教皇ベネディクト十六世インタビュー 「ヨハネ・パウロ二世の思い出を語る」

以下に訳出したのは、2005年10月16日に放映された、ポーランド国営テレビ(TVP)による教皇ベネディクト十六世へのインタビューの全文です。今年7月、ポーランド議会は、クラクフのカロル・ヴォイティワ枢機卿が教皇として選 […]

以下に訳出したのは、2005年10月16日に放映された、ポーランド国営テレビ(TVP)による教皇ベネディクト十六世へのインタビューの全文です。今年7月、ポーランド議会は、クラクフのカロル・ヴォイティワ枢機卿が教皇として選出された10月16日を「教皇の日」として、国民の祝日と定めました。この放送は、この「教皇の日」に、ヨハネ・パウロ二世の教皇選出27周年を記念して行われたものです。インタビュアーを務めたのは、アンドレイ・マエフスキ神父でした。
 インタビューの中で、教皇ベネディクト十六世は、来年2006年6月にポーランドを訪問したいという希望を表明しました。また、自分の使命はヨハネ・パウロ二世の残した多くの文書を普及させることにあり、自分自身は多くの文書を発表するつもりがないとも打ち明けています。
  ちなみに、ベネディクト十六世は、今年10月に、教皇として最初の著作『神の革命』を刊行しました。これは、同年8月にケルンでのワールドユースデー世界大会出席のため、教皇として最初の国外司牧訪問を行った際の演説集です。また、CNSの10月21日付の報道によると、今年12月には最初の回勅を発布することが予定されているそうです。
 なお、ここに語られたベネディクト十六世のヨハネ・パウロ二世観は、10月16日の「お告げの祈り」の前に、教皇公邸書斎の窓から語られた、ベネディクト十六世のことばの中でも、簡略なかたちで繰り返されています。
 インタビューのテキストは、放映の当日、原文のイタリア語テキストとその英語・フランス語・ドイツ語・ポルトガル語・スペイン語訳がバチカン放送のホームページに掲載されました。同ホームページでは、実際のインタビューの模様の一部もビデオで見ることができます。翻訳の底本として、バチカン放送の掲載した英語訳を用い、合わせてイタリア語原文を参照しました。


 

(質問者) 教皇様。ポーランドで「教皇の日」が祝われるこの機会に、短いインタビューをすることをお許しいただき、感謝いたします。
 1978年10月16日、カロル・ヴォイティワ枢機卿は教皇になりました。ご存知のとおり、その日から26年以上にわたり、教皇ヨハネ・パウロ二世は、現在のあなたと同じように、聖ペトロの後継者として、司教・枢機卿たちとともに教会を指導しました。その枢機卿がたの中に教皇様もおられました。教皇様は、とりわけ教皇様の前任者であるヨハネ・パウロ二世から高い尊敬と評価を受けておいででした。ヨハネ・パウロ二世は、その著書『立て、行こう』の中で、教皇様について書いていますので、ここに引用させていただきます。「わたしはラッツィンガー枢機卿がいてくださり、助けてくださったことを神に感謝したいと思う。ラッツィンガー枢機卿は忠実な友である」。
 教皇様。教皇様はどのようにしてヨハネ・パウロ二世の友となられたのでしょうか。また、教皇様はいつカロル・ヴォイティワ枢機卿と初めて会われたのでしょうか。

(教皇ベネディクト十六世) わたしがヴォイティワ枢機卿に個人的にお目にかかったのは、1978年の二度のコンクラーベの前の会議と、コンクラーベのときです。もちろん、わたしはヴォイティワ枢機卿のことをその前から存じておりました。初めてヴォイティワ枢機卿のことを知ったのは、特に、1965年に行われたポーランド司教団とドイツ司教団の対話との関連においてでした。ドイツの枢機卿がたは、わたしに、クラクフの大司教が果たした大きな功績と貢献について、また、彼がいかにこの歴史的対話の中心となったかを語りました。わたしはまた、大学の同僚から、彼の哲学者また思想家としての評判を聞いていました。けれども、申し上げましたように、初めて個人的にお目にかかったのは、1978年のコンクラーベのときでした。わたしは初めから彼に好感を抱きましたし、有難いことに、彼もすぐにわたしを彼の友としてくださいました。わたしは、わたしにその資格がないにもかかわらず、彼がわたしを信頼してくださったことを有難く思いました。何よりもわたしは、彼が祈っているのを見たとき、彼が神の人であることがわかりました。神とともに、神のうちに生きている人――これが、わたしがヴォイティワ枢機卿について最初に抱いた印象です。わたしはまた、彼がわたしと本心から腹蔵なくお付き合いくださったことに感激しました。二度のコンクラーベ前の枢機卿会議のさまざまな機会に彼は発言し、そこでわたしは彼の思想家としてのすぐれた能力を知る機会を得ました。彼は大げさなことばを使わないで、心からわたしの友人となってくださいました。また、教皇に選出されるとすぐに、何度もわたしをローマに招いて懇談し、ついにわたしを教理省長官に任命したのです。

