ダウンロード(PDF 1MB) 教皇庁教理省 『カトリック教会の司教への手紙――教会と世界における男女の協力について』 (2004年5月31日) Congregazione per la Dottrina della F […]
教皇庁教理省
『カトリック教会の司教への手紙――教会と世界における男女の協力について』
(2004年5月31日)
Congregazione per la Dottrina della Fede
Lettera ai Vescovi della Chiesa Cattolica
sulla collaborazione dell’uomo e della donna nella Chiesa e nel mondo
(Epistula de mutuis relationibus inter viros et mulieres)
OR 1.08.2004, supplement
序文
1 教会は人類の専門家としてつねに男性と女性に関することがらに関心を寄せてきました。近年、女性の尊厳、市民社会および教会共同体のさまざまな分野における女性の権利と義務に関して多くの考察が行われてきました。とくに教皇ヨハネ・パウロ二世の教え(1)により、この根本的なテーマの深い理解に貢献した教会は、今日、女性の地位向上という真の目的としばしば一致しないいくつかの思潮の問いかけを受けています。
本文書は、現代のいくつかの人間論的概念に関する簡潔な提示と批判的評価を行った後、聖書の人間論の教え――それは人間の人格のあり方を守るために不可欠なものです――から霊感を受けながら、教会と世界における男女の違いの認識に基づいて、男女の積極的な協力を正しく理解するための〈いくつかの前提〉に関する考察を提示することを意図しています。さらにこれらの考察は、教会内部の深い考察のため、また、真理の真摯な探求とますます真正な人間関係をはぐくむという共通の取り組みを行うすべての善意の人々との対話を築くための出発点となることを目指しています。
一 問題
2 近年、女性問題への取り組みにおいて新たな傾向が出現しています。第一の傾向は、抗議行動をあおり立てることを目的として、女性の従属的状態を大きく強調します。女性は、自分らしくあるために、男性と敵対しなければならないとされます。女性は、権力の濫用に対して権力の追求の戦略で対抗しなければならないとされます。このプロセスは男女間の対立関係をもたらします。この対立関係において、一方のアイデンティティと役割は他方のそれを犠牲にして獲得されます。その結果、人間論における有害な混乱が生まれます。この混乱は家族の構造においてもっとも直接的で悪い結果を生じます。
第二の傾向は第一の傾向に従って現れます。いずれかの性の優位を避けるために、両者の差異を消去し、差異が歴史的・文化的な条件づけの単なる結果とみなされがちとなります。このような平均化によって、〈性別〉と呼ばれる身体的な差異は最小化され、〈ジェンダー〉と呼ばれる厳密に文化的な次元が最大限に強調され、主要なものとみなされます。性別の差異ないし二元性をあいまいにすることはさまざまなレベルで大きな帰結を生み出します。女性をあらゆる生物学的決定論から解放することによって女性にとっての平等という展望を推進することを意図するこの人間論は、事実上、一つのイデオロギーを生み出します。このイデオロギーは、たとえば、両親、すなわち父親と母親によって構成される家族の自然本性的な性格を疑問に付し、同性愛と異性愛を同等のものとみなす、多形的な性という新たなモデルを推進します。
3 今述べた傾向の直接の起源は女性問題の文脈に位置づけられますが、そのより根本的な動機は、人間の人格を自らの生物学的条件から解放しようとする試みのうちに求められなければなりません(2)。この人間論的な観点によれば、人間の本性はそれ自体として絶対的なしかたで課せられる性格をもちません。すべての人格は、自らの本質的な構成と関連するあらゆるあらかじめ定められた規定から自由になった瞬間から、自らの好みに従って自分を形づくることが可能であり、また形づくるべきです。
この観点は多くの帰結をもたらします。第一に、女性の解放は聖書の批判をもたらすという思想が強化されます。聖書は本質的な男性優位の文化によってはぐくまれた、父権的な神観を伝えるものだからです。第二に、この傾向は、神の子が男性の形態で人間本性をとったという事実がなんらの重要性も影響力ももたないとみなします。
4 こうした思潮に直面して、イエス・キリストへの信仰に照らされた教会は、反対に、まさに男と女の差異自体を認めることによって、〈積極的な協力〉について語ります。
この応答の根拠と意味と帰結をいっそう深く理解するために、簡潔にではあれ、人間の知恵に富んだ聖書に立ち戻らなければなりません。この応答は、聖書の中で、人類のための神の介入によって徐々に示されたからです(3)。
