
2026年2月2日(月)午後5時(日本時間3日午前1時)からサンピエトロ大聖堂でささげた主の奉献の祝日・第30回世界奉献生活の日のミサ説教(原文イタリア語)。バチカンでは主の奉献の祝日が2月2日(月)に祝われた。 ――― […]
2026年2月2日(月)午後5時(日本時間3日午前1時)からサンピエトロ大聖堂でささげた主の奉献の祝日・第30回世界奉献生活の日のミサ説教(原文イタリア語)。バチカンでは主の奉献の祝日が2月2日(月)に祝われた。
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親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日の主の奉献の祝日に、福音は、イエスが神殿でシメオンとアンナによってメシアとして認められ、告げ知らされたことを語ります(ルカ2・22-40参照)。福音は愛の二つの動きの出会いをわたしたちに示します。すなわち、人間を救うために来られる神の愛と、神の到来を注意深い信仰をもって待ち望む人間の愛の出会いです。
神の側からは、イエスがエルサレムの壮大な情景の中で貧しい家庭の子として示されたことは、イエスが、わたしたちの自由を完全に尊重しながら、また、わたしたちの貧しさを完全に共有しながら、わたしたちにご自身を与えることを示します。実際、イエスの行動の中にはいかなる強制もありません。そこにあるのはむしろ、武器のない無償性による、武器を取り除く力だけです。反対に、人間の側からは、シメオンとアンナという二人の老人のうちに、イスラエルの民の期待の〈頂点〉が示されます。それは、エデンの園から神殿の境内にまで至る長い救いの歴史の頂点です。それは、光と闇、堕落と回復に特徴づけられた歴史です。しかし、この歴史は、被造物と造り主の完全な交わりの再建への望みという、一つの根本的な望みに貫かれています。こうして、「至聖所」にほど近いところで、ほとんどだれも気づかずに通り過ぎるようなつつましいしかたで、光の源であるかたが自らを世に対するともしびとして示します。無限なかたが有限なものに自らを与えます。
わたしたちはこのような情景を背景にしながら「第30回世界奉献生活の日」を祝います。わたしたちはこの情景のうちに教会と世界における男女修道者の使命の象徴を見いだします。教皇フランシスコが次のように勧めたとおりです。「奉献生活を特徴づけるものは預言ですから、わたしは皆さんに『世を目覚めさせる』ことを期待しています」(教皇フランシスコ使徒的書簡『奉献生活の年にあたって――すべての奉献生活者の皆さんへ(2014年11月21日)』Ⅱ・2)。愛する友人の皆様。教会は皆様が預言者となることを求めます。主がともにおられることを告げ、その道を備える使者となることを求めます。第一朗読でわたしたちが聞いたマラキのことばを用いるなら、教会は皆様が、主のために惜しみなく「自分を無にする」ことによって、精錬する者の火のための火鉢、洗う者の灰汁(あく)のための器となるように招きます(マラ3・1-3参照)。それは、今日もわたしたちの間におられる契約の唯一・永遠の使いであるキリストが、ご自身の愛と恵みとあわれみによって心を溶かし、清めることができるようにするためです。皆様は何よりもまず、祈りに根ざし、愛によって進んで自分をささげる生活の犠牲を通してこのことを行うように招かれています(第二バチカン公会議『教会憲章』44[Lumen gentium]参照)。
皆様の会の創立者たちは、聖霊の働きに従順に従いながら、この命令を熱心に果たすためのすばらしい模範を皆様に残しました。彼らは地上と天上の間の絶えざる緊張の中で、信仰と勇気によって導かれました。聖体の食卓から始まり、ある者は隠世修道院の沈黙へ、ある者は使徒職の課題へ、ある者は学校での教育へ、ある者は貧困な街路へ、ある者は宣教の労苦へと。彼らは同じ信仰によって、その都度、謙遜と知恵をもって十字架の下へ、また聖櫃の前へと立ち戻りました。すべてをささげ、自分たちのあらゆる活動の源泉と目的を神のうちに再び見いだすためです。彼らはまた恵みの力によって危険な事業にも身を投じました。敵対的で無関心な環境の中で祈る存在となりました。屈辱と遺棄の状況の中で、寛大な手、愛の肩を差し伸べる者となりました。戦争と憎悪の状況のただ中で、平和と和解の証人となりました。そして進んで時流に逆らって行動する結果を引き受け、時には殉教に至るまでキリストのうちに「反対を受けるしるし」(ルカ2・34)となりました。
