
2026年9月25日(金)のフランス司牧訪問の第1日、午後2時45分(日本時間同日午後9時45分)にパリのユネスコ(国際連合教育科学文化機関)本部を訪問して行った演説(原文フランス語および英語)。 (ハーリド・エルアナ […]
(ハーリド・エルアナーニー)事務局長
(コンドカー・M・タルハ)総会議長
(ナセル・ビン・ハマド・アル・ヒンザブ)執行委員会委員長
ご列席の皆様。
本日この諸国家の集まりに来ることができましたことをうれしく思います。ここではさまざまな言語と文化が人類家族全体にかかわるプロジェクトに協力するために集まっています。このプロジェクトとは、「正義、法の支配、人権および基本的自由に対する普遍的な尊重を助長するために教育、科学および文化を通じて諸国民の間の協力を促進することによって、平和および安全に貢献すること」(『ユネスコ憲章(国際連合教育科学文化機関憲章)』第1条1[文部科学省訳])です。実際、公正な社会をともに築くことは国際協力の基盤です。わたしたちの経験、能力、専門技術は、すべての人が平和のうちに成長するために、すべての人を受け入れ、豊かにする空間を作ることを目的とします。
わたしは平和の証人として、加盟国、オブザーバー、国際機関、大学と市民社会の代表者の皆様に心からごあいさつ申し上げます。この機関の事務局長であるハーリド・エルアナーニー氏に対して、温かくご招待くださり、わたしたちにごあいさつくださったことに対して感謝申し上げます。わたしは牧者として皆様に教会を代表してお話しします。教会はすべての善意の人々に対して「メッセージと対話」となり続けるからです(教皇パウロ六世回勅『エクレジアム・スアム(1964年8月6日)』67[Ecclesiam suam]参照)。
ともに公正な世界を築くという計画は、わたしたちが歴史を通して共有することを学んだ使命と一致します。このことに関してユネスコは、今日新たな決意をもって多くの活動分野においてこの課題を追求するための目的と手段となっています。2027年、わたしたちは聖座のユネスコ加盟75周年を迎えます。ユネスコへの聖座の加盟は、未来は神の像として造られたすべての人間の不可侵の尊厳の尊重と促進にかかっているという確信から生じています。だからこそわたしたちはこの機関を、共通善、すなわち、わたしたち皆が初めから平等に共有する「尊厳の社会的形態」(教皇レオ十四世回勅『人間の偉大さ――AIの時代における人格の擁護(2026年5月15日)』59[Magnifica Humanitas]参照)に奉仕するうえでの特別なパートナーとみなしています。1952年以来、聖座の常駐オブザーバーはこの観点からユネスコの取り組みを見極め、それに同伴してきました。そのために真の全人的発展を支援するための諸国家間の対話に貢献しています。全人的発展は「個人としての人間全体、および人類全体を進歩向上させること」(教皇パウロ六世回勅『ポプロールム・プログレッシオ――諸民族の進歩推進について(1967年3月26日)』14[Populorum progressio])を目指します。
わたしの敬愛すべき前任者である教皇聖ヨハネ・パウロ二世(位1978-2005年)はユネスコへの演説の中で「人類は芸術と文化によって生きる」(genus humanum arte et ratione vivit)と述べました。実際、「人間は文化のおかげで真に人間らしい生活を送ります」(1)。この「文化」ということばは、人間が自分が行うすべてのことに意味を与える方法を意味します。それから46年後に皆様の前で聖座のユネスコへの協力への決意を新たにするにあたり、わたしは皆様に、ユネスコを単なる優れた国際機関としてだけでなく、人類が自己とその歴史と未来を考察するための場としても考えるようにお願いしたいと思います。実際、教育、科学、文化を促進することは、それらの主体である人間の生活の促進なしに不可能です。