二 聖書の人間論の基礎的要素
5 検討しなければならない聖書の第一の記事は、創世記の最初の3章です。この箇所はわたしたちを「聖書の『初め』の部分」に位置づけます。「その中で、『神の像と似姿』として造られた人間に関して啓示された真理が、キリスト教的人間論の不動の基礎を築いています」(4)。
第一の記事(創1・1-2・4)では、原初の混沌の中で区別を造り出す神のことばの創造的な力が語られます。光と闇、海と陸、昼と夜、草と木、魚と鳥といったすべてのものが「それぞれに」姿を現します。秩序ある世界は差異から生まれます。そして差異は関係性の約束でもあります。それゆえここに人類の創造が位置づけられる一般的な枠組みが描き出されます。「神はいわれた。『われわれにかたどり、われわれに似せて、人を造ろう。〔……〕』神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創1・26-27)。人類は、その最初の起源から、男と女の関係のうちに明確に表現されます。この性別をもった人類が「神の像」だとはっきりと宣言されるのです。
6 第二の創造の記事(創2・4-25)は、性差の重要性を明確に確認します。神に形づくられ、園に置かれてその管理を任された、まだ一般的な語で「アダム」と呼ばれる人は、動物の存在によっては埋めることのできない孤独を味わいました。アダムは自分に合った「助ける者」を必要とします。この「助ける者」という語は、従属的な役割ではなく、重要な助け手を表します(5)。実際、その目的は、アダムの人生を、不毛で、最終的に死をもたらすだけの自分自身との対決に陥らせないようにすることです。アダムは自分と同じレベルの他の存在との関係に入ることを必要とします。同じ「肉」から造られ、同じ神秘に包まれた女だけが、男の人生に未来を与えます。このことは存在論的なレベルで行われます。すなわち、神による女の創造は、人類を関係的な存在として特徴づけるのです。この出会いにおいて、驚きの表現として男の口から次のことばが発せられます。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(創2・23)。
教皇ヨハネ・パウロ二世は創世記のこの箇所についてこう述べます。「女性は共通の人間性をもつもう一人の『わたし』でした。最初から、『二人は結ばれたもの』として現れます。このことは男性が『自分に合う助け手』(創2・20参照)を発見できないという初めの孤独さが征服されたことを表します。ここでいうのは、ただ『地の上のものを支配する』働きのための『助け手』のことでしょうか(創1・28参照)。いや確かに、それは一生涯の伴侶のことです。妻として、夫として、二人は『一体となり』、この理由のために『父母を離れます』(創2・24参照)」(6)。
根本的な差異は交わりへと方向づけられています。そしてそれは、裸であるというテーマによって平和的に体験されます。「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(創2・25)。こうして男性性または女性性のしるしによって特徴づけられた人間の身体は「初めから『配偶者』の属性、すなわち愛を表現する能力を含んでいます。それは、人格としての人間がたまものとなり、そして、このたまものを通して自らが存在し実存することの意味そのものを実現するための愛です」(7)。教皇ヨハネ・パウロ二世は創世記のこの箇所の注解を続けてこう述べます。「この特性によって、身体は精神の表現となり、創造の神秘そのものにおいて人格の交わりのうちに実存するように招かれます」(8)。
同じ夫と妻という観点から、古代の創世記の記事が、女性はそのもっとも深く根源的な存在において「他者のために」(一コリ11・9参照)存在するといおうとしていることが理解できます。この言明は、疎外を呼び起こすものではなく、聖なる三位一体との類似の根本的な側面を表します。三位一体の三つのペルソナは、キリストの到来によって、互いに対する愛の交わりのうちに存在することを現しました。「『二人の一致』ということにおいて、男性と女性はただ『並んだり』『ともにいる』ようにだけ呼ばれているのではなく、初めから『互いのために』存在するように招かれているのです。〔……〕創世記の2章18節から25節のテキストは、結婚がこの招きの第一の、そしてある意味で基礎的なものであることを示しています。しかし、それは唯一のものではありません。人間の歴史のすべては、その中にこの招きの状況を示しています。この歴史の中で、人と人との『交わり』において、他人の『ために』相互に存在するという原則に基づき、『男性的』なものと『女性的』なものの統合が、神のみ旨に従って人間性の中に成長するのです」(9)。
