第40回「世界広報の日 (2006年5月21日)」教皇メッセージ

第40回「世界広報の日 (2006年5月21日)」教皇メッセージ コミュニケーション、交わり、協力のネットワークとしてのメディア 親愛なる兄弟姉妹の皆さん 1.第二バチカン公会議閉会40周年を記念しながら、第二バチカン公 […]

第40回「世界広報の日 (2006年5月21日)」教皇メッセージ
コミュニケーション、交わり、協力のネットワークとしてのメディア

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

06sc1.第二バチカン公会議閉会40周年を記念しながら、第二バチカン公会議『広報機関に関する教令』を思い起こすことができることを喜ばしく思います。『広報機関に関する教令』はとくに、メディアが人間社会全体に影響を及ぼす力をもっていることを認めています。メディアのもつこのような力は、全人類の益となるように用いる必要があります。そこで、わたしは、このわたしの最初の「世界広報の日」のメッセージにおいて、コミュニケーションと交わりと協力を促進するネットワークとしてのメディアについて、簡単に考察してみたいと思います。

 聖パウロは、エフェソの信徒への手紙の中で、人間が「神の本性にあずかる」(第二バチカン公会議『啓示憲章』2)ように招かれていることを、詳しく述べています。わたしたちは、キリストを通して一つの霊に結ばれて御父に近づくことができます。だから、わたしたちは、もはや外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、神の住まいである聖なる神殿へと成長していくのです(エフェソ2・18-22参照)。いのちの交わりが示すこの最高の描写は、わたしたちキリスト者としての生活のあらゆる面に関わっています。実に、キリストを通じて自らを伝えてくださった神に忠実に従うようにという招きは、神の力がわたしたちを貫き、さらにその力が人びとへと広がろうとしていることを認めるようにという招きです。こうして、神の愛は、真の意味で世界に広く認められた基準となることができるのです(教皇ベネディクト十六世「ワールド・ユース・デー・ケルン大会閉会ミサ説教〔2005年8月21日〕」参照)。

2.メディアの技術の進歩は、ある意味で時間と空間を超えて、どんなに遠く離れている人の間でも、瞬時に直接コミュニケーションを行うことを可能にしました。このような発展は、共通善への奉仕のための大きな力になるとともに、「伝統文化を保護し促進します」(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『急速な発展(2005年1月24日)』10)。けれども、わたしたち皆が知っているとおり、現代世界は決して完全なものではありません。瞬時に行われるコミュニケーションが、必ずしも社会の協力と交わりの建設につながっていないことを、わたしたちは日々思い知らされています。

 個人の良心を育成し、その思考形成を助けることは、決して中立的な立場で行うことのできる仕事ではありません。真の意味でのコミュニケーションは、理にかなった勇気と決断を必要とします。メディアに携わる人びとは、膨大な情報の重みに押しつぶされることも、一面的でその場しのぎの真理に満足することもないよう、決然とした態度をとる必要があります。真の意味でのコミュニケーションは、人間としての存在、また人格的、社会的存在としての人間の究極的な基盤と意味をなすものが何であるかについて探求し、伝えることを求めます(教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『信仰と理性(1998年9月14日)』5参照)。こうしてメディアは、あらゆる善と真理を述べ伝えるために建設的なしかたで役立つことができるのです。

3.今日のメディアが担う責任、すなわち、真理を広め、真理がもたらす平和を促進するという責任には、多くの課題が伴います。さまざまなマス・メディアは、情報や思想の交換を容易にし、集団同士の相互理解を促進していますが、そこには問題がないわけでもありません。メディアは、対話のための「偉大な円卓」を提供する一方で、いわば文化の画一化をもたらす傾向ももっています。文化の画一化は、創造的な才能を弱め、ものごとを全体的に考えるための注意を失わせ、文化的風習がもつ特異性や宗教的信仰がもつ独自性を軽視します。メディア産業が、共通善への責任感を失って、利己的になり、ひたすら利益だけを追求するとき、こうしたゆがみが生じます。

