っていたのに再び見つかった息子を迎え入れてゆるさせる、正義も存在します(ルカ15・11-32参照)。あるいは、七回ではなく、七の七十倍ゆるす正義も存在します(マタ18・21-35参照)。こうして、愛の戒めの本質であるゆるしの力こそが、超自然的なものと人間的なものを結びつけることができる正義を成り立たせる要素として浮かび上がります。
それゆえ、福音的な正義は、人間的な正義を取り去るのではなく、それに問いかけ、それを造り変えます。そして、さらに先に進むように駆り立てます。なぜなら、福音的な正義は人間的な正義を和解の探求へと導くからです。実際、悪は、罰せられるだけでなく、償われなければなりません。そのために、個人の善と共通善への深いまなざしが必要です。これは困難な課題ですが、他者よりも難しい奉仕を行っていることを自覚し、とがめられることのない人生を送るように努力する人々にとって不可能なことではありません。
ご存じのとおり、正義は、それが他者にまで及び、各人に正当なものが与えられ、人間間の尊厳と機会の平等が達成するときに、具体的なものとなります。しかし、わたしたちは、真の平等が法律上の形式的な平等と同じでないことを知っています。形式的な平等は、正義の正しい行使にとって不可欠な条件であるとはいえ、それは、差別の増大をなくすものではありません。差別の第一の結果は、司法へのアクセスの欠如です。これに対して、真の平等とは、すべての人に、自らの願いを実現し、自らの尊厳に備わる権利を享受する可能性を与えることです。この尊厳は、諸制度の機能の基盤となる、規範および法を鼓舞することができる、共通かつ共有の価値に基づくシステムによって保証されます。
今日、正義の働き手に求められているのは、わたしたちの共生の中で忘れられたもろもろの価値を探求ないし再発見し、守り、尊重することです。これは有益で必要なプロセスです。なぜなら、人間のいのちをその最初の現れからないがしろにし、個人の存在のための基本的権利を否定し、自由の源泉である良心を尊重しない、行動や策略が出現しているからです。社会生活の基盤をなすもろもろの価値を通してこそ、正義は、個人と人間社会の共生のために中心的な役割を果たします。聖アウグスティヌスが次のように述べるとおりです。「知恵と剛毅と節制を同時に伴わなければ、正義は正義となりえない」(4)。そのためには、つねに真理と知恵の光の下で考え、純粋に形式的な次元を超えた深みにおいて法律を解釈し、わたしたちが奉仕する真理の深い意味を把握する力が必要です。それゆえ、正義を追求するには、絶えざる注意と、徹底的な無私の精神と、熱心な識別を結びつけることによってのみ到達可能な現実として、正義を愛することが必要です。実際、正義を行使するとき、わたしたちは、完全かつ絶えざる献身をもって、個人と国民と国家に奉仕します。正義の偉大さは、小さなことがらにおいてそれが行使されるときも、小さくなることはありません。むしろ、世界のどこにいようとも、法への忠実と人格の尊重をもって適用されるとき、正義の偉大さはますます際立つのです(5)。
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」(マタ5・6)。主イエスは、この幸いをもって、わたしたちが心を開かなければならない霊的な緊張を表そうとされました。それは、真の正義を勝ち取るためだけでなく、何よりも、さまざまな歴史的状況の中で正義を実現しなければならない者として正義を追求するためです。「義に飢え渇く」とは、正義が、もっとも可能なかぎり人間的に法律を解釈するための個人の力を要求することを自覚することです。しかし何よりも、個々の状況を超えた、より偉大な正義によってのみ実現されうる「充足」に向けて努力することが必要です。
親愛なる友人の皆様。聖年は、しばしば見過ごされがちな正義の一側面も考察するように招きます。すなわち、その生活条件が受け入れられないほどにあまりにも不平等かつ非人道的なために、「義に飢え渇く」、多くの国また国民の現実です。それゆえ、次の永遠に有効なことばを現代の国際情勢に適用しなければなりません。「正義がなければ国家を運営することは不可能である。真の正義のない国家に、法もありえない。疑いなく、法に従って行われる行為は正義に従って行われる。正義に反して行われる行為が法に従って行われることはありえない。〔……〕正義のない国家は、国家ではない。実際、正義は、各人のものを各人に配分する徳である。それゆえ、人間自身を真の神から遠ざける正義は、人間の正義ではない」(6)。この聖アウグスティヌスの挑戦的なことばが、神へのまなざしをもって、つねに人々への奉仕のために正義を行使し、こうして、正義と法と人間の尊厳を完全に尊重するように、わたしたち一人一人を促してくれますように。
このような願いをこめて、皆様に感謝するとともに、皆様お一人お一人と、皆様のご家族と、皆様のお仕事を心から祝福します。
