障害の重荷をともに担える日をめざして

1996年に出版された、「障害の重荷をともに担える日をめざして」の全文です。 障害の重荷を担い合うキリストの共同体となるために、「障害」のキリスト教的意味を考え、どうすれば障害のある人の叫びに誠実に応じ、障害のある人とない人が支え合い、ともに生きることができるのか探ります。

原タイトル
著者 日本カトリック司教協議会・社会司教委員会
発行日 1996/3/20
判型 B6中綴
ページ数 24 P
価格 本体価格 97円(税込107円)
ISBN 978-4-87750-082-5
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障害の重荷をともに担える日をめざして

 キリストにおいて兄弟姉妹である皆さん

 わたしたちの信じる神は、あわれみ深く恵みに富み、忍耐強く、いつくしみとまことに満ちたかたであり(出エジプト34・6参照)、とくに苦しむ人の叫びに敏感で、真剣に耳を傾けられるかたです。出エジプト記は、神がエジプトで苦しめられていた人々の叫びを聞き入れ、その救いのためにモーセを遣わされたときのことを次のように記しています。
  「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしはくだって行き、エジプト人の手から彼らを救い出す」(出エジプト3・7-8)。
  旧約時代に何度も何度も手を差し伸べられた神は、時が満ちると、救いを求めるすべての人の叫びにこたえるため、ひとり子をこの世に送ってくださいました。
  人となられた神の子イエス・キリストは自ら、社会の片隅に追いやられていた弱い立場の人々に近寄って行かれました。イエスの特別な愛の対象になったのは、徴税人、異邦人、病人や障害のある人などであった、と福音書は伝えています。そのような人々の叫びがひときわ鋭く、切実なものだったからでしょう。
  国連は、人類のおよそ十人に一人がさまざまな障害を持っていると報告しています。わたしたちの教会も、障害のない人だけの集まりでは決してありません。障害のある人とない人がともに集う信仰共同体です。しかし残念ながら、まだまだ障害の重荷を担い合うキリストの真の共同体とはなっていません。そこでこの文書では、キリストによって集められ、キリストに従う者として、重荷を負う人の叫びにこたえられた父なる神の光を求めつつ、障害の意味をあらためて問い直し、その中で、どうすれば障害のある人の叫びに誠実に応じることができるのか、どうすれば障害のある人とない人が支え合い、ともに生きていくことができるのかを探ってみたいと思います。

一 障害の意味を考える

1 神の創造のわざの中で障害を受け止めましょう
  「障害」と一口にいっても、一人ひとりが持っている障害は多岐にわたります。肢体不自由、視覚や聴覚の障害、心臓や肺などの内部疾患による障害、ハンセン病や原爆被災による障害、精神や知的発達における障害、アルコールや薬物への依存による障害、また、外傷ややけどのあとが残っていたり、精神疾患にかかったことがあるという理由で差別される障害など、広い範囲に及びます。
  心身の機能的損傷としての障害には、多くの場合、身体的な痛みが伴い、思うように動けないもどかしさに苦しめられます。さらに、障害のない人を中心とした社会の中では、取り残され、無視され、じゃま者扱いされることも決して珍しくありません。心身の苦痛を担い、周囲から蔑視されて生きるのは重くつらいことです。
  そのような状況に対して、障害のある人たちの反応はさまざまです。自分の障害を認めようとしない人がいます。障害のために差別されることに耐えられず、自分の内にこもってしまう人もいれば、周囲に対して反抗的な態度をとる人もいます。その苦しみに耐えられず、「なぜ、優しい神がこのような障害を自分に、そして家族にお与えになったのだろう」と恨みのこもった不信の叫びを上げる人も確かに存在します。しかし中には、信仰の光によって自らの現実を受け止めようとする人もいます。
  わたしたちの信仰の光は、この世界のすべてが神の創造によるものであることを明らかにします。その光の中で見るならば、「障害のある世界も神のわざ」なのです。ある人は、「神は『障害のない世界』をおつくりになることができたはずでは……」と言うかもしれませんが、それは神の創造の神秘にかかわることであり、わたしたちの理解を超えることでもあります。

