教理に関する覚書―福音宣教のいくつかの側面について

教皇庁教理省 教理に関する覚書――福音宣教のいくつかの側面について 2007年12月14日(金)、教皇庁教理省は『教理に関する覚書――福音宣教のいくつかの側面について』を公布しました。以下はその全訳です。翻訳に際して、英 […]

教皇庁教理省
教理に関する覚書――福音宣教のいくつかの側面について
2007年12月14日(金)、教皇庁教理省は『教理に関する覚書――福音宣教のいくつかの側面について』を公布しました。以下はその全訳です。翻訳に際して、英語テキストを底本としながら、イタリア語テキストを逐次参照しました。
なお、教皇ベネディクト十六世は2007年12月19日(水)の一般謁見演説の中でこの文書を紹介し、続いて12月23日(日)の「お告げの祈り」のことばで、この文書の解説を行っていますので、合わせてご参照ください。
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一 序文

1 イエス・キリストは福音を告げ知らせるよう父から遣わされ、すべての民を回心と信仰へと招きました(マルコ1・14-15参照)。復活の後、キリストはご自身の福音宣教の使命を果たし続けることを使徒たちにゆだねました(マタイ28・19-20、マルコ16・15、ルカ24・4-7、使徒言行録1・3参照)。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20・21。同17・18参照)。実際、キリストは教会を通じて、歴史上のあらゆる時期、地上のあらゆる場所、そして社会のあらゆる領域に現存することを望みます。それは、すべての人のところに行き、すべての人を一人の羊飼いのもとで一つの群れとするためです(ヨハネ10・16参照)。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(マルコ16・15-16)。
 それゆえ使徒たちは「聖霊に促されて、すべての人がその生き方を変え、回心して洗礼を受けるようにと勧めました」(1)。なぜなら「旅する教会が救いのために必要である」(2)からです。主イエス・キリストご自身が、ご自分の教会の中にいて、福音宣教者のわざに先立ち、同伴し、従い、その労苦に実りをもたらします。初めに起きたことは、歴史の全行程を通じて継続します。
 3千年期の初めにあたり、ペトロとその兄弟アンデレ、また他の最初の弟子たちがイエスから聞いたことは、世界の中であらためて響き渡ります。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ5・4)(3)。不思議な大漁の後、主はペトロに、あなたは「人間をとる漁師」(ルカ5・10)になると告げます。

2 「福音宣教」ということばはきわめて豊かな意味をもっています(4)。広い意味では、それは教会の使命全体を要約します。実際、教会生活全体は、「福音の伝達(traditio Evangelii)」を遂行すること、すなわち福音を宣べ伝え、伝えることです。福音は「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(ローマ1・16)だからです。福音はまた、究極的な本質において、イエス・キリストご自身にほかなりません(一コリント1・24参照)。それゆえ、このように考えると、福音宣教は全人類に向けられています。いずれにせよ、「福音宣教を行うこと」は、ただ教理を教えるだけでなく、ことばと行いによってイエス・キリストを宣べ伝えることを意味します。すなわちそれは、世にあって自分をイエス・キリストの現存と働きの道具とすることです。
 「すべての人は、キリストにおいてご自分を現し、与えておられる、神の『よい知らせ』を聞く権利をもっています。神の『よい知らせ』を聞くことによって、一人ひとりは自分自身の召命を全うして生きることができるのです」(5)。この権利は主ご自身がすべての人に与えたものです。それは、すべての人が聖パウロとともに真の意味でこういうことができるようになるためです。イエス・キリストは「わたしを愛し、わたしのために身をささげられた」(ガラテヤ2・20)。この権利は福音宣教を行う務めと対応します。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(一コリント9・16。ローマ10・14参照)。そこから、教会のあらゆる活動は福音宣教を不可欠の要素としていること、そしてこの活動を、すべての人が信仰によってキリストと出会えるように助ける務めと切り離してはならないことは明らかです。この出会いこそが、福音宣教の主要な目的だからです。「社会問題と福音を切り離すことはできません。人々にただ知識、能力、技術力、道具を与えるだけなら、きわめてわずかのものしか与えることができません」(6)。

