1990年 アド・リミナ 教皇メッセージ

教皇ヨハネ・パウロ二世が、アド・リミナのためローマを訪問した日本カトリック司教団に対して与えられたメーセージ(1990年3月3日)。

「より人間らしい社会の建設を」

キリストの体としての成長
1. 愛する兄弟である日本の司教様方、  『アド・リミナ』訪問に際して、皆さんをローマに歓迎することは、わたくしにと って大きな喜びです。皆さんを通して愛するすべての日本のカトリック信者にあいさつをおくります。牧者として皆さんの国を訪問しましたとき、わたくしは、日本の教会の信者の皆さんが信仰深く、また献身的であることをはっきりと知りました。

 わたくしは、すべての諸教会に気を配るように(IIコリント11:28 参照)特別に託された兄弟である司教として「日本の教会の信者が、キリストにより、体全体はあらゆる節々が補い合うことによって、しっかり組み合わさり、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられて、あらゆる面で頭であるキリストに向かって成長するように」(エフェソ4:15-16 )皆さんと共に祈ります。 この『エフェソの信徒への手紙』のことばは、皆さんの、ローマ訪問の意義をより深く 考えさせるよう助けてくれます。ローマの教会の二つの柱、聖ペトロと聖パウロの墓で祈り、そして、ペトロの後継者に会うことによって、皆さんは「組み合わされ、結び合わされている」キリストの体のうちにある一致を証しするのです。皆さんのローマへの旅は、キリストのひとつの教会の普遍性を表し、また、皆さんを他のすべての地方教会とのより深い交わりにも招くのです。さらに、『アド・リミナ』訪問は、教皇とその普遍的奉仕職を助けている人々と共に、日本の教会の種々の体験や洞察、また挑戦をも分かつ機会でもあります。教皇に対する皆さんの愛情、教会の教義と規律を支持しつつ教皇と一致すること、また彼の協力者たちとの快い協力を通して、教会の普遍的な交わりが具体的に表現され、強められます。

宣教の使命とNICEの意義
2. キリストの体の成長および建設について語ることは、神の民の地上の巡礼の前進について語ることになります。それは、「すべての民を弟子にし、彼らに、父と子の聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教え」(マタイ28:19-20)るようにと教会が復活された主から受けた任務について語ることです。第二ヴァチカン公会議が教えてきたように「旅する教会はその本性上、宣教することを使命とする」(『教会の宣教活動に関する教令』2)のです。したがって福音宣教の務めは、常に教会の「恵み、召命、そして教会の最も深いアイデンティティ」としてとどまります。(『エヴァンジェリィ・ヌンチアンディ』14参照)。実に、わたくしの先任者パウロ六世教皇のことばを借りて「教会はまさに福音をのべつたえるために存在している」(同書14参照)と言えます。

 このようなわけで、わたくしは、日本の教会への大きな賜物であった、1987年11月に京都で開催された『福音宣教推進全国会議』のために、皆さんと共に神に感謝をささげます。

 このすぐれて教会的である出来事はすべての聖職者、修道者および、信徒による真剣な準備によって用意され、信徒たちは自分たちが属している社会の中の福音宣教者であるという召命を持っている、ということについての反省を促す前例のない機会を信徒たちにもたらしたのです。大会は公会議の教えに従って、「信者は皆、神の救いの計画が万国万代のあらゆる人にますますよく到達するように働くべき輝かしい義務を負っている」(『教会憲章』33)ということを認めました。全教会は「救いの普遍的秘跡として」(『教会憲章』48)「人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命を持っている」(『現代世界憲章』40)のです。

 イエス・キリストにおける救いのよきおとずれを告げしらせるようにという神の呼びかけに対する意識はますます深められています。その意識は日本の教会の生活のあらゆる局面に浸透していかなければなりません。たとえ皆さんの地方教会は小さな少数者集団(マイノリティ)にすぎないとしても、その教会はキリストの光をなお明るく輝かせるように努め、非キリスト者がこの光をみとめ、それを受け入れ、そしてそれによって彼らが信仰と洗礼を通して生まれ変わるように助けなければなりません。信者はだれひとり、キリストの愛をすべての人々に知らせる務めから免除されてはなりません。なぜなら、もし、聖パウロと共に「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」(IIコリント5:14)ということが出来るなら、わたしたちはまた彼と同じように「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(IIコリント9:16)と同じく付け加えなければなりません。公会議の『宣教活動に関する教令』が想起させてくれるように、「キリスト教徒が、ある国民の中に存在し、また組織されているだけではじゅうぶんではない。また模範による使徒職活動を行うだけでもじゅうぶんでない。彼らは、キリスト教徒でない自国民に、ことばと行いとをもってキリストを告げ知らせ、自国民がキリストを完全に受け入れるように手助けをする」(15番)のです。

