教皇ベネディクト十六世のエフェソ「聖母マリアの家」でのミサ説教

教皇ベネディクト十六世は、11月28日(火)から始まった4日間のトルコ司牧訪問の2日目の11月29日(水)正午から、エフェソの巡礼所の「聖母マリアの家(メイレム・アナ・エヴィ)」で、聖母マリアのミサをささげました。ミサに […]

教皇ベネディクト十六世は、11月28日(火)から始まった4日間のトルコ司牧訪問の2日目の11月29日(水)正午から、エフェソの巡礼所の「聖母マリアの家(メイレム・アナ・エヴィ)」で、聖母マリアのミサをささげました。ミサには現地のカトリック信者ほか約200名が参加しました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文はイタリア語)。
ミサでは福音としてヨハネによる福音書19章25-27節が朗読されました。
ミサが行われた巡礼所の「聖母マリアの家(メイレム・アナ・エヴィ)」は、エフェソ(エフェソス)から4キロの地にあります。マリアは福音書記者ヨハネとともにエフェソに住み、同地で逝去したと伝えられます。聖母マリアが住んでいた家とされる場所は19世紀末にラザリスト会(聖ビンセンシオの宣教会)の司祭によって発見されたものです。
2005年12月31日現在のトルコのカトリック信者数は32,000人で、トルコの総人口(7207万人)の0.04%にすぎません。説教の最後に言及された、アンドレア・サントロ司祭は、トルコ北東部の黒海沿岸の町トラブゾンの小教区で働いていましたが、2006年2月5日に教会内で祈っているときに殺されました。享年60歳でした。教皇は2006年2月8日の水曜一般謁見の中で、サントロ神父から受け取った手紙を紹介し、その死を悼みました。


 

親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 この感謝の祭儀の中で、わたしたちはマリアが神の母であることについて主をたたえます。マリアが神の母であるという神秘は、431年のエフェソ公会議で荘厳に告白され、宣言されました。キリスト教共同体が深く愛するこの地を、わたしの敬愛すべき先任者である神のしもべパウロ六世とヨハネ・パウロ二世も巡礼者として訪れました。ヨハネ・パウロ二世はこの巡礼所を、教皇職を開始してから1年あまりが過ぎた、1979年11月30日に訪れています。もう一人のわたしの先任者もこの地にいました。ただし教皇としてではなく、1935年1月から1944年12月まで教皇使節としてこの地にいた、福者ヨハネ二十三世、すなわちアンジェロ・ロンカリです。ヨハネ二十三世の記憶は今なお人びとの信心と敬愛を呼び起こしています。ヨハネ二十三世はトルコの人びとに深い尊重と感嘆の念を感じていました。ここにわたしはヨハネ二十三世の『魂の日記』に書かれたことばを引用したいと思います。「わたしはトルコ人を愛し、文明の道程において独自の場所を占めるこの国民の資質を高く評価する」(ヨハネ二十三世『魂の日記』小林珍雄訳、エンデルレ書店、1965年、339頁)。ヨハネ二十三世はまた、キリスト教的楽観主義という遺産を教会と世界に残しました。この楽観主義は、深い信仰と、神との絶えることのない一致に根ざしたものです。このヨハネ二十三世と同じ精神に導かれながら、わたしはトルコと、特にトルコのただ中で生きるキリストの「小さな群れ」に向かいます。それは、励ましのことばを述べ、全教会からの愛情を表明するためです。大きな愛をもって、ここにおられる皆様にごあいさつ申し上げます。イズミル、メルシン、イスケンデルン、アンタキアの信者の皆様。また、世界のさまざまなところから来られた皆様。そしてまた、この祭儀に参加することはできなかったものの、わたしたちと霊的に結ばれている皆様。特にイズミルのルッジェロ・フランチェシーニ大司教、イズミルの名誉大司教のジュゼッペ・ベルナルディーニ大司教、ルイジ・パドヴェーゼ司教、司祭と修道者の皆様にごあいさつ申し上げます。皆様がここにおいでくださったこと、この聖なる地で皆様があかしと教会への奉仕をしてくださっていることに感謝いたします。この地において、キリスト教共同体はその始まりから大きく成長しました。それはトルコに多くの巡礼者が訪れていることに示されています。
 