3 しかしながら、今日、ある混乱がますます強まっています。そこから、多くの人は、主が宣教を命じたことば(マタイ28・19参照)に耳を傾けることも、それを実践することもなくなっています。他の人に宗教的なことがらを信じさせようとすれば、彼らの自由を制限することになると主張されることがしばしばあります。こうした考え方に基づくならば、自分の思想を示し、人々を自らの良心に従って行動するように招くことだけが許されます。しかし、人々をキリストやカトリック信仰への回心に導いてはならないのです。そこで人々はいいます。人々がより人間らしくなり、自分の宗教をいっそう忠実に守るのを助けるだけで十分だ。正義、自由、平和、連帯をめざす共同体を築くだけで十分だと。さらに一部の人はいいます。キリストを知らない人にキリストを宣べ伝えてはならない。教会に入ることを促してもいけない。なぜなら、人はキリストをはっきりとしたしかたで知らなくても、また正式に教会の一員とならなくても救われるからだ。
 こうした問題を目の当たりにして、教理省はこの「覚書」を公布する必要があると判断しました。この文書の目的は、パウロ六世とヨハネ・パウロ二世の教えの中で詳しく述べられた、福音宣教に関する教会の教え全体を踏まえながら、主が宣教を命じたことと、すべての民族の良心と信教の自由を尊重することとの間の関係に関するいくつかの側面を解明することです。この問題は、人間的、教会的、またエキュメニカルな次元を含んでいます。

二 人間的な次元

4 「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17・3)。神は人間に知性と意志を与えました。それは、人間が自由に神を求め、知り、愛することができるためです。それゆえ人間の自由は、人間の造り主である神から人間に与えられた手段であり、また課題です。自由は、善と真理を知り、愛することができるために人間に与えられたものです。人間の自由において問われているのは、善と真理の探求にほかなりません。この探求は、人生の基本的な側面とかかわる取り組みへと人を招きます。このことがとくに問題となるのは、救いをもたらす真理の場合です。救いをもたらす真理は、たんなる考察の対象ではありません。それは、人が自らをキリストと結びつけることによって、知性、意志、感情、行動、将来の計画を含めた、全人格にかかわる出来事だからです。善と真理の探求において、聖霊は初めから働いています。聖霊は人間の心を開き、福音の真理を受け入れる準備をさせます。トマス・アクィナスが有名なことばで述べるとおりです。「すべて真なることは、誰によって語られようと、聖霊からである(omne verum a quocumque dicatur a Spiritu Sancto est)」(7)。それゆえこの聖霊の働きに目をとめることが重要です。聖霊は真理との親しみを造り出し、人の心を真理に引き寄せます。聖霊の助けによって人間の知識は成長し、知恵と、真理への信頼をこめた自己放棄へと導かれます(8)。
 しかしながら、それ自体において真理と考えられることを人に示す(それは人がその真理を受け入れるためです)ことが許されるかどうかについて、疑問が投げかけられることがますます多くなっています。これが人々の自由の侵害と考えられることもしばしばあります。真理との分かちがたい関係から切り離された、このような人間の自由についての見方は、相対主義の表れの一つです。「相対主義は、いかなるものも決定的だとみなさないために、『自己』とその好みだけを究極の基準とします。そして、この『自己』という基準は、うわべは自由のように見えながら、各人をとじこめる牢獄となります」(9)。現代思想に見られる不可知論や相対主義のさまざまな形態の中で、「命題の正当な多様性は、すべての意見はまったく等しい価値をもつという原理の上に立った、無差別な多元主義にその座を取って代わられました。これは、現代の状況にあって随所に認められる、真理への不信という広範にわたるしるしの一つです。東洋に由来する生についての諸概念も例外ではありません。この考え方によると、種々の異なった学説、さらには相互に矛盾する学説にも、同じように真理が示されるという前提のもとに、真理特有の性質が否定されるのです」(10)。人が真理に対する根本的な能力を否定し、何が真であるかを本当に知ることができるかどうかについて疑いを抱くようになれば、独自のしかたで知性を引きつけ、心をとらえるものを失うことになります。

