教皇フランシスコ、2025年1月8日、一般謁見演説 父からもっとも愛された者1.――降誕節における子どもについての黙想(ルカ18・15-17)

 

教皇フランシスコ、2025年1月8日、一般謁見演説

父からもっとも愛された者1.――降誕節における子どもについての黙想(ルカ18・15-17)

2025年1月8日(水)午前9時(日本時間同日午後4時)からパウロ六世ホールで行った一般謁見演説。教皇庁から発表されたテキストは、謁見で読み上げられなかった部分を含む。


 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。おはようございます。

 わたしは今回と次回のカテケージスを〈子ども〉にささげ、悲惨な〈児童労働〉について考察します。

 今日、わたしたちは火星や仮想世界に目を向けることはできますが、周縁に放置され、搾取され、虐待されている子どもたちに目を向けるのは困難です。人工知能(AI)を生み出し、他の惑星に住むことを計画するこの時代は、おとしめられ、虐待され、致命的な傷を受けた悲惨な幼年時代を今なお考慮することがありません。わたしたちはこのことについて考えてみたいと思います。

 まず最初に、自らに問いたいと思います。聖書は子どもたちについてどのようなメッセージを与えてくれるでしょうか。旧約聖書の中で、〈ヤハウェ〉という神名に次いでもっとも頻繁に現れることばが〈ベン〉すなわち「子」という語であるのは興味深いことです。その回数は約5000回です。「見よ、子ら(ベン)は主からいただく嗣業。胎の実りは報い」(詩127・3)。子らは神のたまものです。残念ながら、このたまものはつねに敬意をもって扱われるわけではありません。聖書自体、喜びの歌が響き渡る歴史の道へとわたしたちを導く一方で、犠牲者の叫び声も上がります。たとえば哀歌にはこう記されています。「乳飲み子の舌は渇いて上顎に付き、幼子はパンを求めるが、分け与える者もいない」(哀4・4)。預言者ナホムは古代都市テーベとニネベで起きたことを思い起こして、こう記します。「乳飲み子すら、すべての街角で投げ捨てられ〔……〕た」(ナホ3・10)。今日、どれだけの数の子どもが飢えと貧困のために死に、爆弾で引き裂かれているか、考えてみてください。

 生まれたばかりのイエスをも、ベツレヘムの幼子を虐殺したヘロデの暴力の猛威が襲いました。これは歴史の中でさまざまな形で繰り返される陰鬱な悲劇です。イエスとその両親にとっても、他国に避難することは悪夢でした。今日、多くの人々、また子どもたちに起きているとおりです(マタ2・13-18参照)。嵐が過ぎ去った後、イエスは旧約の中で一度も言及されていない町ナザレで成長します。イエスは養父ヨセフから大工の技を学びます(マコ6・3、マタ13・55参照)。こうして「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」(ルカ2・40)。

 公生活の中で、イエスは弟子たちとともに村から村へと宣教して回りました。ある日、ある母親たちがイエスに近づいて来て、祝福してもらうために乳飲み子を差し出します。しかし、弟子たちは彼女たちを叱りました。そこでイエスは、子どもを受け身の対象とみなす伝統を破って、弟子たちを呼び寄せていわれます。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」。こうしてイエスは小さな者たちを大人の模範として示します。そして厳粛にこう付け加えていわれます。「はっきりいっておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(ルカ18・16-17)。

 同じような箇所で、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、弟子たちの真ん中に立たせて、こういいます。「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタ18・3)。それから、こう警告します。「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められるほうがましである」(マタ18・6)。

 兄弟姉妹の皆さん。イエス・キリストの弟子であるわたしたちは、子どもたちが無視され、虐待されること、その権利を奪われること、愛されず、守られないことを、決して許してはなりません。キリスト者には、未成年者に対する暴力や虐待を決然と防ぎ、これを断固として非難する責務があります。

 とくに現代においてもなお、多くの子どもが労働を強制されています。しかし、笑うことも夢見ることも知らない子どもは、自分の才能を知ることもそれを伸ばすこともできません。地球上のあらゆるところで、いのちをないがしろにする経済によって子どもたちが搾取されています。こうした経済は、こうしてわたしたちの希望と愛の最大の鉱脈を焼き尽くしています。しかし、子どもたちは神のみ心の中で特別な位置を占めており、子どもたちを傷つける者はだれであれ、神に報告を求められます。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。自らを神の子と認める人々、とくに他の人々に福音のよい知らせをもたらすよう招かれている人々は、無関心なままでいてはなりません。小さな姉妹兄弟が愛され、守られるのではなく、その幼年期と夢を奪われ、虐待と疎外の犠牲となることを受け入れてはなりません。

 主が、わたしたちの思いと心を気遣いと優しさへと開き、すべての子どもが、愛を与えられ、また愛を与えながら、年齢に応じて、知恵と恵みのうちに成長することができることを願います(ルカ2・52参照)。ありがとう。

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