教皇フランシスコの2014年6月18日の一般謁見演説:教会について

6月18日朝、教皇フランシスコはサンピエトロ広場で一般謁見を行いました。この謁見の中で、教皇は教会に関する講話を新たに開始しました。以下はその全訳です。
謁見のあと、世界難民の日(6月20日)を前にして、教皇はこれに言及しました。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 今日は雨模様ということでしたが、皆さんのよい行いのおかげでまだ降っていません。これは素晴らしいことです。雨に濡れずにこの謁見を終える恵みを、主がお与えになりますように。

 わたしは今日、教会に関する連続講話を始めます。それは、自分の母親や家族について話す子供にどこか似ているかもしれません。教会について語ることは、わたしたちの母と家族について語ることです。教会は、実際、孤立した組織でも民間団体でもNGOでもありません。ましてや聖職者やバチカンだけに限定されるものでもありません。「教会はこう考えます」と言いますが、わたしたちみんなが教会です。「誰のことでしょう」。「司祭のことでしょうか」。司祭は教会の一部にすぎません。わたしたちみんなが教会です。教会を司祭、司教、教皇庁などに限定しないでください。彼らは教会の一部です。わたしたち全員が教会であり、母なる教会のすべての家族です。教会は、実験室で生まれるようなものではなく、全人類に開かれたもっと壮大なものです。実験で突然、生じるものではありません。教会はイエスによって築かれましたが、それ以前の歴史を生きた人々やキリストご自身のはるか前から始まっていた準備段階も教会です。

1. この「前史」とも言うべき教会の歴史は、旧約聖書の中にすでに表れています。創世記には次のように記されています。神は、わたしたちの信仰の父であるアブラハムをお選びになり、故郷を離れて神が示す土地に行くよう促しました(創世記12・1-9)。この召命は、アブラハム一人に対する神の呼びかけではありません。それは、最初から彼一人ではなく、彼の家族と親戚、彼の家で働くすべての人への呼びかけでした。そして一歩を踏み出します。そうです。こうして教会は歩み始めました。その時、神は地平線をさらに広げ、アブラハムを祝福で満たし、彼の子孫が空の星や海辺の砂のように増えると約束しました。最初の重要な点はこれです。神が人間をお造りになったのは、アブラハムを始めとする地上のすべての家族にご自分の祝福を届けるためです。その人間の中からイエスがお生まれになりました。神は人間をお造りになりました。これは教会の歩みの歴史です。イエスはこの人間の中にお生まれになったのです。

2. 第二の点は、アブラハムが自分の周りの人々を選んだのではなく、神が彼らにいのちを授けたということです。それまでは、人間が神格化して、隔たりを埋め、助けや保護を求めるのが常でした。人々は複数の神や神格に祈っていました。しかし、この場面では、それまで聞いたこともなかったことが起こります。神ご自身が先に行動しました。つまり、神がアブラハムの家の戸をたたき、こう告げました。故郷を離れて出かけなさい。そして歩き始めなさい。そうすれば、わたしがあなたがたを大いなる国民にすると。これが教会の始まりです。そしてイエスはこの民から生まれました。神が率先してみことばを人間に語りかけ、神と人間の間の絆と新しい結びつきをもたらしました。「しかし、どうしたらそんなことが起こるのでしょうか。神はわたしたちに語りかけているでしょうか」。「はい」。「それでは、わたしたちは神と会話することができるでしょうか」。「はい」。それが祈りと呼ばれるものです。そして、最初にそれを行うのは神です。このように、神は、みことばを聞き、神を信頼して前に踏み出す人々をもって民を形づくりました。神を信頼することが唯一の条件です。もし、皆さんが神を信頼し、神に耳を傾けて踏み出すなら、そこに教会は築かれます。神の愛はすべてに先んじます。神がつねに最初です。神はわたしたちの前に到着し、わたしたちの先におられます。確か、預言者イザヤか預言者エレミヤが、神は春に最初に花を咲かせるアーモンドの枝のようだと言っていたと思います。それは、神はわたしたちより先に常に花開くことを示唆しています。わたしたちが到着すると、神はわたしたちを待っていて、わたしたちに呼びかけ、歩ませてくださいます。神はいつもわたしたちの先におられます。これが愛です。なぜなら、神はいつもわたしたちを待っておられるからです。「しかし、そんなことは信じられません。今までのわたしの生活はあまりにも悲惨だったからです。神がわたしを待っていてくださるなどと、どうして考えられるでしょう」。神はあなたを待っておられます。あなたが非常に罪深い人なら、神はなおいっそうあなたを待ち、はかり知れない愛をもって待っていてくださいます。なぜなら、神が最初だからです。教会は、わたしたちを待っていてくださる神へと導いてくれます。これが教会の素晴らしいところです。神はアブラハムよりも、アダムよりも先におられたのです。