第二の創造の記事の終わりの平和なビジョンの中で、第一の記事の中で最初の人間の夫婦の創造を締めくくった「きわめてよかった」がこだまします。ここに神の原初の計画と、神が望み、創造した男と女に関するもっとも深い真理の核心があります。罪によってどれほど転倒し、覆い隠されても、この造り主の原初的な計画が廃棄されることは決してありません。
7 原罪は、男と女が神のことばと造り主との関係を受け入れ、生きるしかたを変えてしまいます。神は園を与えたすぐ後に、積極的な命令を与え(創2・16参照)、続いてもう一つの消極的な命令を与えます(創2・17参照)。この消極的な命令のうちに、神と人類の間に存在する本質的な差異が暗示的に示されます。男と女は、蛇の誘惑のもとにこの差異に異議を唱えます。その結果、彼らの性的な差異を生きるしかたもねじ曲げられます。こうして創世記の記事はこれら二つの差異の間の因果関係を打ち立てます。人類が神を敵とみなすとき、男と女の関係も転倒します。男と女の関係が損なわれるとき、神のみ顔に近づくことも損なわれる危険にさらされます。
女が罪を犯した後に神が女に語りかけることばのうちに、この後、男と女の間に築かれる関係のあり方が簡潔かつ印象的に示されます。「お前は男を求め、彼はお前を支配する」(創3・16)。それは、愛がしばしば単なる自己の追求と、愛を無視し殺してしまう関係に変質し、愛を片方の性がもう片方の性を支配する軛に置き換えるような関係です。人類の歴史は事実、この状況を繰り返します。この状況の中で、聖ヨハネが述べた三つの欲がはっきりと示されます。聖ヨハネは肉の欲、目の欲、生活のおごりについて語りました(一ヨハ2・16参照)。この悲惨な状況の中で、神の原初の計画に従って男と女の間の関係において求められる平等と尊敬と愛が失われてしまいます。
8 これらの根本的なテキストを振り返ることによって、聖書の人間論のいくつかの重要な要素を再確認することができます。
第一に、人間の人格的な性格を強調しなければなりません。「男性と女性は、いずれもペルソナである神にかたどって造られたのですから平等です」(10)。人格の平等の尊厳は、身体的・心理的・存在論的な相補性として実現され、調和的で関係的な「一体的二元性」(unidualità)を生み出します。罪と文化の中に刻まれた「罪の構造」だけがこの「一体的二元性」を潜在的に対立させます。聖書の人間論は、公的また私的なレベルで性差にかかわる問題には、競争的また報復的な方法によってではなく、関係的なアプローチで取り組むべきであることを示唆します。
さらに、男と女のうちに深く刻み込まれた現実としての性差の重要性と意味を強調しなければなりません。「性は身体の面だけでなく心理的、精神的な面でも男女を特徴づけ、男らしさ、女らしさを表すものです」(11)。それは純粋に重要性をもたない生物学的データに還元されうるものではなく、「人格の基本的構成要素であり、存在、自己表現、他者との意志の疎通、人間の愛の表現、感性、それを生きるという人格のあり方です」(12)。愛である神の映しであり像である、この愛する能力は、身体の配偶者としての性格のうちに表現されます。身体には人格の男性性と女性性が刻まれているからです。
性の人間論的な次元は、性の神学的な次元と切り離せません。霊魂と身体の一致における被造物としての人間は、初めから自己を超えた他者との関係によって特徴づけられます。この関係はつねによいものとして、また同時に変化しうるものとして示されます。それは創造の最初の瞬間から神によって宣言された原初の善性に基づいて、よいものです。しかしそれは、罪によって生じた神と人類の間の不調和によって、変化しうるものでもあります。にもかかわらず、この変化は、男と女についての神の初めの計画とも、男と女自身の関係の真理とも対応するものではありません。それゆえ、このよいものでありながら傷つけられた関係はいやしを必要とします。
このいやしへの道はどのようなものでしょうか。男性と女性の関係に内在する問題を罪によって特徴づけられた状況のみから考察し分析するなら、思考はすでに述べた誤りに逆戻りせざるをえません。
それゆえ、この罪の論理を打ち破り、罪人である人間の心から罪を取り除くことを可能にする出口を捜さなければなりません。この意味での明らかな方向性は、救い主である神の約束によって示されます。この約束には「女」とその「子孫」(創3・15参照)がかかわります。この約束は、実現されるまでに歴史における長い準備を必要とします。