カトリック教会は教育分野において古くからの経験を有しています。数世紀にわたり、教会共同体は学校や大学を開設し、識字教育を行い、もっとも貧しい僻地にも存在してきました。わたしの前任者である教皇フランシスコ(位2013-25年)は、「教育に関するグローバル・コンパクト(2020年10月15日)」によって、この経験を、すべての人に開かれた、より広範な教育的連携の一部にしようとしました。しかし、わたしが皆様にお伝えしたいのは、主として活動ではなく、それらの活動を生み出した確信です。意味の問いについて語らなければ、教育は完全なものとなりません。教皇聖ヨハネ・パウロ二世は同じ演説の中でこう述べました。教育とは、人間が単により多くを「所有する」だけでなく、よりよく「存在する」ことができるように助けることです。そのために、十全な人間性の一部である人格の超越性を人間のうちに認めなければなりません(同10-11参照)。(以上フランス語、以下英語。)
それゆえ、この集いの中で、緊急な応答を求める根本的な問いを探究するのはふさわしいことだと思います。それは「人間であるとは何を意味するか」という問いです。すべての文化はこの問いを投げかけられています。それはあらゆるかたちの知識、芸術、宗教の中心にあるものです。結局のところ、21世紀においても、人間の人格とはいかなるものか、また、人間として生きるとは何を意味するかを、わたしたちが当然のこととして知っているとはいえません。実際、すべての世代の人は、とくに残念ながら今日においても起きている悲惨な出来事に直面するときに、この問いに向き合うよう求められます。
何よりもまず、人間の人格は〈受胎し、生まれてくる存在〉です。それゆえ、人間であることは子どもとなることを意味します。わたしたちはだれ一人として子どもとなることを選択するのではありません。わたしたちはだれ一人として、だれから、いつ、またどこで生まれるかを決めるのではありません。この明白な事実は、単に生物学的なことだけでなく倫理的なことがらに光を当てます。わたしたちは皆、子どもとして、兄弟姉妹です。わたしたちの人間性は最初から、たまものであるとともに試練です。約束であるとともに責任です。すべての人間にとって生まれることは根源的なきずなを築きます。すなわち、家族のうちにその源泉と最初の教育の場をもつ、いのちの交わりです。
第二に、わたしたちは皆、助けを必要とする裸の状態で生まれます。わたしたちは貧しい者として生まれます。パンとことばとケアと愛情を――すなわち、からだと心を養うすべてのものを必要とする者として生まれます。わたしたちは皆このことをよく知っていますが、にもかかわらず、大人になるにつれてこのことを忘れるおそれがあります。この忘却の影響をもっとも受けるのはまさに助けを必要とする人々です。その人間性が裏切られ、ないがしろにされ、搾取され、だまされるからです。わたしたちが生まれる状況を忘れることは、人間のいのちという概念そのものをあいまいなものとします。なぜなら、わたしたち皆に共通の歴史からいのちを切り離すからです。こうしていのちはもはやたまものとしてではなく、商品として理解されます。いのちはケアと責任への呼びかけではなく、搾取される生産物としてみなされるようになります。実際、このような悲劇は、人間であることは本性的に自由であることだということをわたしたちに思い起こさせます。わたしたちは皆、子どもでした。だから、わたしたちの自由は、最初に――愛情のしぐさをもってであれ、拒絶のしぐさをもってであれ、あるいは、愛をもって迎え入れることであれ、虐待(ネグレクト)や残忍な行為によってであれ――わたしたちに向き合う人の自由への応答から始まります。
第三に、わたしたちの共通の人間性の記憶を生き生きと保ち続けることは、たとえそれがさまざまなかたちの悪や不正によって損なわれていたとしても、人間性の偉大さを――すなわち、そのはかりしれない可能性を――認めることを意味します。教育、科学、文化の領域にかかわる人々には、わたしたちの自由の美しさがいっそう輝きを放つようになるために、すべての人格を大切にすることがとりわけ求められます。自由の美しさは、正義という名をもっています。実際、自由が美しいものとなるのは、それが善と真理に向かうときです。自由が醜いものとなるのは、それが恣意や暴力や権力への渇望に成り下がるときです。それゆえ、人間であるとは、歴史に対する責任を意味します。人間は、手と精神をもって成長し、学び、働く存在です。わたしたちは労働によって大地を耕すこともできれば、それを台なしにすることもできます。芸術作品を造り出すこともできれば、それを破壊することもできます。この特別な転換期にあたって、わたしたちは「人間のわざ」の中でもっとも恐ろしいものは戦争であることを認識しなければなりません。なぜなら、戦争においては、科学そのものが、破壊し殺害する非人間的な意志に奉仕させられるからです。
