
2025年11月1日(土)諸聖人の祭日の午前10時30分(日本時間同日午後6時30分)からサンピエトロ大聖堂で行った、教育界の祝祭ミサ説教(原文イタリア語)。このミサの中で聖ジョン・ヘンリー・ニューマン(1801-90年 […]
2025年11月1日(土)諸聖人の祭日の午前10時30分(日本時間同日午後6時30分)からサンピエトロ大聖堂で行った、教育界の祝祭ミサ説教(原文イタリア語)。このミサの中で聖ジョン・ヘンリー・ニューマン(1801-90年)を教会博士とすることを正式に宣言した。
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今日の諸聖人の祭日に、聖ジョン・ヘンリー・ニューマンを教会博士とし、同時に、教育界の祝祭の機会に、聖ニューマンを聖トマス・アクィナスとともに教育事業にかかわるすべての人の共同守護聖人とできるのは大きな喜びです。ニューマンの文化的・霊的に偉大な姿は、心から無限なものにあこがれる新しい世代にとっての霊感として役立つことでしょう。この新しい世代は、研究と認識を通して、古代の人々が述べたとおり、「苦難を乗り越えて星々へ」(per aspera ad astra)わたしたちを導く旅を行う用意ができています。
実際、聖人たちの生涯は、現在の複雑な状況のただ中で、「世にあって星のように輝き」(フィリ2・15)なさいという使徒の命令を無視することなく、情熱的に生きるのは可能であることをあかしします。この荘厳な機会に、教育者と教育機関の皆様に改めて申し上げたいと思います。「世にあって星のように輝きなさい」。真理の共同の探求、若者たち、とくに貧しい人々への奉仕を通じて行われる、首尾一貫した惜しみない分かち合い、「キリスト者の愛は、本性的に預言的であり、奇跡を起こす」(教皇レオ十四世使徒的勧告『わたしはあなたを愛している――貧しい人々への愛について』120[Dilexi te]参照)ことを日々体験することにおける、皆様の真摯な取り組みによって。
聖年は希望の巡礼です。そして教育という偉大な分野に携わる皆様は、希望が欠くことのできない種子であることをよく知っておられます。学校と大学について思うとき、わたしは、それが、希望が体験され、たえず語られ、改めて提示される預言的な実験場だと考えます。
このことは、今日朗読された真福八端の福音の意味でもあります(マタ5・1-12a参照)。真福八端はそれ自体として現実の新しい解釈です。それは教育者であるイエスの歩む道であり、メッセージです。一見すると、貧しい人々、義に飢え渇く人々、迫害される人々、平和を実現する人々を幸いであると宣言するのは不可能であるかのように思われます。しかし、世の文法では考えられないように思われることが、神の国が近づくとき、意味と光に満たされます。聖マタイは、正当にも、物事の新たな見方を伝え、その見方がご自分の歩みと一致した師としてイエスを提示することによって、真福八端を教えとして示します。しかし、真福八端はたんなる教えではありません。それは優れた意味での教えです。同じように、主イエスは多くの教師の一人にすぎないかたではなく、優れた意味での師であるかたそのものです。そればかりか、イエスは優れた意味での教育者です。わたしたちイエスの弟子は、イエスの学びやに入り、イエスの生涯のうちに、すなわちイエスが歩まれた道のうちに、あらゆる形の認識を照らすことのできる意味の地平を発見することを学びます。わたしたちの学校と大学が、つねに福音に耳を傾け、福音を実践する場となることができますように。
現在のさまざまな課題は、時としてわたしたちの能力を超えているように思われるかもしれません。しかし、そうではありません。悲観主義に打ち負かされてはなりません。わたしは、愛する前任者が教皇庁文化教育省第一回総会への演説の中で強調したことを思い起こします。すなわち、わたしたちは自分たちを取り囲むニヒリズムの暗闇から人類を解放するためにともに働かなければなりません。ニヒリズムは現代文化にとってもっとも危険な病かもしれません。なぜならそれは希望を「打ち消す」脅威となるからです(1)。わたしたちを取り囲む暗闇ということばは、聖ジョン・ヘンリー・ニューマンのもっとも有名なテキストの一つである、賛美歌「やさしき道しるべの」(Lead, kindly light)を思い起こさせます。この美しい祈りによって、わたしたちは、自分たちが家から遠く離れ、足元がふらつき、行く手をはっきりと見通せないことに気づきます。しかし、これらすべてのこともわたしたちを阻むことはありません。なぜなら、わたしたちは導き手であるかたを見いだしたからです。「やさしき道しるべの光よ、家路はなおも遠く、日は暮れ、さびしくさすらう身の行くてを照らしたまえ」(Lead, kindly Light. The night is dark and I am far from home. Lead Thou me on!〔『讃美歌21』460、日本基督教団出版局、1997年、762-763頁[日本基督教団讃美歌委員会著作物使用許諾第6027号]〕)。