神の母-教会の母
 わたしたちは聖ヨハネによる福音書のことばを聞きました。それはわたしたちに、あがないの時を観想するように招いています。そのとき、マリアは、犠牲をささげる御子と一つになって、ご自分が母であることを、すべての人、特にイエスの弟子たちにまで広げました。この出来事をあかしする名誉を与えられたのは、第四福音書の著者であるヨハネでした。ヨハネは、イエスの母と他の婦人たちとともにゴルゴタにとどまった、ただ一人の使徒です。ナザレでの「おことば通り、この身に成りますように」(フィアット)で始まった、マリアが母であることは、十字架のもとで完成しました。たしかに、聖アンセルモが述べているように、「『おことば通り、この身に成りますように』(フィアット)と述べた瞬間から、マリアはその胎内にわたしたちすべてを宿し始めました」。しかし、キリストを信じる者たちに向けてのマリアの母としての召命と使命が実際に始まったのは、イエスが彼女に次のように述べたときでした。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(ヨハネ19・26)。母とそのそばにいる愛する弟子を十字架の上から見ながら、死を間近にしたイエスは、世に来てご自分が作ろうとした新しい家族の最初の実りを認めました。すなわちそれは、教会と新しい人類の始まりでした。だからこそイエスはマリアに「母よ」と呼びかけずに、「婦人よ」と呼びかけました。その代わりに、「母」ということばは、マリアを弟子に委ねるために用いられました。「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19・27)。こうして神の子はその使命を実現しました。神の子は、罪以外のわたしたち人間のすべての条件を共有するためにおとめから生まれ、父のもとに帰るときに、人類一致の秘跡を世に残しました(第二バチカン公会議『教会憲章』1参照)。それが「父と子と聖霊の一致において一つに結ばれた」(聖チプリアノ『主の祈りについて』23:Cyprianus, De oratione dominica, PL 4, 536〔吉田聖訳、『中世思想原典集成4 初期ラテン教父』平凡社、1999年、165頁〕)家族です。この家族の最初の核心が、この母と弟子の新しいきずなです。したがって、マリアが神の母であることと、マリアが教会の母であることとは、切り離すことのできないしかたで結ばれています。

神の母-一致の母
 第一朗読は、異邦人の使徒の「福音」ということのできるものを示しています。異邦人も含めたすべての人は、キリストに結ばれて、救いの神秘に完全にあずかるように招かれています。特にこの箇所は、今回のわたしの司牧訪問のテーマとして選んだことばを含んでいます。「キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソ2・14)。パウロは聖霊によって霊感を受けながら、わたしたちに語ります。イエス・キリストはわたしたちに平和をもたらしただけではありません。イエス・キリストこそがわたしたちの平和なのです。パウロはこのことばを、十字架の神秘について述べることによって裏づけます。イエスはご自分の「血」を流し、「ご自分の肉」を犠牲としてささげることによって、「ご自分において」敵意を滅ぼし、「双方をご自分において一人の新しい人に造り上げ」(エフェソ2・14-16)ました。パウロは、どのようにして、救い主の平和が、キリストご自身とその救いの神秘のうちに、今や真に予想できないしかたで実現しているかを説明します。囚われの身であるパウロはそのことを、ここエフェソに住むキリスト教共同体に手紙を書いて説明します。パウロが手紙のあいさつに書いている通りです。「エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ」(エフェソ1・1)。パウロは彼らに「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和」(エフェソ1・2)を願います。「恵み」は、人びとと世を造り変える力です。「平和」は、この変容がもたらす実りです。キリストは恵みです。キリストは平和です。パウロは自分が「神秘」を告げ知らせるために招かれたことを知っていました。この「神秘」とは、時が満ちて、キリストのうちに、初めて実現し、また示される神の計画です。すなわち、「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じからだに属する者、同じ約束にあずかる者となるということです」(エフェソ3・6)。この「神秘」は救いの歴史の中で、教会という新しい民によって実現しました。この教会の中で、古い隔ての壁は取り壊され、ユダヤ人と異邦人は一致します。教会はキリストと同じように、一致の道具であるだけでなく、一致を効果的に実現するしるしです。そして、キリストの母であり教会の母であるおとめマリアは、この一致の神秘の母です。キリストと教会は、この一致の神秘を、世において、歴史を通して、分かちがたいしかたで示し、築き上げるからです。

