
教皇レオ十四世、2026年4月8日、一般謁見演説
連続講話「第二バチカン公会議の諸文書」
Ⅱ.『教会憲章』(Lumen gentium)
7.教会における聖性と福音的勧告(聖書朗読箇所:一テサ4・1-3)
2026年4月8日(水)午前10時(日本時間同日午後5時)からサンピエトロ広場で行った一般謁見演説(原文イタリア語)。
中東と世界全体にとってのこれまでの大きな緊張の数時間の後、2週間の即時停戦の発表が行われたことを、満足をもって、また深い希望のしるしとして受け止めています。交渉の再開を通じてのみ、戦争の終結はもたらされます。
この微妙な外交努力の期間に、皆様が祈りをもって同伴してくださるようお願いします。そして、対話へと開かれた姿勢が世界における他の紛争状況の解決のための手段となることを願います。
4月11日(土)にこのサンピエトロ大聖堂で行う平和のための夕の祈りに皆様がわたしとともに参加してくださるよう、あらためて招きます。
2月28日にアメリカとイスラエルがイランを攻撃し、イラン最高指導者のセイエド・アリー・ハメネイ師(在任 1989-2026年)を殺害して以来続いていた戦闘に関して、アメリカとイランは日本時間8日朝、2週間にわたる停戦に合意した。これを受けてイランのセイエド・アッバス・アラグチ外相は「2週間、ホルムズ海峡は安全な航行が可能になる」などとする声明文を投稿した。仲介にあたったパキスタンは、戦闘終結に向けたアメリカとイランの協議が10日に首都イスラマバードで行われる予定だと発表した。
教皇庁広報部はこの日、4月11日(土)の平和のための夕の祈りに関して次の発表を行った。
教皇レオ十四世は、本日午前の一般謁見において、2026年4月11日(土)午後6時からサンピエトロ大聖堂で開催される平和のための祈りの集いに自分とともに参加することをすべての信者にあらためて呼びかけました。この夕の祈りは教皇によって司式され、すべての信者が参加することが可能です。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。ようこそおいでくださいました。
第二バチカン公会議『教会憲章』(Lumen gentium)は、第五章の全体をすべての信者の聖性への普遍的召命に当てています。わたしたち一人ひとりは、神の恵みのうちに生き、徳を実践し、キリストに似た者に造り変えられるよう招かれています。公会議の『教会憲章』によれば、聖性は少数の人の特権ではなく、むしろ、洗礼を受けたすべての人に、愛の完成、すなわち神と隣人に対する完全な愛を目指すように求めるたまものです。実際、愛は、すべての信者が招かれている聖性の中心です。御子イエスを通じて御父によって注がれた愛徳は、「聖化のすべての手段を支配し、生かし、目的に導」(『教会憲章』42)きます。教会の初期の時代と同じように、聖性の最高の段階は、「信仰と愛の最高のあかし」(『教会憲章』50)である殉教です。そのため、公会議文書は、すべての信者が血を流してまで進んでキリストを告白しなければならないと教えます(『教会憲章』42参照)。これはこれまでもつねに行われたことであり、今日においても行われています。このように進んであかしを行う態度は、キリスト信者が社会の中で信仰と愛のしるしを残し、正義のために献身するたびごとに実現されます。
すべての秘跡、その中でも優れたしかたで聖体は、聖なる生活を成長させる糧であり、一人ひとりの人を聖性の模範また基準であるキリストに似た者とします。キリストは、ご自身がその頭であり牧者である、教会を聖化します。このような観点から、聖性はキリストの与えるたまものです。このたまものは、それを喜びをもって受け入れ、献身をもってそれにこたえるたびごとに、わたしたちの日々の生活の中で示されます。このことに関して教皇聖パウロ六世は1965年10月20日の一般謁見の中で次のことを思い起こさせました。教会は、自らが真実なものであるために、洗礼を受けたすべての人が「聖人、すなわち、真の意味でふさわしく、強く、忠実な教会の子と」ならなければならないと望みます。このことは、内的な変容として実現されます。この内的な変容によって、一人ひとりの人の生活は聖霊の力によってキリストに似せて造り変えられます(ロマ8・29、『教会憲章』40参照)。
『教会憲章』は、カトリック教会の聖性が、その本質的な特徴の一つであると述べます。それは信仰をもって受け入れるべきものです。なぜなら教会に「聖性が欠けることはありえない」(『教会憲章』39)とわたしたちは信じるからです。このことは、教会が十全かつ完全なしかたでそうした状態にあることを意味するのではありません。むしろそれは、「世の迫害と神の慰めとを通って」(聖アウグスティヌス『神の国』[De civitate Dei 51, 2]、『教会憲章』8参照)旅する教会が、永遠の目的地を目指す旅路の中で、この神のたまものを確固としたものとするように招かれていることを意味します。教会における、すなわちわたしたち皆における罪という悲しむべき現実は、一人ひとりの人が主に身をゆだねながら、真剣に生活の転換を行うように招きます。主は愛のうちにわたしたちを新たにしてくださるからです。教会を聖化する、この限りない恵みが、日々実践すべき使命、すなわち回心の使命をわたしたちに与えます。ですから聖性は、倫理的な努力――それがいかに偉大なものであろうとも――に限定されるような、実践的な性格をもつにすぎないものではありません。むしろ聖性は、個人と共同体の両面におけるキリスト教的生活の本質そのものにかかわります。
このような観点から、奉献生活は決定的な役割を果たします。公会議の『教会憲章』はこれについて第六章(43-47参照)で扱います。神の聖なる民の中で、奉献生活は、歴史の今ここで体験される新たな世界の預言的なしるしとなります。実際、教会の神秘の中にすでに存在する神の国のしるしは、奉献生活のすべての経験に形を与える福音的勧告、すなわち、清貧、貞潔、従順です。この三つの徳は、自由を束縛する規定ではなく、むしろ、自由をもたらす聖霊のたまものです。このたまものを通じて、ある人々は自らを完全に神に奉献するからです。清貧は、摂理であるかたへの完全な委託を表し、人を計算と利益から解放します。従順は、キリストが御父に対して行った自己奉献を模範とし、人を疑念と支配から解放します。貞潔は、神と教会に奉仕するために、愛のうちに完全で清い心をささげることです。
このような生活様式に従うことにより、奉献生活者は、徹底的に従う形によって、教会全体の聖性への普遍的召命をあかしします。福音的勧告は、十字架に至るまでキリストの生涯に完全にあずかることを示します。まさに十字架につけられたかたの犠牲によって、わたしたちは皆、あがなわれ、聖化されたのです。わたしたちはこの出来事を観想しながら、神があがなうことがない人間的経験は存在しないことを知ります。主の受難との一致のうちに経験される苦しみさえも、聖性の道となります。こうして、人生を回心させ、変容させる恵みは、あらゆる試練においてわたしたちを力づけ、わたしたちの目的が遠い理想ではなく、神との出会いであることを示します。この神は愛のゆえに人となられたのです。受肉したみことばの至聖なる母であるおとめマリアが、わたしたちの歩みをつねに支え、守ってくださいますように。