このことに関して、『ユネスコ憲章』前文は――わたしたちが(ベルファストの)「平和の壁」で目にするとおり――今日においてもきわめて現代的な意味をもつことばで始まります。「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」(『ユネスコ憲章(1945年)』前文[前掲文部科学省訳])。このことばは、20世紀最大の壊滅的な悲劇である第二次世界大戦の直後に記されました。人類は次のことを理解するに至りました。科学の進歩は知恵から切り離されるなら破壊をもたらす武器となりうる。文化はイデオロギーに屈するなら虚偽とプロパガンダへと堕落しうる。教育は真理を放棄するなら良心を操作するための道具となりうるということです。ユネスコの創設国は、条約は必要だとはいえ、それだけでは不十分であることを理解していました。条約は、条約を支える、平和の文化と共通の平和への取り組みを必要とします。平和は、条約や、対立する勢力の間での妥協によって築かれるものではありません。平和が真の平和となるのは、それが単なる契約からではなく正義の徳からわき出ること、不安定な利害の均衡からではなく誠実な意志からわき出る場合です。実際、他者の中に兄弟姉妹を、すなわち自分と同じ人格を見いだすことができるのは、誠実な意志だけです。
80年をへてなお、『ユネスコ憲章』のことばはその力をまったく失っていません。とはいえわたしたちはこの共通の原則が対立や紛争を助長するさまざまな蛮行によって深く脅かされていることも目の当たりにしています。わたしは、科学と教育の世界が直面する課題の中で、広範な技術の分野から生じる課題にとくに目を向けたいと思います。この領域におけるわたしたちの努力は、新しいテクノロジーが新たな支配と不正の道具となるのではなく、人間の人格に奉仕し続けるものとなるようにしなければなりません。
数世紀にわたり、かつて人間が担っていた多くの仕事が機械にゆだねられるようになりました。そして機械の性能と用途は拡大し続けてきました。近年、一部の人工的システムに、知能(intelligence)という、人間の思考力を表す名が与えられるようになりました。しかし同時に、わたしたちの思想と人間関係が非人間化のプロセスによって貧困化するおそれもあります。逆説はますます明らかとなっています。コンピュータシステムに「知能」の名が帰せられる一方で、わたしたちは人間の人格の不可侵の尊厳を認めるために苦闘しています。なぜなら、人間のいのちは効率性の基準に従って評価され、それが生産的でないとみなされるとき、拒絶され、廃棄されるからです。
この痛ましい現実は、人間本性の脆弱性と、すべての人間の人格のはかりしれない尊厳について考察するようわたしたちを招きます。この尊厳は、たとえ死も含めたもっとも脆弱な状態にあっても、決して失われることがありません。いうまでもなく、人間は生まれる存在であるとともに、〈死すべき存在〉でもあります。わたしたちの尊厳は、病気や苦しみによって破壊されることもなければ、自らの能力に依存するものでもありません。むしろそれは人生のすべての段階において愛をこめた配慮を要求します。
キリスト教信仰にとって、人間の人格の神秘はキリストにおいて真に解明されます。キリストは「父とその愛の神秘の啓示そのものをもって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする」(第二バチカン公会議『現代世界憲章(1965年12月7日)』22[Gaudium et Spes])からです。キリストの光に照らされることにより、すべての人格は神によって望まれ、愛された被造物としてわたしたちの前に現れます。この光は、わたしたちの共通の人間的経験の意味をより深く把握するための助けともなります。