教育の使命は、とくに、悲観主義と恐怖の危険な暗闇に捕らわれたままとなるかもしれない人々にこの「やさしき道しるべの光」を示すことです。そのため、わたしは皆様に申し上げたいと思います。あきらめと無力感の誤った理由の武装を解除し、現代世界に偉大な希望の理由を広めてください。多くの不正と不確実性によってあいまいにされた現代にあって、光と方向性を示す星座を見つめ、指し示してください。それゆえ、わたしは皆様を励まします。学校、大学、非正規のものや路上で行われるものも含めたあらゆる種類の教育活動を、対話と平和の文明の入り口としてください。皆様の生活を通して、今日の典礼の黙示録の中で朗読されたとおり、「小羊の前に立っ」た、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」(黙7・9)を輝かせてください。
聖書の箇所の中で、長老の一人が、この群衆を見て、問いかけます。「この〔……〕者たちは、だれか。また、どこから来たのか」(黙7・13)。この点において、教育分野においても、キリスト者の視線は「大きな苦難を通って来た者」(14節)の上に注がれます。そして、この人々のうちに、イエスの狭い門を通って完全ないのちへと歩み入った、あらゆる言語と文化の多くの兄弟姉妹の顔を見いだします。そこでわたしたちは改めて自問しなければなりません。「才能のない人間は、人間ではないのか。弱者はわたしたちと同じ尊厳をもたないのか。可能性なしに生まれた人は、人間として価値がなく、生存を許されるにすぎないのか。わたしたちの社会の価値も、わたしたちの未来も、この問いにどう答えるかにかかっています」(教皇レオ十四世使徒的勧告『わたしはあなたを愛している――貧しい人々への愛について』95[Dilexi te])。わたしたちは付け加えていいます。わたしたちの教育の福音的な質も、この問いにどう答えるかにかかっています。
その意味で、聖ジョン・ヘンリー・ニューマンの永遠の遺産には、教育の理論と実践へのいくつかのきわめて重要な貢献が含まれています。ニューマンはこう述べています。「神さまは、ご自分に対してある特定の奉仕をするようにわたしを創られました。ほかの人にではなく、神さまがわたしに託された仕事があります。わたしにはわたしの使命があります。この世にいる間にそれを知ることはできないかもしれませんが、後の世でそれを知らされるでしょう」(『黙想と祈り』[Meditations and Devotions, III, I, 2〔長倉禮子訳、『ニューマン枢機卿の黙想と祈り』知泉書館、2013年、8頁〕])。このことばのうちに、すべての人間の尊厳と、神が与えたさまざまなたまものの神秘が輝かしいしかたで示されているのをわたしたちは見いだします。
人生が輝くのは、わたしたちが裕福だからでも、美しいからでも、権力があるからでもありません。人生が輝くのは、人が自分自身のうちに次の真理を見いだすときです。わたしは神に招かれている。わたしには召命がある。わたしには使命がある。わたしの人生は自分よりも偉大な何かのためにあるのだと。すべての被造物には果たすべき役割があります。一人ひとりが示すことができる貢献には、独自の価値があります。そして、教育的共同体の務めは、この貢献を励まし、高めることです。わたしたちが忘れてはならないことはこれです。教育活動の中心になければならないのは、抽象的な個人ではなく、肉と骨をもった人格、とくに、人を排除し、いのちを奪う経済制度のパラメーターに従った成果を上げていないように思われる人々です。わたしたちは、人格を教育するように招かれています。それは、人間が完全な尊厳のうちに星のように輝くことができるようになるためです。
それゆえ、わたしたちはこういうことができます。キリスト教的な観点から見るならば、教育はすべての人が聖人になる手助けをします。そして、それ以下のものではありません。教皇ベネディクト十六世は2010年9月のグレートブリテンへの使徒的訪問でジョン・ヘンリー・ニューマンを列福した際に、次のことばをもって、若者たちに聖人になるように呼びかけました。「神が皆様一人ひとりに何よりも望んでおられるのは、皆様が聖人になることです。神は、皆様が想像しうる以上に皆様を愛しています。そして、皆様のためにより善いことを望んでいます」(2)。これが、第二バチカン公会議がそのメッセージの本質的な部分とした、聖性への普遍的召命です(『教会憲章』第五章[Lumen gentium]参照)。そして、聖性は、真福八端によって特徴づけられる個人と共同体の歩む道として、例外なしに、すべての人に提示されます。
カトリック教育が、すべての人が自分が聖性へと招かれていることを見いだすための助けとなることを祈ります。聖ジョン・ヘンリー・ニューマンが深く尊敬していた聖アウグスティヌスは、あるとき次のように述べました。わたしたちは唯一の師であるかたをもつ、ともに学ぶ者である。このかたの学びやは地上にあり、その座は天にある(『説教』[Sermo 292, 1])。
