教皇レオ十四世、2025年9月27日、聖年の講話 5.希望するとは、直観することである――ミラノのアンブロシウス(ルカ10・21-22)

2025年9月27日(土)午前10時(日本時間同日午後5時)からサンピエトロ広場で行われた聖年の謁見での講話(原文イタリア語)。 講話の後に行われた挨拶の中で、教皇は次の呼びかけをイタリア語で行った。  今日、ビルキ(ウ […]

2025年9月27日(土)午前10時(日本時間同日午後5時)からサンピエトロ広場で行われた聖年の謁見での講話(原文イタリア語)。

講話の後に行われた挨拶の中で、教皇は次の呼びかけをイタリア語で行った。

 今日、ビルキ(ウクライナ)で、1953年に信仰への憎悪のゆえに殺害された、ムカチェヴォ司教区の司祭ペトロ・パヴロ・オロス(1917-53年)が列福されました。ギリシア典礼カトリック教会が非合法化されたときも、彼はペトロの後継者に忠実にとどまり、危険を覚悟のうえで、非合法下で勇敢に奉仕職を果たしました。愛するウクライナの民が、戦争の悲劇にもかかわらず、信仰と希望のうちに勇気をもって耐え忍ぶことができるように、この新しい福者の執り成しを祈り求めようではありませんか。


講話5.希望するとは、直観することである――ミラノのアンブロシウス

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。

 聖年はわたしたちを希望の巡礼者にします。なぜなら、わたしたちは、わたしたちと地球全体に関わる大きな刷新の必要性を直観するからです。

 たった今「直観する」(intuiamo)と申し上げました。この「直観する」(intuire)という動詞は、イエスが、もっとも小さい者、すなわちへりくだった心をもつ人々のうちにとくに見いだした、霊魂の動き、心の知解を表します。実際、学識のある人はあまり直観できないことがしばしばあります。なぜなら、彼らは自分が何かを認識していると思い込んでいるからです。これに対して、神がご自身を現すことができる余地が精神と心の中にあるのは、すばらしいことです。神の民の中に新たな直観が生まれるのは、なんと大きな希望でしょうか。

 イエスはこのことに関して歓喜し、喜びにあふれます。なぜなら、イエスは、小さな者たちが直観することを知っておられるからです。小さな者たちは「信仰の感覚」(sensus fidei)をもっています。それは、神に関する事柄に対する単純な人々の「第六感」です。神は単純なかたなので、単純な人々にご自身を現します。だから、神の民は信仰において誤ることがありません。教皇の不可謬性はこのことの表現であり、それに仕えます(第二バチカン公会議『教会憲章』12[Lumen gentium]、教皇庁国際神学委員会『教会生活における信仰の感覚(2014年)』30-40[Sensus fidei in the Life of the Church]参照)。

 希望が民の直観力から生まれることを示す、教会史の瞬間を思い起こしてみたいと思います。4世紀のミラノでは、教会は大きな紛争によって分裂し、新しい司教の選出が真の意味での騒動に変わっていました。行政当局者である総督アンブロシウスがこれに介入しました。アンブロシウスはその優れた傾聴と調停の力によって事態を鎮静化したのです。物語が語るところによれば、そのとき、一人の子どもが大声で叫びました。「アンブロシウスを司教に」。すると、民全体も願いました。「アンブロシウスを司教に」。

 アンブロシウスは洗礼を受けておらず、洗礼の準備を行っていた、洗礼志願者にすぎませんでした。しかし、民はこの人について何か深い意味を直観して、彼を選んだのです。こうして教会は、もっとも偉大な司教、また、教会博士をもつことになりました。

 初め、アンブロシウスは司教になることを望まず、ついには逃げ出しました。やがて彼はこれが神の召命であることを悟り、洗礼を受け、司教に叙階されました。彼は司教になることによってキリスト者となったのです。小さな者がどれほどのたまものを教会に与えるかをご覧ください。今日においても、わたしたちが求めるべき恵みはこれです。すなわち、与えられた召命を生きながら、キリスト者となることです。あなたは母親でしょうか。父親でしょうか。母親、また、父親として、キリスト者になってください。あなたは実業家ですか。労働者ですか。教師ですか。司祭ですか。修道女ですか。あなたの道を歩みながらキリスト者になってください。人々はこの「嗅覚」をもっています。人々は、わたしたちがキリスト者となっているかどうかが分かります。こうして彼らは、わたしたちを矯正し、イエスへの方向性をわたしたちに示すことができるのです。

 聖アンブロシウスは、その後、長年にわたって自らの民に多くのものを与えました。たとえば、彼は詩編と賛歌の歌唱、祭儀、説教の新しい方法を造り出しました。アンブロシウス自身も直観することができ、こうして希望は増し加わりました。アウグスティヌスはアンブロシウスの説教によって回心し、彼から洗礼を受けました。直観することは希望の道です。このことを忘れてはなりません。

 神はこのようなしかたによってもご自身の教会を前に進ませ、新しい道を示してくださいます。直観は、来るべきみ国に対する小さな者の嗅覚です。聖年が、わたしたちが福音に従って小さな者となり、直観し、神の夢に奉仕することができるように、助けてくださいますように。

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