3. アブラハムは、神が誰なのか、神が自分たちをどこに導こうとしているのかよく分かりませんでしたが、神の呼びかけに耳を傾けて出発しました。これは正しい行いです。彼は神に関する神学の本を持っていたわけではありませんが、自分に語りかけた神を信頼して出発しました。彼は信頼します。彼は愛を信頼します。神によって彼は愛を感じ、信頼したのです。しかし、こうした人々が常に確信を持って忠実であったわけではありません。実際、最初から、抵抗したり、自分自身に屈したり、自分の利益のみを考えたり、神と駆け引きしようとしたり、独断で物事を決めようとしました。これらは、救いの歴史の中の人々の歩みを特徴づける裏切りや罪です。救いの歴史は神の誠実と人々の不誠実の歴史です。しかし、神はあきらめません。神は忍耐強いお方です。神はあまりにも忍耐強いので、ときには子を連れた父のようにご自分の民を導き、はぐくみ続けます。神はわたしたちと共に歩んでおられます。預言者ホセアが言うように、神は「わが子に歩き方を教える父のように歩くことを教え、共に歩いておられます」。この神の姿は、何と素晴らしいことでしょうか。このことはわたしたちにも当てはまります。神はわたしたちに歩き方を教えてくださいます。そして教会にも同じように働きかけておられます。実際、主イエスに従うことを決心していても、わたしたちは毎日、自分本位になったり心をかたくなにしたりします。しかし、自分が罪人であることを自覚するとき、神はわたしたちをご自分のいつくしみと愛で満たし、ゆるしてくださいます。神は常にゆるしてくださいます。こうして、わたしたちは神の民、教会として育てられます。それはわたしたちの能力でも功績でもありません。わたしたちは小さな存在にすぎません。主がどれほどわたしたちを愛し、大切にしてくださるかを日々、体験することによって、わたしたちは育てていただくのです。そして、自分が真に主に属する者であり、主の手の中にいると感じ、主との交わりのうちに隣人の中で成長していきます。教会になるということは、わたしたちを愛し、気づかい、待ち、優しくしてくださる父なる神の手の中にいることを感じることです。それは何と素晴らしいことでしょうか。

 皆さん、これが神の計画です。アブラハムに呼びかけた時、神はこの計画を心に描いておられました。それは、神の愛によって祝福された民を形づくることです。その民は、地上のすべての人間に神の祝福を届けます。このことは今も変わらずに行われています。この計画はキリストにおいて達成されましたが、神は今も教会においてそれを実行し続けておられます。ですから、主イエスに忠実に従い、みことばに耳を傾ける恵みを願い求めましょう。また、アブラハムのように、神の大地であり人間の大地であるわたしたちの真の故郷に向けて踏み出す恵みを願い求めましょう。それは、祝福であり、すべての子に対する神の愛のしるしです。わたしたちキリスト者に当てはまる同意語のようなことばを考えたいと思います。わたしたちは神の恵みを祈る男女です。キリスト者は生涯を通して神の恵みをいつも祈り求めていなければなりません。キリスト者は神をたたえ、すべての人のために神の恵みを祈らなければなりません。わたしたちキリスト者は神の恵みを祈る人、神の恵みを祈ることができる人なのです。これは素晴らしい召命です。


世界難民の日(6月20日)を前にして、教皇は謁見の終わりに次のように呼びかけました。

「難民の数が増え続けています。この数日間、さらに数千もの人々が避難を余儀なくされています。さまざまな国籍と宗教をもった何百万もの避難民の家族が、悲惨な過去を持ち、いやしがたい傷を負っています。彼らの隣人となり、彼らの恐れと将来への不安を共に分かち合い、その苦しみを和らげるために具体的な努力をしましょう。難民が受け入れられ、その尊厳が尊重されるために盛んに活動している人々と団体を主が支えてくださいますように。イエスも難民であったことを考えましょう。イエスはいのちを守るために、ヨセフとマリアと共にエジプトに逃れなければなりませんでした。難民の苦しみを知っておられるマリアがこれらの兄弟姉妹のそばにいてくださるよう祈りましょう。難民となった兄弟姉妹のためにマリアに共に祈りましょう。」

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