――すると、教理省長官への任命と、ローマへの招聘(しょうへい)は、突然行われたことではなかったのですね。

(教皇) わたしにはそれは辛いことでした。なぜなら、ミュンヘンの司教座聖堂で行われた荘厳な叙階式で、ミュンヘン司教になったとき、わたしは、この教区と結婚したかのような責務を感じていたからです。それほど、わたしはこの教区とのきずなを感じていました。いくつかの未解決の問題もありましたし、それらの問題を解決しないまま教区を離れたくありませんでした。わたしはこうしたことをすべて、率直に教皇とお話ししました。教皇はとても寛大にわたしの相談に応じてくださいました。教皇はわたしに考える時間をくださいました。そして、自分も考えたいとおっしゃいました。最終的に、教皇はわたしに、これが神のみ旨であることを確信させてくださいました。こうしてわたしは、この大きな責任を伴う招きを受け入れることができました。この責務はたやすいものではなく、また、わたしの能力を超えたものでした。けれども、わたしは教皇の父としての寛大な心と、聖霊の導きに信頼しながら、はいということができました。

――教理省でのお仕事は20年以上続いたわけですね。

(教皇) そうです。わたしが着任したのは1982年2月でした。そして、任務は2005年に教皇が亡くなるまで続いたのです。

――教皇様。ヨハネ・パウロ二世の教皇職の中で、もっとも重要な点は何だとお考えになりますか。

(教皇) わたしたちは、ヨハネ・パウロ二世の教皇職を二つの観点から考えることができます。一つは、「外に向かって」、すなわち世に対してです。もう一つは、「内に向かって」、すなわち教会に対してです。教皇は、世に対しては、演説、人格、存在、人を説得する能力を通じて、道徳的価値観に対し、また、世界の中での宗教の重要性に対して、人々の中に新しい感受性を創り出しました。それは、新たな時代を開くものでした。すなわち、宗教と、人間にとっての宗教的次元の必要性に対して、新たな感受性を生み出したのです。何よりも、ローマ司教の重要性が、きわめて大きなものとなりました。すべてのキリスト者が――彼らとわたしたちの間には違いが存在するにもかかわらず、また、彼らはペトロの後継者を認めていないにもかかわらず――、ローマ司教がキリスト教の代弁者であることを認めるようになりました。世界の中で、他のいかなる人も、国際的な次元で、このようなしかたでキリスト教を代表して語り、また、現代世界の中で、キリスト教に発言力と存在意義を与えることはできません。教皇はまた、キリスト信者でない人や他宗教の人にとっても、人間性の偉大な価値の代弁者となりました。教皇は、大宗教の間に対話の空気を作り出し、また、わたしたち皆が世界に対して共通の責任をもっていることを感じさせようと努めました。教皇はまた、暴力と宗教が相容れないものであること、そして、わたしたちが人類に対して共通の責任を担いながら、平和への道をともに探らなければならないことを強調しました。教会の状況に関して申し上げれば、まず、教皇は、どうすれば青年にキリストへの熱意を吹き込むことができるかを知っておられました。68年や70年代の若者たちのことを考えてみれば、これは新しい出来事でした。青年たちは、キリストと教会、また、受け入れにくい価値観に対して、熱い関心を抱くようになりました。教皇の人格とカリスマに助けられて、世界中の青年たちが神への、またキリストへの愛へと導かれました。教会の中では、教皇は、聖体に対する新たな愛を生み出しました。教皇が大きな愛をもって始めた聖体年は、今もまだ続いています。教皇は、神のいつくしみの大きさについての新たな意識を生み出しました。また教皇は、聖母への信心を深めました。このようにして教皇は、わたしたちが信仰を自分の血肉とし、同時にわたしたちが大きな影響を及ぼしうるものとなるようにと、わたしたちを導きました。もちろん、わたしたちは、教皇が、1989年の世界の大きな変革に重大な貢献をし、社会主義の崩壊をもたらしたことも忘れてはなりません。

――ヨハネ・パウロ二世と個人的に接し、また語ってこられた中で、教皇様のもっとも印象に残ったことは何でしょうか。おそらく今年のことになると思いますが、ヨハネ・パウロ二世と最後にお会いになったときのことをお聞かせください。