2 障害は悪い行いの結果ではありません
  障害をその人の罪と結びつけて説明することは、わたしたちの信仰に反します。ヨハネ福音書の中で、イエスはその過ちを明確に指摘しておられます。
  当時の指導者たちは、生まれつき目の不自由な人に向かって、「おまえは罪の中に生まれたのに……」(ヨハネ9・34)と決めつけています。弟子たちも、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(同9・2)とイエスに尋ねています。「神はこの世において善に報い、悪を罰するかたであり、病は罪の罰である」と考えられていたのです。これに対してイエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」(同9・3)と彼らの思い込みをはっきりと否定されました。
  わたしたちの社会にも、障害を持って生まれてくることを、前世の因縁、先祖のたたり、罪の結果だと思い込んでしまっている人がいます。しかし、福音書の世界は、そのような考え方とは無縁です。イエスは積極的に、「神のわざがこの人に現れるためである」(同9・3)と強調されました。どのような形で神のわざが現れるのか、イエスは具体的には説明されませんでしたが、たとえわたしたち人間には不可解であっても、すべてが神の愛の中の出来事であり、「神を愛する者たちには万事が益となる」(ローマ8・28)という信仰のもとに、障害を受け止めていくことができる人は幸いだと思います。

3 障害のある人とない人のコミュニケーションが大切です
  障害のある人とその家族や友人は、障害のある人がこの社会で人間らしく生きることがいかに困難であるかを痛感しています。障害のある人は、社会の中で他者とのかかわりやコミュニケーションに大きな困難を感じています。しかし、障害があるからといって、人間らしく生きることができないというわけではありません。障害のある人の多くが、その重荷を担いつつ、人間として豊かな人生を送っていることも確かです。障害は人間の尊さを奪ったり否定したりするものでは決してないからです。
  障害のある人は、障害のない人と同じように、神と人とのコミュニケーションに入ることを望んでいます。しかし、その方法が障害のない人と異なっている場合が少なくないのです。障害のない人はそのことを理解し、障害のある人の側に立ってコミュニケーションの方法を学んでいかなければなりません。障害のない人が障害のある人から学ぼうとしなければ、障害のある人のコミュニケーションの機会は奪われたままにされてしまうおそれがあるからです。だれでも、自分のコミュニケーションの方法だけを唯一絶対とする態度は改めなければなりません。
  どんなに重い障害があっても、神と人を愛していくことは可能です。聖書が明らかにするように、愛することこそ人間の営みの中でもっとも尊く、価値ある行為なのです。パウロがコリントの信徒にあてた手紙の中で「愛」について書いている箇所を思い起こしてください。「あなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言するたまものを持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(一コリント12・31~13・2)。パウロのこのことばは、機能の障害と損傷の重荷を負う人にとって希望のメッセージです。そして同時に、能力を中心にした現代社会の価値観、人生観に反省を促すものです。
  障害のある人がより人間らしく生きることができるようになるためには、社会が変革される必要があります。しかも、この変革は身近なところ、たとえば、それぞれの小教区や地域社会から始めなければなりません。
  「愛する」とは、神と人、人と人とのコミュニケーションです。しかし、それが真に可能となり、愛が実現されるようになるためには、障害のある人、ない人を問わず、一人ひとりが自己の生き方を変革する痛みを体験し、互いに必要な支えとなり、連帯を実践することが求められるということを、ここであらためて強調したいと思います。

4 能力中心の価値観だけの社会はゆがんでいます
  「素早く、無駄なく、最大の利益を求める社会」にあっては、仕事をする能力のある者が優先されます。社会の発展向上のため、その意義は認めざるを得ませんが、障害のない人中心の社会を当然と考え、効率的な発展に貢献できない人を差別し、社会の片隅に追いやってしまうならば、それは根本的な過ちを抱えた社会だといえるでしょう。現に、今の社会の中では、障害のない人の人間性も疎外されています。企業の歯車となり、厳しい競争の中で緊張し、心身の慢性的な疲労に苦しめられているのです。
  こうした現代社会の行き詰まりを打破し、根本的な欠陥を改めていくためには価値観の転換が求められます。人間の根源的な価値は能力にではなく、人間としての尊厳、神の子としての尊厳にあるという価値観への転換が求められています。
  機能的な損傷があるために今の社会が期待するような能力を発揮できない状況の中で、人間として必死に生きようとチャレンジする人々の姿は、人間の真の素晴らしさを明らかにするものです。障害を持ちつつも積極的に生きる人々の姿勢は、人を疎外し人から疎外される競争社会を変革していく、希望の光そのものです。