信仰と福音への忠実
3. 『福音宣教推進全国会議』の希望のひとつは、信者たちが、自分たちの牧者と一致して、福音の光の下で、いくつかの日本の社会問題を自分たちの問題として受け止め、それにこたえることができるよう、聖霊に照らされて「時のしるし」を読み取るようになる、ということでした。これらの問題のいくつかは日本に固有のものです。他の諸問題、例えば環境汚染は、わたくしが今年の『世界平和の日』メッセージのおりに想起させましたように、至る所で人々を脅かしている問題である、ということができます。教会が人間の諸問題のために働く時、「教会は自分の受けた使命を逸脱していることになりません。とはいえ、教会は、この使命を果たすにあたって、この世の秩序への心遣いに夢中になったり、あるいは、そんな心遣いだけに終わってしまわないように気をつけます。そのために教会は、細心の注意を払って、福音化と進歩との間の一致と区別すべき点とを明確にしておこうとします。両者間に一致する点があるというのは、教会も全人的な善を求めるからです。区別する点があるというのは、福音化の課題と進歩の課題はそれぞれ異なる形で教会の使命の中に位置づけられているからです」(教皇庁教理省『自由の自覚』64番)日本の教会が直面している社会問題の中で、特に取り上げるべきものは、経済的理由で都市に移住した多くの人々、若者の問題です。彼らは新しい環境に受け入れられ、新しい環境に帰属する特別な必要性を感じています。教会は、これらの人々への援助に努めることにより、自分の精神生活の根源から切り離される危険にさらされている者たちとの深い連帯性を示す機会を持つのです。同時に教会は、すべて迷っている人々、また助けを必要としている人々に対する、あの善き牧者の寛大な愛を現存させることが出来るのです。教区内の諸小教区やカトリックの諸団体は、キリスト者らしく喜んで彼らを迎えることによって、隣人に対する主の愛の掟を果たし、またその人々をイエスへ導く関係を築き上げることができるのです。このようにして、あらゆる賜物のうちの最大のものである信仰そのものへと、彼らを開かせるように招くことになります。

 また同じように日本に滞在している外国人労働者の大部分はカトリック信者であり、その存在はわたしたちにとって果たすべき課題となっています。皆さんの部分教会が、これらの兄弟・姉妹のために行っている努力は、単に彼らの物質的善の保証を志すものだけではなく、同時に、逆境の中にあって大いに必要とされている霊的な援助を提供しながら、彼らを信仰のうちに強めることも追求するものです。  教会と社会の生活にとって極めて重大なもう一つの分野は、結婚と家庭生活です。他の所と同じように、日本においても結婚の安定性と豊饒性は、離婚と人工避妊によって脅かされいます。非カトリック者と結婚する信者たちは、度々、深刻な試練に直面します。そして信仰を守りつづけることが難しいと感じます。

 皆さんは、自分の民が、根がないために、「しばらくは信じても試練に遭うと身を引いてしまう」(ルカ8:13)ことのないように彼らのキリスト教的生活を堅固にすることによって、牧者としての聖なる任務を果たすのです。

 「時のしるし」の識別は、教会が人々および彼らの問題に気を配るだけではなく、また教会が福音に対して忠実であることをも要求します。「よき便り」は、私たちをも含めて、あらゆる時代と場所の人々を回心と信仰に心を入れ変えること、また、十字架に付けられ復活されたキリストにおいて完全に成就された神の救いの計画に一致した新しい考え方や行動を呼びかけます。

養成の課題とその中心
4. 日本の信者によって実行される福音宣教の使命は、主として彼らが受ける養成如何に依存しています。皆さんは司教として、司祭たちに助けられ、教師という重要な役割を遂行しています。聖職者は、生涯にわたって、祈り、反省、勉学に身をゆだねることにより、大きな司牧上の分別と愛徳を育成していかなければなりません。そうすることによって、今度は聖職者の方から信徒たちに、より徹底したキリスト教的養成を伝えることができるのです。ご承知のように、今日の司祭職の正真正銘の刷新のために極めて重大である司祭の研修および生涯教育の問題は次回のシノドス(世界代表司教会議)の課題になっています。また、生涯養成は日本で長い間、重要な役割を演じてきた男女修道者にとっても大切です。わたくしは、司祭職及び修道生活への召命が増加した教区の司教様方と共に大いに喜んでいます。また、わたくしは、特に召命が不足している所のために、刈り入れの主に、一層召命をふやしてくださるよう皆さんと共に祈ります。

 皆さんは信徒の霊的成長に備えようとして、日本カトリック研修センターを設立しました。もし養成が福音宣教の分野において実りをもたらすものであるならば、単にそれが一般教育の水準に適合したものであるだけでなく、霊的に深いものでなければなりません。この養成は人々の思いと心に触れ、良心を刺激するものであり、また、人々に、神がお呼びになった人生の立場において努力して生きるよう全力を尽くすことを教えるものであるべきです。キリスト者は、自分の信仰と日常生活との間に切り離すことの出来ないきずながあると気づき始めた時、彼らは世界を内から変容させる聖霊の力強い道具になります。信仰の絶対的要請が、典礼や個人的な祈りにおける神との交わりを通して真に内面化されるならば、それを生活に適応させることが個人の責任であるということが明らかに理解されます。『エヴァンジェリィ・ヌンチアンディ』の言葉を用いると、「私たちの福音化の熱意は聖なる生活から湧き出てくるべきです。そして、第二ヴァチカン公会議が提言しているように、『宣教者は、宣教することによって聖性に到達しなければなりません。そして、聖性は、祈り、特にご聖体への愛によって養われるのです』(76番)。