エルサレムと全世界のために平和を願う
 異邦人の使徒は、キリストが「二つのものを一つにした」(エフェソ2・14)といいます。このことばは、元の意味としては、永遠の救いの神秘におけるユダヤ人と異邦人の関係について述べています。しかしこのことばを、類比的な意味で、世界の諸民族と諸文化の間の関係に広げることも可能です。「キリストはおいでになり・・・・平和を告げ知らせられました」(エフェソ2・17)。この平和は、ユダヤ人とユダヤ人以外の人の間の平和だけでなく、すべての民族の間の平和です。なぜなら、すべての人は、同じ神、すなわち世界の唯一の造り主であり主であるかたから生まれたからです。ここエフェソで、至聖なるマリアがおられたことによって祝福されたこの町で――わたしたちはマリアがイスラームの人びとからも愛され、敬われていることを知っています――、神のことばによって力づけられながら、諸民族の間の平和のために主に特別な祈りをささげたいと思います。二つの大陸の間の自然の架け橋であるアナトリア半島の端にあるこの地から、平和と和解を祈り求めたいと思います。何よりもまず、「聖」地と呼ばれる地に住む人びとのために。この地を、キリスト教徒も、ユダヤ教徒も、イスラーム教徒も、同じように聖なる地と考えています。それはアブラハム、イサク、ヤコブの地であり、すべての民族のための祝福となる民が住むよう定められたところです(創世記12・1-3参照)。全人類に平和がありますように。イザヤの預言がすぐに実現しますように。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ2・4)。わたしたちは皆、このような世界の平和を必要としています。教会はこの平和を預言者として告げるだけでなく、この平和の「しるしであり道具」となるよう招かれています。まさにこのように世界に平和をもたらすための背景として、すべてのキリスト者の間の完全な交わりと一致がいっそう深くかつ切実に求められています。今日の感謝の祭儀にはさまざまな典礼のカトリック信者が参加しておられます。このゆえにわたしたちは喜び、神をたたえます。実際、これらの諸典礼が一つにまとまって一致と交わりをあかしするなら、それはキリストの花嫁をたたえる驚くべき多様性の表現となります。そのために、司教協議会の裁治権者たちは一致して、司牧的努力の交わりと共有を通じて、模範とならなければなりません。

マリアの賛歌
 今日の典礼の中で、わたしたちは答唱詩編の応唱として、ナザレのおとめが年老いた親戚のエリサベトを訪問した際に歌った賛歌(ルカ1・39参照)を繰り返して唱えました。わたしたちの心も詩編作者のことばによって慰められました。「いつくしみとまことは出会い、正義と平和は口づけします」(詩編85・11)。親愛なる兄弟姉妹の皆様。この訪問によって、わたしは、ここトルコのキリスト教共同体に対して、わたしからだけでなく、普遍教会からの愛と霊的な連帯とをお伝えしたいと思いました。この小さな少数派の共同体は、日々、多くの問題と困難に直面しておられます。揺るがぬ信頼をもって、マリアとともに、「マリアの賛歌」を歌おうではありませんか。「マリアの賛歌」は神への賛美と感謝の歌です。神は身分の低いはしためにも目を留めてくださるかただからです(ルカ1・48参照)。困難や危険によって試みられているときも、喜びをもって歌おうではありませんか。ローマの司祭アンドレア・サントロがすばらしいあかしをわたしたちに示してくれたようにです。わたしは、この感謝の祭儀の中でアンドレア・サントロ司祭のことを思い起こすことができるのをうれしく思います。マリアはわたしたちに、わたしたちの喜びの源と、わたしたちの唯一の堅固な支えはキリストであることを教えてくださいます。そしてマリアはキリストのことばを繰り返します。「恐れることはない」(マルコ6・50)。「わたしはあなたがたとともにいる」(マタイ28・20)。教会の母であるマリアよ。旅路を歩むわたしたちといつもともにいてください。神の母、聖マリアよ。わたしたちのためにお祈りください(Aziz Meryem Mesih’in Annesi bizim için Dua et)。アーメン。

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