ご列席の皆様。皆様は科学の人として、共通の歴史の名のもとにたゆまずに協力し合うように招かれています。それは、多様な観点からビジョンの歩み寄りが生まれ、この歩み寄りから行動の一致が生まれるようになるためです。この一致がユネスコの活動の中で表現されます。ユネスコは人類の幸福と福祉への崇高な望みに交響曲のように響き合う声を与えるからです。一致があるところに異なる声は合意を見いだし、こうして皆様が代表する国々はともに和合へと至るのです。
このことに関連して、わたしは人類の偉大な文化的財産である聖書から、二つのイメージを召喚したいと思います。バベルの塔と、聖霊降臨の広場です。わたしはこれらのイメージを人類家族の一致を表す二つのあり方として示します。人類は今日においても、自らの向かうべき方向と、生きている歴史の意味を見極めるように招かれ続けているからです。この二つの聖書の物語は、現代の状況について考察するようにわたしたちを招く社会生活の二つのかたちを提示します。
バベルの塔は、支配によって強要された一致を表します(創11・4参照)。同時にこの建物は、権力は抑圧することを求めれば求めるほど弱体化し、その非人間的な姿をさらすことを表します。わたしたちはこのことを、専制政治によって引き起こされた苦しみと不正、また、社会と環境を損なうさまざまなかたちの搾取のうちに見いだします。歴史が教えるとおり、多くの帝国が権力を謳歌した末に、自ら権力によって滅ぼされ、塔のように崩壊しました。高められた後に低くされる、この思い上がりの結果は、離散です。自らを神と同じ者とし、民を一つのくびきに従わせようとする主張は、言語の混乱と、相互理解の破綻を招きます。バベルの塔は、自らが主張したとおり天に届く代わりに崩れ去り、二つの悪い結末をもたらします。バベルが求めた一致は強制的なものだったため、その崩壊がもたらした多様性は争いの原因となりました。今日、バベルの誘惑は、兄弟愛を欠いて追求されるグローバル化、新植民地主義のさまざまな強欲な形態、イデオロギーの強要、人間のいのちを商品に貶めるあらゆる「つながりのないコンタクト」(教皇庁国際神学委員会『人類よ、あなたはどこへ向かうのか――――人間の未来に関するいくつかのシナリオに対するキリスト教的人間論の考察(2026年)』42[Quo vadis, humanitas?: Pensare l’antropologia cristiana di fronte ad alcuni scenari sul futuro dell’umano]参照)のうちに再び姿を現しています。科学そのものも、権力の技術に成り下がるなら、もはや人間の人格を高めるために役立たず、むしろ人間の営みの成果を損なうおそれがあるのです。
とくに今日、わたしたちは人々と諸大陸を瞬時につなぐ手段を手にしているにもかかわらず、同時に、新たなかたちの孤立、物質的・精神的貧困、遺棄を目にしています。通信速度はきわめて速くなりましたが、必ずしもより真実を伝えるものとなっていません。情報はあふれていますが、それは知恵と同義ではありません。共通の倫理的基盤がなければ、多くの通信手段も偽情報を拡散し、意味のないことばを流通させ、こうして対話を促進するのではなく疎外するおそれがあります。
人工知能はこの問題を増幅させます。このシステムはデータを関連づけることはできますが、生きた経験に根ざした人生の意味にかかわる問いに答えることはできません。しかし、人間は意味なしに生きることができません。意味は精神のための酸素です。そのため、つねに教育にとっての課題でもあるコミュニケーションの課題は、真理の探求を、社会正義と歴史的公平性の問題とします。だからこの分野の教育は不可欠です。わたしは、メディアとデジタルツールの責任ある使用を促進する、ユネスコのメディア・情報リテラシープログラム(MIL)による取り組みを歓迎します。