社会における信徒の現存
5. 養成の目的は、すべての受洗者を教会の生活と使命に与かる者にすることにあります。『教会の宣教活動に関する教令』がいっているように「位階制度(ヒエラルキア)とともに、真の意味の信徒団(ライカートス)が存在して活動するのでなければ、教会は真に建設されたのではなく、じゅうぶんに生きていない。また、人々の間におけるキリストの全きしるしでもない。確かに、福音は、行動的な信徒が存在しなければ、ある国民の天性(メソタリティ)や生活、また、その働きの中に深く浸透することはできない」(21番)。

 この行動的なかかわり合いは、養成の過程自体と共に始まります。その際、信徒のカテキスタは、はかりしれないほど大切な役割を演じることができます。そこで、わたくしは、カテキスタが日本の教会で福音宣教者として貢献することができるため、カテキスタを補充し訓練することを司牧上の優先課題にすることを、皆さんに勧めます。  カトリック信徒の教会へのかかわりにおいて、常に不可欠な中心(センター)である小教区が刷新されなければならないことはもちろんのことですが、さらに、いろいろな団体、運動の設立と強化をも奨励すべきです。というのは、それらは信徒の養成と使徒的熱意のために効果的な経路(チャンネル)であることが度々証明されているからです。 わたくしは、また、カトリック教育に携わっておられる多くの信徒の方々にも一言申し 上げます。この方々には特別な感謝と励ましをお送りしたいと思います。  この方々が、自分たちの働きを教会の使命である福音宣教の中心的な部分として認識していることは、大切なことです。日本各地で大変高い評価を得ている数多くのカトリック学校や大学は、福音を証しする力強い手段になることができます。もちろん、それは、そこに学びに来る、カトリックの信仰を持たない多くの学生たちに、カトリックの信仰を押しつけるというようなことを意味しません。それは、学生たちの良心に、はっきりと直接的に、しかし、強制や不当な押しつけなしに、福音の真理と、キリストにおける救いを示していくということです」(『エヴァンジェリィ・ヌンチアンディ』80参照)。

 公会議が述べている信徒の「行動的現存」は、多くの他の形をも持っています。前に言及しましたように、これはよい模範、言葉と行いとをもってキリストを明白に告げることを含みます(『宣教活動に関する教令』15参照)。しかし、更に、これ以上の何かをも要求しています。もし日本人のカトリック信者たちの信仰が自分の国の「天性(メンタリティ)や生活また働き」のうちに反映されるものであるなら、より人間らしい社会の建設において、彼らはカトリック者として、行動的な役割を引き受けることを恐れてはなりません。信仰と生活の間のつながりは、単に彼らの個人的な行いにあてはめられるだけではなく、市民活動、政治・経済についての決定、国民としての努力、そして国際的な努力の分野へ福音をもたらし、そこでその実を結ばせることを意味しています。彼らはキリストに従う者として、すべての人々の霊的・物理的善を守り促進することを望みます(『真の開発とは』47参照)。人間は神によって創造され、贖われました。その人間についての展望(ヴィジョン)は、社会についての教会の教説の中に非常に豊に繰り広げられています。そして、その教説は、日本の教会が、人間の持っている召命-地上での召命と地上を超越した召命-を守りながら福音化の奉仕の活動をするための霊感(インスピレーション)ばかりでなく基礎をも提供してくれます。

少数で多数を養う
6. 親愛なる兄弟の皆さん、わたくしは、日本は古い国であり、その歴史と文化は、教会が福音宣教の使命を遂行するためには克服しなければならない固有の諸議題となっていることを知っています。わたくしはまた、膨大な人口のただ中にいる少数の日本のカトリック信者が、ともすれば、自分たちが達成できることについての熱意を低下させがちであることも知っています。

 最初の使徒たちのように、少数で多数を養うよう命じられた皆さんもまた、主に、次のようにたずねるかもしれません。  「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(ヨハネ6:9参照)。しかし、同じ福音は、自由に用いることのできる手段が乏しかったにもかかわらず、12人の男の一団である使徒たちは、彼らの中で働いた聖霊の力によって、漸次世界を変容させることができたことをわたしたちに教えています。  どうか皆さんが、日本の教会を建設するために忍耐と愛をもって奮闘するに際し、いつまでも「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励んでください。皆さんは主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、知っているはずです」(Iコリント15:58)。これがわたくしの切なる望みであり祈りです。 司教様方に心からなる私の使徒的祝福をお送りします。

1990年3月3日
教皇ヨハネ・パウロ二世

PAGE TOP