9 悪に対する最初の勝利は、正しい人ノアの物語によって示されます。ノアは神に導かれて、自分の家族やさまざまな種類の動物とともに洪水を逃れました(創6~9章参照)。しかし、救いの希望が確かなものとされるのは、何よりもまずアブラハムとその子孫に対する神の選びにおいてです(創12・1以下参照)。こうして神はご自身のみ顔を現し始めます。それは、人類が選ばれた民を通して、神の似姿の道、すなわち聖性の道と、それゆえ心が造り変えられる道を学ぶためです。神が長く忍耐強い教育によって民にご自身を現すさまざまなしかたの中で(ヘブ1・1参照)、男と女の間の契約というテーマも繰り返し言及されます。創世記に語られたドラマと、預言者の時代におけるその具体的な反復、そしてイスラエルの周辺の宗教における聖なるものと性的なものの混合を考えるなら、このことは逆説的です。にもかかわらず、この象徴は、神がご自身の民を愛する方法を理解するために不可欠だと思われます。神はご自身の花嫁であるイスラエルを愛する花婿としてご自身を見いださせるのです。
こうした関係の中で神が「妬む神」(出20・5、ナホ1・2[聖書協会共同訳]参照)として述べられ、イスラエルが「姦淫」や「淫行」(ホセ2・4-15、エゼ16・15-34[聖書協会共同訳]参照)の花嫁として非難されるのは、預言者のことばによって強められた希望とは新しいエルサレムが完全な花嫁となることだからです。「若者がおとめをめとるようにあなたを再建されるかたがあなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするようにあなたの神はあなたを喜びとされる」(イザ62・5)。「正義と公正、いつくしみとあわれみをもって」(ホセ2・21[聖書協会共同訳])新たに創造された女、偽りの神にいのちと幸福を求めたために遠く離れていた女は、戻って来て、その心に語りかけてくださるかたに「おとめであった日々のように〔……〕答える」(ホセ2・17[聖書協会共同訳])。そして、「あなたの夫はあなたを造られたかた」(イザ54・5[聖書協会共同訳])と宣言されるのを聞くことになります。これは、イザヤ書が、苦難のしもべの男の姿を通して神が実現されたわざの神秘と並行して、イスラエルに与えられるはずの救いのたまものの予型である超越と聖性で飾られたシオンの女の姿を思い起こさせるときに述べられることと本質的に同じです。
雅歌がこのような啓示のしかたを用いることによって特別な時を示していることは間違いありません。肉体の美しさと互いに求め合う幸せを祝う人間的な愛のことばのうちに、ご自身の民に対する神の愛も表されます。それゆえ、教会が、同じ表現を用いて、もっとも人間的なものともっとも神的なものを大胆に結びつけることによって、自らのキリストとの関係の神秘を見いだしたのは、誤りではありません。
旧約全体を通じて、男の参与と女の参与が同時に行われる救いの歴史が述べられます。救いのダイナミズムを特徴づける、花婿と花嫁、あるいは契約ということばは、確かに隠喩的な側面をもっていますが、単なる隠喩以上のものです。この婚姻に関することばは、神がご自分の民と築く関係の性格そのものに触れます。たとえこの関係が人間の婚姻において体験されるものより広いものだとしてもです。同様に、イザヤのような預言が、神が行おうとしている救いのわざの告知ないし先取りに男と女の役割を結びつけるしかたにおいても、あがないの具体的な条件そのものが問題となっています。こうした救いは、読者を、苦難のしもべの男性的な姿と、シオンの娘の女性的な姿の両方へと向かわせます。実際、イザヤの預言は、シオンの娘の姿と神のしもべの姿を交互に示します。預言は、書の終わりの、一日で民を生み出すエルサレムに関する不思議な幻で頂点に達します(イザ66・7-14参照)。それは神が実現しようとしている偉大な新しいことに関する預言です(イザ48・6-8参照)。
10 新約において、こうした予型がすべて実現します。一方で、選ばれたシオンの娘であるマリアは、その女性性において、救いの日を待ち望むイスラエル/花嫁の状態を再統合し、造り変えます。他方で、御子の男性性は、イエスがご自身の人格によって、花嫁に対する花婿の愛として述べられた神のご自身の民に対する愛に旧約の象徴表現が当てはめたすべてのことを体現したことを理解することを可能にします。イエスとその母マリアの姿は、旧約と新約の連続性を保障するだけでなく、それを超越します。なぜなら、聖イレネオが述べるとおり、イエス・キリストによって「すべての新しさ」(13)が現れるからです。
このような側面はとくにヨハネによる福音書において明らかにされます。たとえばカナの婚礼の場面で、イエスは、「女」と呼ばれるご自分の母から、人類との将来の結婚という新しいぶどう酒をしるしとして差し出すように促されます(ヨハ2・1-12[聖書協会共同訳]参照)。このメシア的な結婚は十字架上で実現されます。そこでは再び「女」と呼ばれる母の存在のもとに、十字架につけられた主の開かれた心から新約の血/ぶどう酒が流れ出ます(ヨハ19・25-27、34[聖書協会共同訳]参照)(14)。それゆえ、洗礼者ヨハネが、彼が何者かと問われて、花婿の声を聞いて喜び、花婿が訪れるときに衰えなければならない「花婿の友」として自らを示したのは驚くべきことではありません。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の友は立って耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あのかたは必ず栄え、私は衰える」(ヨハ3・29-30[聖書協会共同訳。「花婿の友」は注の直訳])(15)。