(教皇) 承知しました。ヨハネ・パウロ二世とは、その最期にあたって、二度、お目にかかりました。一回目は、ジェメッリ病院でお会いしました。たしか2月5日か6日のことです。二回目は、亡くなる前日に、教皇の自室でお目にかかりました。一回目にお会いしたとき、教皇は目に見えて苦しそうでしたが、意識は完全にはっきりしておられました。わたしは用事で教皇を訪ねなければなりませんでした。教皇の決裁をいただく必要があったのです。目に見えて苦しんでおられたにもかかわらず、教皇は、わたしが話すことに注意深く耳を傾けました。教皇は短いことばで決定を伝え、わたしを祝福しました。教皇はわたしにドイツ語で挨拶し、わたしを信頼していること、わたしたちが友人であることを確かめてくださいました。わたしは、教皇が苦しむ主と結ばれながら苦しみ、主とともに、主のために、苦しみに耐えておられるのを見て、とても心を動かされました。教皇はまた、落ち着いていて、完全な意識をもっておられました。二回目にお会いしたのは、亡くなる前の日でした。教皇は目に見えて大きな痛みを感じておられ、医師と友人に付き添われていました。それでも教皇の意識ははっきりしており、彼はわたしに祝福を与えました。教皇はそれほど話すことができませんでした。この苦しみのときに教皇が示した忍耐は、わたしに大きな教訓を与えてくれました。わたしは、自分が神のみ手の中にあることを、教皇がどれほど信じており、また、どれほど教皇が自分を神のみ旨に委ねていたかがわかりました。目に見えて痛みを感じているにもかかわらず、教皇は落ち着いておられました。教皇は、神の愛のみ手のうちにあったからです。

――教皇様。教皇様は演説の中で、ヨハネ・パウロ二世の姿をよく思い起こされます。また、教皇様は、ヨハネ・パウロ二世が偉大な教皇であり、敬愛すべき前任者であったといわれます。わたしたちは、教皇様が4月20日のミサで述べられたことばをいつも思い出します。そのことばは、まさにヨハネ・パウロ二世にささげられたものでした。教皇様のことばを引用させていただきます。「わたしはヨハネ・パウロ二世の力強い手がわたしを握っているかのように感じます。わたしはヨハネ・パウロ二世のまなざしを見、その語ることばを聞いているように思われます。それは、とりわけ、このときにあたって、わたしにこう語りかけています。『恐れるな』」。教皇様。最後に、教皇様ご自身に関することについてお伺いします。教皇様は、ヨハネ・パウロ二世がご自身とともにいることを今も感じておられますか。もしお感じであれば、それをどのようにお感じになっておられますか。

(教皇) もちろん、ヨハネ・パウロ二世がともにいてくださると今も感じています。まず、ご質問の前半でいわれたことについてお答えしたいと思います。教皇の遺産について、先ほどわたしは、教皇がわたしたちに残した多くの文書についてお話しするのを忘れておりました。教皇は、14の回勅をはじめ、多くの司牧的な書簡などを残しました。教会は、まだ、これらの豊かな遺産のすべてを消化していません。わたし自身の使命は、多くの新しい文書を発表することではなく、教皇の文書が消化されるように努力することです。なぜなら、これらの文書は豊かな宝であり、第二バチカン公会議の正しい解釈だからです。わたしたちは、教皇が公会議の人であったことを知っています。教皇は公会議の精神と文字とを自分のものとしていました。これらの著作を通して、教皇は、公会議が何をほんとうに望み、何を望んでいないかを理解できるように、わたしたちを助けてくれます。そのことが、わたしたちが真の意味で現代と未来の教会となるために助けとなるのです。さて、ご質問の後半についてお答えしたいと思います。教皇は、その著作を通じて、いつもわたしのそばにおられます。わたしは、彼が語ることばを聞き、彼が話す姿を見ています。それで、わたしは彼と対話し続けることができます。教皇は、その著作を通じて、常にわたしに語りかけています。わたしは、その多くの著作の起源も知っています。わたしはこれらの著作のいくつかについて、わたしたちが行った議論を思い出すことができます。こうしてわたしは、教皇と対話し続けることができます。わたしがこのように教皇を身近に感じるのは、ことばやテキストの上だけのことではありません。なぜなら、わたしは、テキストの中から、教皇自身が語りかける声を聞いているからです。主のもとに行った人は、姿を消すのではありません。主のもとに行った人は、いっそうわたしたちの近くに来ると、わたしは信じています。また、わたしは、教皇がわたしの近くにおり、わたしも主の近くにいると感じています。わたしは教皇の近くにいます。だから、こんどは教皇が、わたしが主に近づくのを助けてくれます。わたしは、祈りと、主に対する愛と、聖母に対する愛とを深めようと努めます。そして、自分を教皇の祈りに委ねます。このようにして、わたしたちはとこしえに対話を続け、新たなしかたで、またより深いしかたで、互いのそばにいることができるのです。

――教皇様。わたしたちは教皇様がポーランドを訪問されるのを待ち望んでいます。多くの人が、教皇様はいつポーランドに来られるのかときいています。

(教皇) はい、もし神が望まれるなら、また、もしわたしの予定がそのために可能となれば、ぜひともポーランドを訪ねたいと望んでいます。すでにわたしはジーヴィッシュ大司教と日程について話しました。6月がもっともよい時期だとのことでした。もちろん、これからさまざまな機関と、すべてのことについて準備しなければなりません。暫定的にしかいえませんが、神のみ旨であれば、おそらく来年の6月にポーランドに行くことができると思います。

――教皇様。テレビの視聴者を代表して、このインタビューにお答えくださったことを感謝いたします。

(教皇) あなたにも感謝いたします。

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