実際、真理がなければ、言語は暴力の論理や権力者の恣意的な意志に従属するようになります。それゆえ、他者は利益の名のもとに排除され、罪のない人々は自由の名のもとに殺害されます。権力者は法を尊重せずに、自らの利益に役立つときに法を用い、利益を制約するときには法を無視します。正義そのものさえ、売り買いできる商品のように扱います。法の腐敗は心の腐敗から始まります。このことを理解するなら、すべての科学は、倫理なしに追求されるなら本来の意味を失い、人間の尊厳に奉仕しそれを反映するものでなくなるおそれがあることが理解できます。
このことに関連して、わたしは国際社会全体に対し、子どもと若者の保護に特別な関心を向けるように促します。デジタル時代において、子どもと若者の脆弱性が搾取の機会となってはなりません。新たなテクノロジーが、彼らの成長と教育と人間関係を支援し、思考し識別する自由を保護し、つねに人間の人格の尊厳に奉仕し続けますように。
わたしたちが考察している文化の腐敗は、聖霊降臨の広場のうちにあがないを見いだします。そこでは平和のメッセージが諸国の民によって福音として受け入れられます。このメッセージは、イエスの復活を、すなわち、死に対するいのちの勝利と、世に希望を与える救いをのべ伝えます。聖霊降臨の日、広場は、人間の人格に対するあらゆる攻撃をいやす平和が祝われる場となります。そこにいるすべての人はこのメッセージを「めいめいが生まれた故郷のことば」(使2・8参照)で耳にしました。交わりは決して多様性を抑圧するものではありません。むしろそれは多様性がさまざまな声と顔の調和のうちに開花することを可能にします。平和がのべ伝えられるとき、文化の豊かさは普遍的な真理の担い手となります。こうして聖書の教えはわたしたち皆が求めていることを実現するための道を示してくれます。すなわち、「相違を否定せず、一人ひとりの個人史と、すべての民族の社会的・宗教的文化を尊ぶ一致」(教皇レオ十四世「就任ミサ説教(2025年5月18日)」)です。すべての民の間のそのような交わりを可能にするのは、バベルの支配ではなく、聖霊降臨の平和です。それゆえ、あらゆる文化は、平和とすべての人の善を追求し、わたしたちの人間性の真の意味をあかしするときに、その最高の知恵を実現するのです。
教育に携わる人々は、真理のみがわたしたちを自由にすることを知っています。教育者と研究者は、誤謬がわたしたちを無知と迷信の奴隷にすることを知っています。自分たちの使命の障害にぶつかったときは、すべての人にとっての一つの地球が存在すること、共通の人間本性が存在することを思い起こしましょう。互いに帰属し合うもの――すなわち、肉体と霊魂、個人生活と人間関係、他者との関係と環境との関係――を切り離しては、人間を理解できません。これらすべてのものがわたしたちの存在の一致を成り立たせています。そのため、大地を耕すことは、わたしたちがそこに住む人間性を耕すことでもあります。教育と科学はこの課題を果たすよう求められています。実際、そのことばの語源に従うなら、あらゆる文化(culture)が耕すこと(cultivation)であるのは偶然ではありません。それゆえわたしは、人間の人格と被造物をともに大切にするようにというわたしの前任者たちの呼びかけを繰り返します。教皇ベネディクト十六世(位2005-13年)はヒューマン・エコロジーの必要性について語ったのに対して、教皇フランシスコは総合的な(インテグラル)エコロジーの展望を発展させました(教皇ベネディクト十六世「ドイツ連邦議会での演説(2011年9月22日)」、教皇フランシスコ回勅『ラウダート・シ――ともに暮らす家を大切に(2015年5月24日)』137-162[Laudato Si’]参照)。