パウロはその使徒的活動の中で、キリスト者の生活を婚姻の神秘として捉えることによって、あがないの婚姻的な意味を発展させます。パウロは自らが設立したコリントの教会に向けてこう書き送ります。「わたしは、神の妬みをもって、あなたがたを妬んでいます。わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストにささげたのです」(二コリ11・2[聖書協会共同訳])。
エフェソの信徒への手紙では、キリストと教会の夫と妻としての関係があらためて取り上げられ、詳しく考察されます。新しい契約において愛された花嫁は教会です。そして教皇ヨハネ・パウロ二世が『家庭への手紙』で述べるとおり、「エフェソの信徒への手紙が語るこの花嫁は、洗礼を受けたすべての者のうちにあって、花婿に自分をささげる者とするのです。花婿は『教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになった〔……〕。それはしみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした』(エフェ5・25、27)」(16)。
それゆえ、世の創造のときに記された男と女の結びつきについて思い巡らしながら(創2・24参照)、使徒はこう叫びます。「この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです」(エフェ5・32)。洗礼のいのちの力の中で生きられる男と女の愛は、今やキリストと教会の愛の秘跡となります。それは、そこから「新しいエバ」が生まれ、彼女が永遠の婚姻の完成を待ち望みながら地上の旅路を歩む、忠実と一致の神秘をあかしします。
11 復活の神秘に結ばれた、キリストと教会の愛の生きたしるしであるキリスト者の夫婦は、心を新たにされ、情欲と(罪による神との断絶が原初の夫婦にもたらした)屈従によって特徴づけられる関係から脱することができるようになります。キリスト者の夫婦にとって、傷つけられた人間の欲望があこがれ続けてきた愛の善は、新たな意味と可能性をもって現れます。この光に照らされて、イエスは、離婚に関する問いに対して(マタ19・3-9参照)、初めに――すなわち、モーセの律法のその後の改訂を正当化した罪が発生する前に――神が望まれた男と女の契約の要求を思い起こすことができるのです。このイエスのことばは、厳しく妥協を許されない命令を押し付けるものではなく、実際には、罪よりも強い忠実に関する「福音」の告知です。復活の力によって、夫婦の弱さや傷や罪に対して忠実が勝利を収めることが可能となります。夫婦の心を新たにするキリストの恵みによって、男と女は罪から解放され、互いに与え合う喜びを知ることができるようになるのです。
12 「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、〔……〕男も女もありません」――聖パウロはガラテヤの信徒に向けてこう書き送ります(ガラ3・27-28)。使徒はここで、別のところで神の計画に属するものだと述べる、男女の区別がなくなることを宣言しているのではありません。パウロがいいたいのはむしろ、キリストにおいて、男女の関係を損なってきた競争関係、敵対関係、暴力が克服され、超越されたということです。この意味で、男女の区別はこれまでに増して再確認されます。この区別は聖書の啓示に終わりまで伴います。ヨハネの黙示録が、現在の歴史の終わりにおける「新しい天」と「新しい地」について述べる際、「夫のために着飾った花嫁のように用意を整え」(黙21・2)た女のエルサレムの幻が示されます。啓示自体が、花婿の到来を呼び求める花嫁と霊のことばで締めくくられます。「主イエスよ、来てください」(黙22・20)。
こうして、男であり女であることは、〈本質的に創造に属する〉ものとして現され、それゆえ、明らかに変容された姿においてではありますが、〈現在の時を超えて継続する〉よう定められています。このようにしてそれは「決して滅びない」(一コリ13・8)愛を特徴づけます――出生と死によって特徴づけられた人生の期間のうちに位置づけられた性の時間的・地上的な表現は滅びゆくとはいえ。神の国のための独身は、このような男であり、女であることの未来の形の預言となることを目指します。独身を生きる人々にとって、それは、男また女であり続けながら、もはや地上における夫婦関係の制約を受けない生のあり方を先取ります(マタ22・30参照)。さらに、夫また妻としての生活を生きる人々にとって、独身の状態は、自分たちの関係が神と顔と顔を合わせて出会う完成を思い起こさせ、預言するものとなります。