 ですからメディアは、出来事を正確に伝え、社会的な問題について十分な説明を行い、見解の相違を公平に示すように、つねに心がけなければなりません。結婚と家庭生活を守り支えなければならないことは、とくに重要です。なぜなら、そのことが、すべての文化と社会の基盤となるからです(第二バチカン公会議『信徒使徒職に関する教令』11参照)。マス・メディアと娯楽産業は、両親と協力しながら、子どもの育成という使命を助けることができます。それは、人間の生き方や愛の模範を示すことを通して行われます。子どもの育成は、困難ではあっても最高の喜びをもたらす使命です(『広報機関に関する教令』11参照)。その反対のことが行われるならば、それはわたしたちにとってどれほどの落胆と破壊的な結果をもたらすことでしょうか。とくに、青年たちが下品で誤った愛の表現に支配されるときに、わたしたちは心から嘆かずにいられるでしょうか。こうした愛の表現は、神がすべての人間の人格に与えた尊厳を失わせ、家庭の価値をないがしろにするからです。

4.社会の中で、メディアが建設的な役割を果たし、積極的に評価されるよう促すために、わたしは、わたしの敬愛すべき前任者である教皇ヨハネ・パウロ二世が述べた、共通善への奉仕のために必要な、三つの段階の重要性をあらためて指摘したいと思います。すなわち、教育と参加と対話です(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『急速な発展』11参照)。

 責任をもって批判的にメディアを利用するための教育は、人びとが賢明かつ適切にメディアを用いるうえでの助けとなります。とくに電子メディアは、何の抵抗もなく社会に新しいことばとイメージをもたらしました。こうした新しいことば遣いと映像が精神に及ぼす影響の大きさは、計り知れません。現代メディアは大衆文化を形成します。だからこそ、とくに青年を操作しようとするいかなる誘惑にも打ち勝たなければなりません。むしろ現代メディアは、教育し奉仕することに努めなければならないのです。このようにして、メディアは人間の人格にふさわしい市民社会の組織を破壊することなく、かえってこれを守るのです。

 マス・メディアへの参加は、すべての人にふさわしい方法で開かれているという、マス・メディアが本来もっている性格から生まれます。公共サービスであるマス・メディアには、協力と共同責任の精神が求められます。このような精神は、公的財源の使用に関する厳密な説明責任と、社会の信頼に応えた行動を伴います(教皇庁広報評議会『コミュニケーションにおける倫理(2000年6月4日)』20参照)。また、こうした目標を実現するための管理基準その他の基準ないし制度に従うことも必要です。

 最後に、文化交流や連帯の表明、平和の擁護を通じて行われる対話の促進のために、マス・メディアは大いに貢献する機会をもっています。こうした可能性を、マス・メディアは認め、また実現していかなければなりません。こうしてマス・メディアは、すべての人が待ち望む愛の文明を築くために、影響力のある優れた手段となるのです。

 この三つの段階を促進する真剣な努力に支えられながら、メディアが、コミュニケーションと交わりと協力のネットワークとして健全に成長していくことを、わたしは確信しています。こうして、メディアは、男も女も子どもも、人間の人格の尊厳をいっそう自覚し、いっそう責任ある存在となり、他の人に対して、とくに社会の中で最も助けを必要とする人、最も弱い人に対して、いっそう心を開くようになるための助けとなるでしょう(教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『人間のあがない主(1979年3月4日)』15、教皇庁広報評議会『コミュニケーションにおける倫理(2000年6月4日)』4参照)。

 終わりに、聖パウロの励ましのことばにあらためて耳を傾けたいと思います。キリストはわたしたちの平和であります。キリストにおいてわたしたちは一つです(エフェソ2・14参照)。御子を通して示された造り主の計画に従って、ともに敵意という隔ての壁を取り壊し、愛の交わりを築こうではありませんか。

2006年1月24日
聖フランシスコ・サレジオの記念日に
バチカンにて
教皇ベネディクト十六世

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