5 障害のある人を軽視する社会と勇敢に対決しましょう
  イエスの周りには、病気の人、障害のある人、社会から疎外された人がつねに集まっていました。イエスは、その人々の視点に立って、考え、判断し、行動されました。愛の実践によって、当時の人々の考え方を是正し、社会の構造を改革するために尽くされたのです。
  安息日にもかかわらず、イエスは病人をいやされました。それは当時の社会に波紋を巻き起こし、そのため、イエスは指導者たちから疎んじられ、警戒され、最後には十字架の上で殺されてしまいました。福音書に語られているいやしの奇跡は、障害のある人や貧しい人に対する、神のいのちをかけた愛の何よりのあかしです。
  現代社会や教会共同体に求められているのは、このようなイエスの生き方です。障害があっても積極的に生きようとすれば、また、障害のある人とともに誠実に歩もうとすれば、障害のない人中心の社会と対立することになります。しかし、障害のある人を軽視する社会と対決することを恐れてはなりません。なぜならそれは、わたしたちの師であるイエス・キリストが歩まれた道なのですから。

6 ありのままの人生を受け入れ、共感と共有を求めて分かち合いましょう
  イエスが障害のある人や病む人と同じ立場に身を置かれたという事実に注目したいと思います。
  「おまえたちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。……わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・35-40)。
  イエス・キリストは、苦しむ人の人生をご自分の人生とされました。自らの生き方をかけて、障害のある人の人生にかかわっていかれたのです。恵まれた境遇、余裕ある生活の中から、障害のある人を奉仕の対象と見なして手を差し伸べられたのでは決してなかったことを忘れてはなりません。
  「障害がある」といっても、一人ひとりの体験は違います。障害のことが分からないのは、障害のない人だけではありません。たとえば、視覚障害がある人には内部疾患の障害のことがあまり分からず、肢体不自由の人には聴覚障害のことがよく分からないということもあるのです。視覚障害といっても、全盲と弱視とは違い、幼い時に視力を失った場合と中途失明とでは異なります。
  「ともに歩もう」「ともに生きよう」と声をかけるだけで、互いに分かち合わないとしたら、何をどうすればよいのかが分からず、ともに歩んだり、ともに生きることは到底できません。ですからまず、それぞれのありのままの人生を受け入れ、共感と共有を求めて分かち合う必要があるのです。その際、キリストの生き方を模範として、さまざまな障害のある人々の人生の喜びや悲しみにまで深くかかわろうとする誠実な姿勢が求められていることを忘れてはならないと思います。

7 キリストの苦しみにあずかって新しい道を歩みましょう
  神がひとり子イエスを与えてくださったのは、わたしたちが滅びることを望まれなかったからです。イエスは、神の計画に徹底して従い、罪に打ち勝たれました。そして復活し、死にも打ち勝たれたのです。すべての人が「永遠のいのちを得るため」に、イエスは身代わりとして自ら苦しみを引き受け、わたしたちのいのちを救われました。このイエスの苦しみこそ、救いのための苦しみだったのです。
  イエスは、裏切られ孤独の中で十字架にかけられることによって、苦しみを徹底して味わわれました。このキリストの受難によって、苦しみはまったく新しい次元に入り、愛と結びつけられるようになりました。すべての人を救われたキリストの苦しみに参加するようにと、一人ひとりが招かれています。すべての人は、自分の苦しみにおいて、わたしたちを救ってくださったキリストの苦しみにあずかる者となることができるのです。キリストの十字架のおかげで、苦しみは神の国に入る準備となることが明らかになりました。自分の苦しみを通してキリストの苦しみにあずかる者は、キリストの栄光にあずかることができるのです。「キリストはわれわれのために苦しみを受けることによって、われわれがその跡を踏むよう模範を示されたばかりでなく、新しい道を開かれた。われわれがこの道に従うならば、生と死は聖なるものとなり、新しい意味を持つのである」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』22)。