5 このことに関連しますが、真理の探求において、自分の個人的な努力のみに頼り、他の人に助けてもらう必要性を認めないなら、その人は自らを欺くことになります。人間は「誕生のときから種々の伝統の中に組み込まれ、そこから言語や文化的教育を受け取るばかりでなく、いわば本能的に信じ込むような多くの真理をも受け取ります。・・・・しかし人生においては、単純に信じられた真理は、個人的検証によって得られた真理よりもむしろ多いくらいです」(11)。人は自分の属する文化から伝えられたり、他の人から得た知識に信頼しなければなりません。そこから人は、自分で得ることのできない真理や、次第に築かれる人との関係や社会的関係によって豊かにされます。これに対して、精神的個人主義は個人を孤立させ、人を信頼しながら心を開くことを妨げます(人に心を開くことによって、自らの自由を培う豊かな善を与えられ、また与えることができるのです)。そして、社会の中で自分の信念と見解を表明する権利を危うくします(12)。
 とりわけ、人生の意味を照らし、人生に方向づけを与えることのできる真理も、同じように、真理そのものの確実性と正当性を保障できる人を信頼のうちに受け入れることから獲得されます。「自分自身と自分の生涯とを他の人々にゆだねる能力と選択とは、人間学的にいっても、実にもっとも意味深長な行為の一つです」(13)。より深い次元で行われることだとはいえ、信仰によって行われる真理の受容も、真理の探求の動きの中に位置づけられます。「啓示する神に対しては『信仰による従順』(ローマ16・26.ローマ1・5、二コリント10・5-6参照)を示す必要がある。これによって、人間は『啓示する神に対して、知性と意志のまったき奉献』をなし、また神から与えられた啓示に自発的に同意して、自由に己れをまったく神にゆだねるのである」(14)。第二バチカン公会議は、各人が宗教に関することがらにおける真理を探求する権利と義務を確認した後、続けて次のように述べます。「真理は、人格の尊厳とその社会性とに固有の方法、すなわち、自由な探究、教導あるいは教育、伝達および対話の方法によって求められなければならない。このような方法によって、真理探求の面で互いに協力するため、自分が発見したか、あるいは発見したと思うことを他の者に説明する」(15)。いずれにせよ、真理は「真理そのものの力によらなければ義務を負わせない」(16)。それゆえ、誠実に人の知性と自由をキリストとその福音との出会いへと導くことは、不当な干渉ではありません。むしろそれは正当な行為であり、人間関係を実り豊かにするための奉仕です。

6 さらに福音宣教は、福音宣教の対象となる人を豊かにするだけではありません。それは福音宣教を行う人と教会全体をも豊かにします。たとえばインカルチュレーションをとおして、「普遍教会自身は・・・・キリスト教生活のいろいろな分野における価値によって豊かにされます。教会はキリストの秘義をよりよく理解し、表現できるようになり、継続した刷新をするように絶えず促されています」(17)。実際、教会は、聖霊降臨の日から、全世界に宣教を行うことを示しました。そのために教会は、人類の歴史におけるあらゆる時代、あらゆる場所の人々の数えきれない富をキリストのうちに受け入れてきました(18)。他の人や文化との出会いは皆、本来の人間的な価値を超えて、福音の可能性を示すことができます。それまで十分に明らかとなっていなかったこの可能性は、キリスト信者と教会の生活を豊かにします。こうした過程を通じて、「使徒たちから出る聖伝は、教会において聖霊の援助によって進歩する」(19)のです。
 実際、聖霊は聖なるおとめマリアの胎内でイエス・キリストが受肉したときに働いた後、諸文化の福音化を行うよう、母なる教会のわざを力づけます。福音はいかなる文化からも独立していますが、自らは従属させられることなく、諸文化にいのちを吹き込むことができます(20)。この意味で、聖霊も福音のインカルチュレーションの主な働き手です。聖霊は、キリストのうちに啓示された神のことばと、多くの人間・文化が発する深い問いかけの間で行われる対話を、実り豊かなしかたで導くからです。このようにして聖霊降臨の出来事は、歴史の中で、唯一の信仰の一致のうちに、多様な諸言語と諸文化によって豊かにされながら継続します。