教皇ベネディクト十六世はこう述べています。「神のことばを真の意味で生きた人々である、聖人に耳を傾けなければ、聖書解釈は不完全なものとなります」(教皇ベネディクト十六世使徒的勧告『主のことば(2010年9月30日)』48[Verbum Domini])。わたしたちも、「神のことばが預言者の生涯そのものを用いた」「預言者の伝統」(同49)を受け継ぐ者としてわたしたちに先立って歩んだ兄弟姉妹を思い起こしたいと思います。わたしたちはとくに彼らの証言を集めることによってこのことを行います。
実際、今日においても、皆様は、福音的勧告の誓約とさまざまな愛の奉仕により、誤った還元主義的な人格概念の名の下に信仰と生活が互いにますますかけ離れたものとなっているように思われる社会の中で、神が万民の救いとして歴史の中におられることを(ルカ2・30-31参照)あかしするように招かれています。わたしたちは、若者、高齢者、貧しい人、病者、受刑者が、何よりもまず神の祭壇上で、そして神のみ心のうちで、自分たちの聖なる位置を占めることを、そして同時に、彼ら一人ひとりが神の現存の不可侵の聖域であり、神と出会い、神を拝み、神をたたえるために、彼らの前にわたしたちは膝をかがめるのだということをあかししなければならないのです。
そのしるしが、皆様の共同体が紛争のただ中にあってもさまざまな困難な状況の中で維持している「福音の要塞」です。これらの共同体はそれを見捨てることも、そこから逃げることもありません。むしろ彼らは、すべてを剝ぎ取られながらそこにとどまります。ありのままの本質的な状態におけるいのちの不可侵の神聖性を、幾万のことばよりも雄弁に思い起こさせるために。そのために彼らは自らの存在によって――武器の音がとどろき、傲慢と利己心と暴力が優位に立っているように思われるところであっても――イエスのことばを響き渡らせます。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。いっておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父のみ顔を仰いでいるのである」(マタ18・10)。
このことに関連して、老人シメオンの祈りについて考えてみたいと思います。わたしたちは皆、毎日この祈りを唱えます。「主よ、今こそあなたは、おことばどおりこのしもべを安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(ルカ2・29-30)。実際、修道生活は、過ぎ去るすべてのものから離れる静寂によって、地上のものに対するもっとも真実な配慮と、永遠のものへの愛に満ちた希望が切り離しえないことを教えます。永遠のものは、すでに地上において究極的で決定的な目的として選ばれ、他のすべてのものを照らすことができるからです。シメオンはイエスのうちに救いを見いだしました。そのため彼は生と死を前にして自由でした。「正しい人で信仰があつ」(ルカ2・25)いシメオンは、「神殿を離れず」(ルカ2・37)にいたアンナとともに、来るべき世に目を留めていました。
第二バチカン公会議はわたしたちに次のことを思い起こさせます。「教会は〔……〕全世界が、全人類とともに、キリストにおいて完全に建て直されるとき〔……〕、天上の栄光において初めて完成を見る」(第二バチカン公会議『教会憲章』48[Lumen gentium])。この預言は皆様にもゆだねられています。皆様は地上にしっかりと足を置きながら、同時に「たえず永遠の善へと目を向けている」(『ローマ・ミサ典礼書』聖母マリアの被昇天の祭日の集会祈願)からです。キリストが死んで復活したのは、「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(ヘブ2・15)。皆様も、キリストにいっそう近く従おうと努め、「自分を無にしたキリスト」と、霊におけるそのいのちに参与することによって(第二バチカン公会議『修道生活の刷新・適応に関する教令』5[Perfectae caritatis]参照)、人を愛し、際限なくゆるす者の自由のうちに、紛争を乗り越え、兄弟愛の種を蒔くための道を世に示すことができるのです。
親愛なる奉献生活者の皆様。今日、教会は、主と、皆様がおられることに感謝します。そして、摂理であるかたが皆様をどこに派遣しようとも、皆様が平和のパン種と希望のしるしとなることができるように励まします。祭壇上でわたしたちの生活を神への献げ物としてあらためてともにささげるにあたり、皆様の活動を至聖なるマリアと皆様の会のすべての聖なる創立者の執り成しにゆだねます。