男と女は、創造の初めから区別され、永遠においてもその中心は変わりません。しかし、キリストの復活の神秘と結ばれることによって、その差異を否定や均一化によって克服すべき不和の理由としてではなく、区別を互いに尊重することによってはぐくむべき協力の可能性として捉えることができるようになります。ここから、女性の尊厳と、人間社会と教会におけるその役割をより深く理解するための新たな展望が開かれます。
三 社会生活における女性的価値の現代的意味
13 女性の具体的生活に関連する根本的価値の一つは、「他者のための能力」と呼ばれるものです。ある種のフェミニズムの言説は「自分自身のための」要求を強調しますが、女性は、他者の目覚め、成長、保護を目指す活動が人生の最良の部分であるという深い直観を抱いています。
この直観は、いのちを生み出すという女性の身体的能力と結びついています。体験的にであれ潜在的にであれ、この能力は女性のパーソナリティを根底から形づくる現実です。この能力は、女性が早い時期から成熟し、人生の真剣さと人生に伴う責任を自覚することを可能にします。しばしば個人と社会にとって致命的なものとなる抽象化に対抗する、具体的なものへの感覚と尊重を女性のうちにはぐくみます。そして最終的に女性こそが、絶望的な状況にあっても――過去と現在の歴史が示すとおり――逆境に抗い、極限状況下でも生命を維持し、未来に関する粘り強い感覚を保ち、究極的にすべての人間のいのちの価値を涙ながらに思い起こすことのできる能力をもっているのです。
母性は女性のアイデンティティの重要な要素ですが、だからといって女性を生物学的な生殖の観点のみから捉えることは決して正当化できません。この意味で、生命力的な観点から女性の生物学的出生能力を過剰に重視し、しばしば女性に対する危険な蔑視も伴う、深刻な誇張した考え方が存在します。旧約の伝統や多くの人間社会の要求に対して大胆といえる、キリスト教における独身(処女性)への召命の存在は、この点できわめて重要です(17)。独身(処女性)は、女性を単に生物学的な目的に閉じ込めようとするあらゆる主張に根本的に抗います。処女性が身体的母性から、キリスト者の召命は他者のために自らを具体的に与えること以外のものではないことが思い起こさせられます。それと同様に、身体的母性も、処女性から、その根本的に精神的な次元を思い起こさせられます。他者が真に生み出されるとは、身体的ないのちを与えることに満足することだけではないということです。このことは、身体的な出生が行われないときにも、母性は完全な実現形態を見いだしうることを意味します(18)。
こうした観点から、人間関係と他者への配慮にかかわる家庭生活と社会生活のあらゆる側面において女性が果たすかけがえのない役割を理解することができます。ここで教皇ヨハネ・パウロ二世が「女性の才能」(19)と呼んだことがはっきりと示されます。「女性の才能」とは、第一に、女性が、「根本的、ある意味で『主権的』社会」(20)である家庭の中で積極的で堅固なしかたで存在することを意味します。なぜなら、何よりもまず家庭の中でこそ人間の顔が形づくられ、家族の成員が根本的な教えを習得するからです。家族は無償で愛されるからこそ愛することを学びます。尊重されるからこそすべての他者を尊重することを学びます。気遣いに満ちた父と母から最初の啓示を受けるからこそ神のみ顔を知ることを学びます。こうした基礎的な経験を欠くなら、必ずや、社会全体が暴力に苦しみ、社会も多くの暴力を生み出します。さらにこのことは、女性が労働界や社会組織にいなければならず、国家政策に影響を及ぼし、経済問題や社会問題に対して革新的な解決をもたらしうる責任ある地位に就くことができなければならないことも意味します。
しかし、このことに関連して忘れてはならないことがあります。それは、家庭と労働という二つの活動の関係は、女性の場合、男性とは異なる性格を帯びるということです。それゆえ、労働に関する法律や制度を、家庭内での女性の使命の要求と調和させるという問題が生じます。この問題は単に法的、経済的、制度的なものだけではありません。それは何よりもまず意識と文化と敬意の問題です。実際、家庭内で女性が行う労働は正当に評価されなければなりません。そうすれば、自由に家事に専念したい女性は、社会的な烙印を押されたり経済的な不利益を被ることなしに家事にすべての時間を注ぐことができます。また、家事以外の仕事を望む女性は、家庭生活を犠牲にするか、個人のバランスも家庭の調和も損なうような習慣的なストレス状態に耐えるかという二者択一に直面させられることなしに、適切な勤務時間で仕事をすることが可能となります。教皇ヨハネ・パウロ二世が述べたとおり、「母親の自由を抑圧することなく、心理的、実際的差別をすることなく、他の女性と比較して不利な扱いを受けることなく、母親が子どもたちの世話をし、子どもの年齢によって異なる必要に応じた教育に専念できることは、社会の信用を高めることです」(21)。