7 宗教的に重要な出来事や真理を伝え、他の人々にそれを受け入れてもらうことは、対話、宣言、教育という人間行為と深く調和するだけではありません。それは、人間のもつもう一つの重要な要素に対応します。すなわち、自分のもっているものを人と分かち合いたいという、人間に固有の欲求です。信仰によって福音を受け入れた人は、それを伝えるよう促されます。人生を救う真理は、この真理を受け入れた人の心を隣人愛で燃え上がらせます。この隣人愛に促されて、その人は、自分が自由に与えられたものを進んで人に伝えます。
 キリスト信者でない人は、神が「ご自分だけご存じの道で」(21)与える恵みによって救われることができます。そうだとしても、教会は、このような人がこの世で偉大な善をもたずにいることを認めずにはいられません。すなわち、神のまことのみ顔を知り、わたしたちとともにおられる神であるイエス・キリストの友となることです。実際、「福音に驚きを感じること、キリストと出会うこと以上にすばらしいことはありません。キリストを知ること、わたしたちがキリストの友であることを、人に語ること以上にすばらしいことはありません」(22)。神と人間と世界に関する根本的な真理の啓示(23)は、すべての人にとって偉大な善です。これに対して、究極的な問いに関する真理を知らずに暗闇の中で生きることは悪です。それは、ときには悲惨なまでの苦しみと隷属の原因となることも少なくありません。だから聖パウロはためらうことなく述べたのです。キリスト教信仰への回心は、「闇の力から」救い出されることであり、「愛する御子の支配下に移して」いただくことだと。「わたしたちは、この御子によって、あがない、すなわち罪のゆるしを得ているのです」(コロサイ1・13-14)。それゆえ、真理であるキリストに完全に属する者となり、教会に加わることは、人間の自由を低めるものではありません。むしろそれは、人間の自由を高め、その完成である愛へと方向づけます。この愛は自由に与えられ、すべての人の善を気遣うまでに達します。御子のいのちを与えるからだとの交わりから流れ出る、世界中の神の友に抱かれて生きること、御子から確かな罪のゆるしをいただくこと、信仰から生まれる愛のうちに生きること――これはかけがえのないたまものです。教会はすべての人がこのたまものを共有することを望みます。それは、すべての人が完全な真理と完全な救いの手段を手にして、「神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかれる」(ローマ8・21)ためです。