二 教会のあり方を見直す

1 障害のある人に対する姿勢を反省しましょう
  少数者を排除することに象徴される日本の精神的風土と現代社会の価値観が、無自覚、無批判のうちにカトリック教会の中にも持ち込まれています。
  障害のない人が中心となっている教会では、障害のある人を片隅に追いやっていることが決して少なくありません。追いやることがない場合でも、ゆとりのある者がかわいそうな人に手を差し伸べるというような安易な姿勢が見られます。
  第一回福音宣教推進全国会議(一九八七年)で、社会的弱者を大切にしようとの意志確認をしたにもかかわらず、残念なことに、日本のカトリック教会における障害のある人とのかかわりの意識は、全体的にはまだまだ低調です。教会内部の福音化をはかるために、これまでの教会のあり方を見直し、一人ひとりが自らを反省していかなければならないと思います。

2 障害のある人の視点に立って設備を見直しましょう
  物理的な条件の整備はまず不可欠の課題です。教会や教会の運営する団体、施設の建物は、どんな人でも手助けなしに自由に使うことができるようになっているでしょうか。一九九一年に発行された『ハンディキャップのある人びとを配慮した教会建築』(カトリック中央協議会発行)を参考に、ぜひ、それぞれの教会の建物や設備などを点検してください。
  設備だけではなく、障害のある人が典礼に参加できるように、介助したり誘導するなどの人的な条件が整備されなければならないのも、当然のことです。

3 機会の平等化を心がけましょう
  コミュニケーションの手段は準備されているでしょうか。日本カトリック司教団は一九九〇年に『手話によるミサ式次第』(カトリック中央協議会発行)を認可しています。各教会で手話通訳者の研修の場を設け、通訳者の数を増やす努力をしましょう。カトリック点字図書館からは、『聖書と典礼』や聖歌集をはじめとする点字の出版物が発行されています。これらを常備し、活用しましょう。

4 一人ひとりの尊厳を大切にし、対等にかかわりましょう
  設備や備品を整えるだけではなく、神の前にすべての人が平等で尊いものであるという信仰理解に立って、さまざまな障害のある人々に対する態度を見直しましょう。障害のある人の意思を無視するようなボランティア活動が行われたり、奉仕の名のもとに障害のある人の尊厳を傷つけるような言動も時々見られます。「大変ですね」とか「頑張ってください」などといった激励のことばでも、重荷をともに担っていきたいという願いが伴っていないならば、かえって、「障害を負わされたかわいそうな人に対する同情」を表現することばとなってしまうこともあります。
  どのような重い障害のある人に対しても、かわいそうな存在としてではなく、神の子の尊厳を持った人としてかかわるようにしましょう。そのためには、それぞれのありのままの人生を受け入れ、喜びや悲しみを共有することを願いながら向かい合う姿勢が大切です。

三 社会に対して呼びかける

 第二バチカン公会議は、「私的、公的な諸制度が人間の尊厳と目的とに奉仕し、同時にあらゆる種類の社会的、政治的奴隷状態に対して力強く闘い、あらゆる政治形態のもとにおいて基本的人権を保障するものとなることが望ましい」(『現代世界憲章』29)と訴えています。このように発言する現代の教会の姿勢を学びつつ、障害のある人が生き生きと生活することができる社会を確立するために、自覚を持って行動していきましょう。

1 障害のある人とともに社会に向かって叫びましょう
  日本では長い間、障害のある人の人権が侵害されてきました。しかし二十数年前から、障害のある人たちが積極的に立ち上がって、自分たちの権利を自ら主張し始めました。さまざまな障害のある人々の団体が、自分たちの権利を守るために平等な教育、労働、居住環境、交通手段などを求めて闘い始めました。神の義を求めるわたしたちも、この人たちの叫びに合わせて声を上げましょう。そうすることによって、社会の変革を促す声は大きくなります。この点でとくに、カトリック障害者連絡協議会の皆さんの活動に大きな期待が寄せられています。

2 教育の場での配慮を大切にしましょう
  障害のある人が十人に一人はいる現代社会において、障害のないこどもだけを集めて教育すれば、人間観がゆがんでしまうという認識をしっかりと持つ必要があります。障害のあるこどもとないこどもが、小さいときから親しく交わって育つことは、障害のない大人が障害のある人に対して持っているまちがった考えを正し、差別をなくすために役立つことでしょう。統合教育の体験は、どんな説教よりも、神の愛や隣人愛を伝えるために効果のあることだと思われます。
  点字での入学試験、教材の整備や建築上の障壁のない環境、教職員の協力態勢が用意されれば、障害のあるこどももともに学ぶことができます。生活の全分野における統合された環境の提供は、社会正義達成の第一歩でもあります。カトリックの幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学は、統合教育のよいモデルとなるべきです。