14 しかしながら、今述べた女性的価値は、何よりもまず人間的価値であることを思い起こすことが適切です。神の像として造られた男と女の人間的条件は、一体不可分です。女性は、これらの価値ともっとも直接的に親和的であるからこそ、そうした価値の特別なしるしとなりえます。しかし、究極的には、男性と女性を問わず、すべての人間は「他者のための」存在であるように定められています。こうした観点から見て、「女性的」と呼ばれるものは、単なる女性の属性以上のものです。実際、このことばは、他者のために、また他者のおかげで生きるという人間の根本的な能力を示します。
それゆえ、社会における女性の地位向上は、女性のおかげで再発見された価値を通して実現される人間化として、理解され要求されなければなりません。男性と女性の間の争いとして示されるいかなる物の見方も、幻想であり、危険なものにすぎません。それは男女間の分離と競争の状況を生み出し、誤った自由観によって醸成される独我論を助長するだけです。
この考察は、女性が社会と家庭の中で望みうる権利の推進のための努力を損なおうとするものではなく、むしろ、男性を打ち勝つべき敵とみなす考え方を是正することを望んでいます。男性-女性の関係は、不信と防御を伴う一種の対立のうちに適切な状態を見いだせると考えるべきではありません。この関係が、平和と、分かち合われた愛の幸福のうちに生きられることが必要です。
より具体的なレベルでは、教育、家庭、雇用、サービスの利用、市民参加に関する社会政策は、一方では、あらゆる不当な性差別と闘うとともに、他方では、個々人の望みに耳を傾け、その必要を把握しなければなりません。平等な尊厳と個人の共通の価値の擁護と促進は、男性と女性の間の差異と相互関係の注意深い認識と調和したものでなければなりません。そこで求められるのは、男性であれ女性であれ、人々の人間性の実現なのです。
四 教会生活における女性的価値の現代的意味
15 教会にとって、女性はこれまでに増して中心的で豊かなしるしです。それは、教会が神から与えられ、信仰のうちに受け入れている自らのアイデンティティに根ざしています。教会における男性と女性のそれぞれの役割を考察する際には、この「神秘的」で深く本質的なアイデンティティを念頭に置かなければなりません。
キリスト教の最初の世代から、教会は自らをキリストから生まれ、愛の関係によってキリストに結ばれた――婚姻はその最高の表現です――共同体とみなしてきました。そこから、キリスト・イエスのうちに現されたこの神の愛の神秘の前にとどまり、それを観想し、祝うという、教会の第一の使命が生じます。このことに関連して、マリアの姿は教会における根本的な基準となるものです。比喩的にいうなら、マリアは教会の前に置かれた鏡です。教会はこの鏡の中に、自らのアイデンティティと、神から期待される心の状態、態度、行動を見いだすように招かれています。
マリアの存在は、神のことばを聞いて受け入れることのうちに自らの存在を根づかせるようにという、教会に対する招きです。なぜなら、信仰は、人間の側から神を探求することではなく、むしろ、神が人間のもとに到来し、訪れ、語りかけられたことを人間が認識することだからです。「神にできないことは何一つない」(創18・14、ルカ1・37参照)ことを信じるこの信仰は、教会が御父に「おことばどおり、この身になりますように」(ルカ1・38)と述べうるための謙遜と愛に満ちた従順のうちに生き、深まります。信仰はたえずわたしたちをイエスに向かわせ――「この人が何かいいつけたら、そのとおりにしてください」(ヨハ2・5)――、十字架にまで至るイエスの歩みに従います。マリアは、もっとも暗い闇のときにも、神のことばへの信頼という特別な確信をもって、勇気をもって忠実にとどまりました。
教会はつねにマリアからキリストとの親しさを知ることを学びます。ベツレヘムの小さな幼子をその腕に抱いたマリアは、神の限りない謙遜を知ることを教えます。十字架から降ろされたイエスの傷つけられたからだを腕に受け入れたマリアは、この世で暴力と罪によって傷ついたすべてのいのちを集めるすべを教会に示します。教会はマリアから、神が愛する御子の生涯そのものの中で示し、現した愛の力の意味を学びます。「主は〔……〕思い上がる者を打ち散らし、〔……〕身分の低い者を高く上げ」(ルカ1・51-52)られます。キリストの弟子はつねにマリアから、神のみわざに対する賛美の意味と味わいを与えられます。「力あるかたが、わたしに偉大なことをなさいましたから」(ルカ1・49)。キリストの弟子は、自分たちが世にあってこれらの「偉大なこと」の記憶を保ち、目覚めて主の日を待ち望むために存在することを学びます。