8 福音宣教には、他の人の考えと感情を理解しようと努める誠実な対話も含まれます。実際、人は自由と愛と対話を通して、他の人の心に近づくことができます。そのためには、ただことばを発するだけでなく、相手の心の中で、真の意味で自分のことばをあかししなければなりません。そのために必要なのは、対話する相手の希望と苦しみと具体的な状況を考慮することです。このようにして初めて、善意の人々は進んで自分の心を開き、正直に自らの霊的・宗教的体験を分かち合ってくれるようになります。真の友愛の特徴である、このような分かち合いの経験は、キリスト教的なあかしと宣言を行うための貴重な機会です。
 人間活動の他の分野と同じように、宗教対話においても罪が入り込む可能性があります。時としてそうしたことが生じるのは、対話が本来の目的をめざすのではなく、欺瞞や、自己中心的な利害や、傲慢によって導かれる場合です。そのために、対話の相手の尊厳と信教の自由への尊重が失われます。だから「人が信仰を抱くようにと強制されたり、もしくは不当な術策で陥れられたり、おびき寄せられたりすることを、教会は厳しく禁じている。同様に教会はまた、誰も不正な攻撃によって信仰から遠ざけられてはならないという権利をも強く擁護する」(24)のです。
 福音宣教を行うことを促す第一の理由は、すべての人の永遠の救いを求めるキリストの愛です。真の福音宣教者の唯一の望みは、自分がただで受けたものをただで与えることです。「教会の初めから、キリストの弟子たちは、強制と福音にふさわしくない手段によらないで、何よりもまず、神のことばの力によって、人々を回心させ、主キリストを認めさせるべく努めた」(25)。使徒たちの宣教と初代教会で続けられた宣教は、すべての時代の福音宣教の基本的な模範であり続けます。宣教のしるしは、しばしば殉教によって表されます。20世紀の歴史もそのことを示しています。証人を信頼できる者とするのは、殉教です。証人は、権力や利益を求めることなく、キリストのために自分のいのちをささげるからです。証人は、武器をもつことなく、すべての人に対する愛で満たされた力を全世界に示します。この力は、全人生をささげるに至るまでキリストに従う人に与えられます。だからキリスト信者は、キリスト教の初めから現代に至るまで、福音のために迫害を受けてきました。イエスご自身があらかじめいわれたとおりです。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」(ヨハネ15・20)。

三 教会的な次元

9 聖霊降臨の日から、信仰を受け入れた人は信者の共同体に加えられました。「ペトロのことばを受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」(使徒言行録2・41)。福音は初めから、聖霊の力のうちに、すべての民に告げ知らされました。こうして民は信じて、キリストの弟子となり、教会に加わりました。教父の著作の中では、キリストが弟子たちにゆだねた使命を果たすようにという勧告が絶えず行われます(26)。一般的に、「回心」ということばは、異教徒を教会に導くことを意味するために用いられます。しかし「回心(メタノイア)」のキリスト教固有の意味は、信仰によって告げられた「キリストにおける」新しい生活を表すために、考え方と行動を変えることです。それは、ますます深くキリストと同じ者となることをめざして、思いと行いを絶えず変革することです(ガラテヤ2・20参照)。洗礼を受けた者は何よりそのために招かれています。これが、イエスご自身が行った呼びかけの第一の意味です。「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15。マタイ4・17参照)。
 キリスト信者の心は、全人類を教会のうちにおられるキリストへと導きたいという情熱に常に促されてきました。新しい成員を教会に加えることは、団体の力を拡張することではなく、キリストとの友愛のつながりへと導き入れることです。この友愛のつながりは、天と地、異なる大陸と時代を結びつけます。教会への参加は、キリストとの交わりというたまものに導き入れられることです。このたまものは、愛と正義の実践によって生かされた「新しい生活」です。教会は政治的ユートピアではなく、神の国の道具であり、その「種、萌芽」(27)です。教会はすでに歴史における神の現存であり、真の未来を自ら担います。それは神が「すべてにおいてすべてとなられる」(一コリント15・28)、決定的な未来です。教会の存在は必要です。なぜなら、神のみが真の意味での平和と正義を世にもたらすことができるからです。神の国は、今日、一部の人がいうような、すべての宗教体験と宗教伝統を超え、神を求めるすべての人の普遍的で無差別な交わりとしてめざされるような、包括的な現実ではありません。神の国は何よりもまず、見えない神のかたどり、ナザレのイエスという名前と顔をもった人格なのです(28)。そこから、神と神の国をめざす人間の心の自由な動きは皆、本来、人をキリストに導き、キリストの教会に加えなければなりません。教会は神の国の明確なしるしだからです。それゆえ教会は神の国の現存の担い手であり、人間と世界を真に人間らしいものとするための道具です。宣教活動の結果である歴史における教会の発展は、「神の」国を通じて神の現存に奉仕します。実際、「神の国を教会から切り離すことはできません」(29)。