この取り組みにどれだけ近づきうるかを示す試金石は、わたしたちがもっとも小さな者と貧しい人に示す配慮です。すなわち、母胎にいる子どもと、さまざまな戦争の脅威にさらされた子ども、身体障碍(しょうがい)者と知的障碍者、高齢者、移住者、難民、そして傲慢にも非生産的だとして排除されるすべての人々に対する配慮です。これらの人々こそが、人間の尊厳を尊重しているというわたしたちの主張の真の基準です。そしてこれらの人々の保護と発展は被造界にも拡大します。これと対立するのが、搾取と収奪を行う意志です。それはすべての生物から可能なかぎりのものを搾り取り、保護することなしに消費し、耕すことなしに破壊します。こうして現代の環境危機は人間の危機となります。さらに教会は、あらゆる文化がそれ自体のうちに諸民族のエコシステムの中で成熟する知恵をもっていることを確信しています。人間の住み家は社会です。社会は動物にとっての砂漠や海洋のような単なる物理的環境ではなく、精神的で関係的な環境です。社会の平和が勝利するとき、人々も正義のうちに栄えます。(以下フランス語)
平和構築のための粘り強い働き――ここにユネスコはその崇高な教育的使命と科学的使命の統合を見いだします。現代の多くの複雑な緊急課題を前にして、世界は国際機関を対照的な感覚で見ています。一方で国際機関は、いかなる国家も単独で対処できない課題に取り組むことを求められます。他方で、対話が平和のための資源ではなく行動の障害とみなされ、善をともに追求する機会ではなく偽善の形態とみなされるとき、同じ国際機関は効力の危機に直面します。こうした潮流に対して、まれではあっても望まれる徳を促進しなければなりません。すなわち信頼です。相違が必ずしも脅威とならないことを信じる信頼です。真摯な対話が一人では得ることができない大きな善を生み出すことができることを信じる信頼です。聖座はこの信頼をユネスコと他の国際機関に吹きこみたいと願います。平和だけが保証することのできる真の発展の追求において、すべての民がそれぞれ貴重な役割を担うと考えているからです。困難を無視する無邪気な楽観主義を主張するのではありません。むしろ、善はつねに可能であるという希望を粘り強くもとうとしているのです。生まれてくる子どもは皆、希望をもたらします。真理の探求に生涯をささげる人は皆、希望を実践します。それゆえ、ユネスコが、異文化間の対話を通じて諸国民の相互理解を促進することによって、この希望をあかしするものとなりますように。実際わたしたちは、教育は互いに対する恐怖を克服させる手段であり、科学は、未来に刈り取られる善の種を今日蒔くことによって、すべての人のいのちに奉仕できると信じています。この信頼が、わたしたちの愛――すなわち隣人への奉仕――に根ざした希望をはぐくみます。わたしたちが一貫した態度をもって自らの偉大な人間性のために自分をささげるなら、ついに平和が花開くことができるでしょう。
この作業に協力する際、宗教的諸伝統は必要でかけがえのない文化的役割を果たします。宗教は、生命の起源と目的に関するわたしたちの問いかけを表現し、日々の選択の中に反映される、存在の根本的かつ究極的な意味を示します。実際、善意の人々が自分たちの行動を神へと方向づけるなら、文化の多元性がバベルの混乱のうちに分散することはありません。反対に人類は、意味を共同で探求し、死を超えた目的を目指すことにおいて一致します。わたしたちは虚無への道を歩んでいるのではありません。だから人間の霊魂は、神との関係の中で、同じ父の子であり兄弟姉妹であることを認める人々が手をつなぐことによって平和をはぐくむようにとの呼びかけをますます強く感じるのです。
それゆえ、今日のわたしたちの集いが、唯一の人類家族の一員であるという意識がより生き生きとした、積極的で、効果的なものとなるためにうむことなく努力する取り組みを強めてくれることを願っています。このことに関して、わたしは、人類のすべての科学と芸術を育むことによって平和を築くという気高い使命を専門性と献身をもって果たしておられるすべてのユネスコ職員に心からの感謝を申し上げたいと思います。
この考察を、皆様と、皆様が代表する国民と、とくに若者にささげます。実際、わたしたちの行動を注意深く見守っているのは新しい世代です。彼らの正義への願いを力づけながら、感謝と敬意を込めて、皆様と皆様の国々に対して、全能にしてあわれみ深い造り主である神の豊かな祝福を願い求めます。ご清聴ありがとうございます。