16 しかしながら、マリアに目を向け、マリアに倣うことは、教会を、女性性に関する時代遅れの概念に基づく受動性へとささげることを意味しません。また、支配と権力が何よりも重視される世界の中で危険な脆弱性によって教会を非難することを意味するものでもありません。実際、キリストの道は支配の道でもなければ(フィリ2・6参照)、世が思うような権力の道でもありません(ヨハ18・36参照)。わたしたちは神の子から、この〈受動性〉が実際には愛の道であり、あらゆる暴力に打ち勝つ王の力であり、罪と死から世を救い、人類を再創造する〈受難〉であることを学びます。十字架につけられた主は、使徒ヨハネを母にゆだねることにより、教会がマリアから勝利を収める愛の秘訣を学ぶように招きます。
傾聴と受け入れと謙遜と忠実と賛美と期待の資質を備えたマリアに言及することは、教会に女性性に関する歴史的に条件づけられたモデルに基づくアイデンティティを与えるどころか、教会をイスラエルの精神史との連続性のうちに位置づけます。こうしたマリアの態度は、イエスにおいて、またイエスを通して、洗礼を受けたすべての者の召命となります。これらの態度は、身分や生活状態や職業の違いや公的責任の有無を問わず、キリスト者の生活のアイデンティティの本質的側面を規定します。これらの態度は、洗礼を受けたすべての者に典型的なものでなければならないとはいえ、実際のところ、それを特別な深さと自然さをもって生きる女性の特徴です。こうして女性は教会生活の中で最大限に重要な役割を果たします。すなわち、洗礼を受けたすべての者にこの資質を思い起こさせ、キリストの花嫁であり信じる者の母である教会の真の姿を明らかにするために、独自の貢献を行うのです。
このような観点から、司祭叙階が男性にのみ留保されていることは(22)、女性がキリスト教的生活の中心に近づくことを決して妨げるものでないことも理解できます。女性は、花嫁が花婿であるかたの愛に愛をもってこたえなければならないことに関して、すべてのキリスト者にとっての模範と証人となるよう招かれているのです。
結び
17 イエス・キリストにおいて万物は新たにされました(黙21・5参照)。しかし、恵みによる刷新は心の回心なしに不可能です。イエスに目を向け、イエスは主であると告白することは、イエスが弟子たちに示した罪に打ち勝つ愛の道を認めることを意味します。
こうして男と女の関係は造り変えられ、ヨハネの手紙一が語る三つの欲は(一ヨハ2・16参照)、優位を占めることがなくなります。女性の生活が示すあかしを、価値――それなしには人類が自己充足と権力への夢と暴力の悲劇のうちに閉じ込められてしまう価値――の啓示として受け入れなければなりません。女性もまた、回心させられ、自らの女性性がもたらすことができる他者への愛という独自のきわめて力強い価値を認識しなければなりません。いずれの場合も、人類が神へと回心することを意味します。こうして男も女も、神が自分たちの「助け手」であり、慈愛に満ちた造り主であり、「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハ3・16)あがない主であることを知るようになります。
このような回心は、自らの罪を認める透明な目と、罪をいやす恵みが神から与えられることを祈る謙遜な祈りなしには生じえません。とくにおとめマリアに祈り求めなければなりません。マリアは、神のみ心に従い、「女の中で祝福され」(ルカ1・42参照)、人類、すなわち男と女に愛の道を啓示するために選ばれた女だからです。こうして初めて、すべての男と女のうちに、それぞれの恵みに応じて、彼らのうちに刻まれた聖なる形である「神の像」(創1・27参照)が現れ出ます。こうして初めて、わたしたちは平和と驚くべきわざの道――からだとこころが同じ喜びを祝う雅歌の歌を通して聖書の伝統があかしした――を再発見することができるのです。
もちろん教会は、個人と社会のうちに働き、時として夫婦の善意に対する絶望を招くこともある罪の力を知っています。しかし教会は、十字架につけられて復活したキリストへの信仰のゆえに、あらゆる傷と不正にもかかわらず働く、ゆるしと自己譲渡の力をいっそうよく知っています。教会が現代の男性と女性に信頼をもって示す平和と驚くべきわざは、復活の園の平和と驚くべきわざです。この平和と驚くべきわざは、現代世界と歴史全体を「神は愛」(一ヨハ4・8、16)であるという啓示によって照らしてきたのです。
教皇ヨハネ・パウロ二世は下記の教理省長官である枢機卿との謁見において、同省通常総会で決議された本書簡を認可し、その公布を命じた。
ローマ、教理省事務局にて、2004年5月31日、聖母マリアの訪問の祝日