10 しかしながら、「今日、教会の絶えざる宣教の使命は、宗教的多元性を事実として(de facto)のみならず、当然のものとして(de iure)、もしくは原理としても是認しようと試みる相対主義的性格の理論によって、危機に直面しています」(30)。長い間、多くのカトリック信者にとって、福音宣教を行う理由は明確ではありませんでした(31)。神の完全な啓示のたまものを与えられているという主張には、不寛容な態度や平和への危険がひそんでいるといわれることもあります。
 そのようなことをいう人が見過ごしていることがあります。それは、神が人間にご自身を啓示することによって与えてくださった、完全な真理のたまものは、自由を尊重するということです。神は自由を人間本性の消え去ることのない特徴として、自ら創造したからです。この自由は、無関心なものではなく、真理に向けて方向づけられています。自由の尊重は、カトリック信仰とキリストの愛が要求するものです。それは福音宣教の不可欠な要素であり、完全な救いをもたらす使命と切り離すことなく推進すべき善です。神はこの救いを、人々が知って、自由に受け入れることができるように、教会の中で人類に与えるからです。
 信教の自由の尊重(32)とその推進は、「けっして真理と善に対してわれわれが無関心になることであってはならない。むしろ愛は、すべての人に救いの真理を告げるよう、キリストの弟子たちに迫る」(33)のです。このような愛は真の意味での聖霊の現存のしるしです。聖霊は、福音宣教の主要な働き手として(34)、福音を耳にした人々の心を動かし続け、福音を受け入れるように彼らの心を開きます。この愛は教会の中心に生きています。そして、そこから、愛の炎のように、地の果てにまで輝き出て、すべての人の心に達します。実際、すべての人の心はイエス・キリストとの出会いを待ち望んでいます。
 こうして、福音宣教を行うようにというキリストの招きが切迫したものであること、そして、なぜ主が使徒たちにゆだねた使命が洗礼を受けたすべての人にかかわるかがわかります。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28・19-20)。このイエスのことばは、教会の中のすべての人に、おのおのの召命に応じて向けられています。今日、世界の多くの人がさまざまな種類の「荒れ野」の中で、とりわけ「神が見いだせないことによる荒れ野、自分の尊厳や人生の目標が感じられない、心の空しさからくる荒れ野」(35)で暮らしています。そこで教皇ベネディクト十六世は世界に向かって述べます。「全教会とその牧者たちは、キリストのように、民を荒れ野から連れ出し、いのちの地、神の子との友愛、わたしたちにいのちを与える唯一のかた、あふれるいのちへと導くように努めなければなりません」(36)。この使徒的使命は、不可侵の権利と義務であり、社会倫理的・政治倫理的次元を伴う、信教の自由の表現です(37)。残念ながらこの権利は世界の一部の地域でいまだ認められず、他の地域でも事実上尊重されていません(38)。

11 福音を告げ知らせる人はキリストの愛にあずかります。キリストはわたしたちを愛して、ご自分をわたしたちのためにささげてくださったからです(エフェソ5・2参照)。福音を告げ知らせる人は、キリストの使者であり、キリストに代わって願います。「神と和解させていただきなさい」と(二コリント5・20参照)。愛は感謝を表します。この感謝はイエス・キリストによって与えられた愛に開かれた心から流れ出ます。この愛は、ダンテが書いているように、「宇宙にあまねく散らばります」(39)。これが、使徒たちの宣教で示された熱意と信頼、また自由にことばを語る態度(パッレーシア〔「大胆にことばを語る」〕)を説明します(使徒言行録4・31、9・27-28、26・26など参照)。アグリッパも、パウロが語るのを聞いたときそれを感じました。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」(使徒言行録26・28)。
 福音宣教は、福音を公に告げたり、人々の前で目立つ行動を行うことだけでは成し遂げられません。個人のあかしも手段として用いられます。このあかしは、福音を広める上で常にきわめて効果的だからです。実際、「一般的かつ公共的な報知のほかに、一方の人からほかの人へと達する、別の福音の伝達様式がいつも是認されるべきですし、重要であり続けます。・・・・よい知らせを人々の群れに告げることを迫られても、この宣言の様式が忘れられることがあってはなりません。人間人格の良心は、実際に他者から受ける独自なことばそのものによって不思議にも動かされ、福音に触れるようになるのです」(40)。
 いずれにせよ、忘れてならないことは、福音を伝える上で、ことばと生活のあかしを同時に行うということです(41)。とりわけ聖性のあかしが必要です。それは、真理の光がすべての人に達するためです。ことばと行動が矛盾すれば、ことばを受け入れてもらうことは困難です。しかし、あかしだけでも不十分です。すなわち、「最良のあかしも、説明と確認がなければ、結局効果は半減します。『あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい』(一ペトロ3・15)とペトロが述べたとおりです。あかしは、主イエスについての明らかで誤解の余地のない宣言によって、明白にされなければなりません」(42)。