3 障害のある人の雇用を促進しましょう
  国連は、障害のある人が社会の一員であるためには「機会の平等化」が必要であると訴えてきています。それを阻んでいるのは、環境の整備を怠っているわたしたちの社会です。平等な機会を保障していない社会は、障害のある人を差別しています。障害のある人を慈善の対象にしてしまうことも差別です。画一化を求め効率を重視する今日の日本の社会は、障害のある人を排除しようともしています。物理的、精神的な障壁が、障害のある人の雇用の機会を狭めています。
  障害のある人の多くは、年金に頼るのではなく、収入を得て税金を払う経済的にも自立した暮らしを望んでいます。しかし、働く場がありません。カトリックの事業体、そしてキリスト者が経営に携わるところでは、障害のある人を率先して雇ってくださるようにお願いいたします。

4 障害のある人が尊重される共同体づくりを進めましょう
  さまざまな障害のある人々の暮らしに誠実に深くかかわっていくことが、今求められています。障害を負ったり、年を取ったりしたために一人で生活できなくなった人に対して、福祉施設に入ることを安易に勧めないでください。いろいろな人とつきあいながら長年暮らしてきた地域社会と別れるのは、本人にとって大変つらいことです。生活が管理される施設の中では、人間としての尊厳が否定されることにもなりかねません。現在、施設に入所している人に対しては、人間としての尊厳と権利が認められた生活を送ることができるようになるために、規則の検討、居住環境の整備、居住者の自治会の育成など、改善すべきことがいろいろあるはずです。対等な人間として障害のある人に接する態度も、ぜひ徹底していただきたいものです。
  数年前から、知的な障害のある人たちが施設を出て、地域で、数人のグループホームを作り始めています。教会の運営する施設も、グループホーム作り、自立生活の勧めと援助、緊急一時保護の受け入れなどの試みを通して、開放された真の共同体となることを願っています。

四 障害のある兄弟姉妹の皆さんへ

1 皆さんの声を聞かせてください
  教会は今、障害のある人をはじめとする、社会的に弱い立場に置かれている人を中心にした愛の共同体の確立が、教会共同体にとっても、社会にとっても、重要なことであるという自覚を新たにしています。
  なぜ障害のある人に働く機会がなく、日常生活で不便が多く、基本的人権が守られていないのでしょうか。これらの原因を的確に指摘できるのは、障害のある皆さん自身です。どうか、皆さんが日々背負い、感じておられることを、声を大にして叫んでください。それは荒れ野に叫ぶ者の声のように、ある人にはつまずきとなり、またある人には無視されるかもしれません。しかし、皆さんの声は善意ある人の心を揺さぶり、愛による共同体への歩みに招くものともなります。
  今、あらためて、さまざまな障害のある皆さんにお願いいたします。皆さんの存在、その経験と知恵を、行き詰まっている現代社会を愛に満ちた共同体に変革するための原動力として提供してください。

2 障害を信仰の光の中で受け取ってください
  わたしたちには、障害のある人が抱えているさまざまな問題を十分に理解することはできないでしょうし、さまざまな苦しみを和らげる力もありません。それができるかたは唯一、神だけです。
  もっとも恵みに満ちたかたである聖母でさえ、十字架につけられたわが子を目の前に見るという大きな試練を経験されています。マリアはそれを、「おことばどおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)という信仰の力で受け取られました。さまざまな形で苦しみを背負わなければならないわたしたちにとって、根源的な光と力になるものは信仰であるということを、最後にここで強調したいと思います。

終わりに
  日本カトリック司教団は、一九八〇年十二月八日に、国連の「国際障害者年」を迎えるにあたってアピールを出しました。その中で、障害のない人中心の社会は正常ではないという国連の考えに賛成し、これを強調しました。
  今回、わたしたちは、障害のある人を中心にした視点に立って、人間の生きる意味をあらためて考え、教会や社会のあり方をよりよいものにすることを願って、この文書をまとめました。さまざまな障害のある人々とともに、さまざまな障害のある人々に真剣にそして誠実にかかわろうとする努力が、日本の社会の善意あるすべての人の良心にこだましていくならば、これに勝る喜びはありません。

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