四 エキュメニカルな次元

12 エキュメニズム運動は最初から福音宣教と密接にかかわっていました。実際、一致は宣教活動が信頼に足ることの保証です。そのため第二バチカン公会議は、分裂のつまずきが「福音を宣べるというもっとも聖なる使命にとっては妨げとなっている」(43)と遺憾の意をもって述べたのです。イエスご自身が、死の前の晩、こう祈られました。「すべての人を一つにしてください。・・・・そうすれば、世は・・・・信じるようになります」(ヨハネ17・21)。
 教会の宣教は全世界に向けられており、地上の特定の地域に限定されません。しかしながら、福音宣教は、宣教を行う状況の違いに応じて、違ったしかたで行われます。「福音宣教」とは、厳密な意味では、キリストを知らない人に向けた「諸国の民への宣教」(missio ad gentes)です。もっと広い意味では、「福音宣教」は通常の司牧活動を表すのに用いられます。これに対して、「新しい福音宣教」は、キリスト教信仰を実践しなくなった人々に対する司牧活動を意味します(44)。さらに、古来のキリスト教的伝統・文化をもつ国を含めた、カトリック信者でないキリスト信者が暮らす国々で行われる福音宣教もあります。そこでは、こうした国々の伝統と霊的な遺産を尊重すること、また心からの協力精神が必要です。カトリック信者には、「一方では無関心主義や混合主義を排すると同時に、他方、不健全な競争心を遠ざけた上で、諸国民の前で、神とイエス・キリストに対する、ある種の共同信仰宣言を行うこと、また社会的・技術的協力および文化的・宗教的協力をすることによって、『エキュメニズム教令』の規範に従い、分かれた兄弟たちと兄弟的精神をもって協力し合うこと」(45)が求められます。
 エキュメニズムの活動にはさまざまな次元が区別されます。まず、「耳を傾けること」です。これはすべての対話にとっての基本的な条件です。次に「神学対話」です。「神学対話」の中で、他の教派の信条、伝統、思想の理解に努めることを通して、場合によっては不一致のもとに隠れていた一致点を見いだすことができます。このことと切り離すことのできないエキュメニズム活動のもう一つの不可欠な次元が、「あかしと宣言」です。「あかしと宣言」は、個別的な伝統や微妙な神学的見解ではなく、信仰の聖伝そのものに属する基本的なことがらについてなされます。
 エキュメニズムは「キリスト者たちの間に存在する部分的な交わりを、真理と愛のうちにある完全な交わりへと育てること」(46)をめざした教団の次元に限りません。エキュメニズムはすべての信者の務めでもあります。それは何よりもまず祈り、悔い改め、研究と協力によって行われます。カトリック信者は皆、いつでもどこでも、自分の信仰を完全な形であかしする権利と義務をもちます。カトリック信者は、カトリック信者でないキリスト信者と、愛と真理に基づき、尊敬の心をもって対話を行わなければなりません。この対話は、意見の交換だけでなく、たまものを交換し合うことでもあります(47)。それは、対話の相手に十全な救いの手段を与えることができるためです(48)。こうして対話の相手はキリストへのより深い回心へと導かれます。
 このことに関連して、注意すべきことがあります。それは、カトリック信者でないキリスト信者が、良心に基づいて、カトリックの真理を信じるがゆえに、カトリック教会との完全な交わりに入ることを求めた場合、それを聖霊のわざとして、また良心と信教の自由の表明として尊重すべきだということです。この場合は、ことばの消極的な意味での「強制的改宗」にはなりません(49)。『エキュメニズムに関する教令』がはっきり認めるとおり、「カトリックの完全な交わりを望む一人ひとりの人の準備と和解の努力は、エキュメニカルな努力と性質上区別されるものであることは自明である。しかし、両者とも感嘆すべき神の計らいから来るものであるから、けっして相対立するものではない」(50)のです。それゆえエキュメニズムは、カトリック信仰を他のキリスト信者に完全な形で宣言する権利を奪い、その責任を取り去るわけではありません。
 当然のことながら、このような取組みは、不適切な圧力をかけることを避けることを求めます。「宗教的信仰を広め、習慣を取り入れる場合は、強制もしくは不当な、あるいはあまり正しくない説得と思われる種のすべての行為は避けなければならない。無教育者あるいは貧困者に関する場合とくにそうである」(51)。真理のあかしは、福音と相容れない強制行為や策略により、何かを力ずくで押しつけることをめざしてはなりません。愛は無償で与えるものです(52)。愛と真理のあかしは、何よりも神のことばの力によって人を説得することをめざします(一コリント2・3-5、一テサロニケ2・3-5参照)(53)。キリスト教の宣教は、聖霊の力と、告げ知らせる真理そのものに基づきます。

五 結論

13 教会は絶えず福音宣教に努めなければなりません。なぜなら、ご自身が約束されたとおり、主イエスは聖霊の力においていつも教会とともにいてくださるからです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28・20)。現代の宗教の分野に見られる相対主義と和協主義は、福音宣教という、困難ではあっても魅力的な使命を果たさないでよい有効な理由とはなりません。福音宣教の務めは教会そのものの本性に属します。またそれは教会の「主要な務め」(54)といえます。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている(Caritas Christi urget nos)」(二コリント5・14)。数えきれないカトリック信者の生涯がこのことをあかししています。教会の歴史全体を通して、人々はイエスの愛に促され、全世界に向けて、社会のあらゆる場で、福音を告げ知らせるために、さまざまな取り組みと活動を行いました。すべてのキリスト信者は、キリストが命じたことを進んで果たすように、永遠に呼びかけられ、招かれているからです。それゆえ、教皇ベネディクト十六世が述べるように、「福音を宣べ伝え、あかしすることは、すべての人と全人類にキリスト信者が行うことのできる第一の奉仕です。神の愛は世の唯一のあがない主であるイエス・キリストのうちに完全に現されました。キリスト信者はすべての人にこの神の愛を伝えるよう招かれているからです」(55)。神から来る愛はわたしたちを神と結びつけながら、「わたしたちを一つの『わたしたち』にします。こうしてこの一つとされた『わたしたち』は、わたしたち人間の分裂を乗り越え、わたしたちを一致させます。それは神が『すべてにおいてすべてとなられる』(一コリント15・28)ためです」(56)。

 教皇ベネディクト十六世は2007年10月6日の教皇庁教理省長官との謁見において、教理省総会で採択されたこの「教理についての覚書」を認可し、その公布を命じた。

ローマ、教皇庁教理省事務局にて、
2007年12月3日、宣教の守護聖人である聖フランシスコ・ザビエルの記念日に
教皇庁教理省長官
ウィリアム・レヴェイダ枢機卿
秘書、シラ名義大司教
アンジェロ・アマート(サレジオ修道会)

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