教皇フランシスコのサンタンナ教会での説教

3月17日(日)午前10時からバチカンのサンタンナ小教区聖堂で、教皇フランシスコは四旬節第5主日のミサをささげました。このミサの中で教皇は、事前に準備した原稿なしに、この日の福音(ヨハネ8・1-11)を解説しながら説教を […]

3月17日(日)午前10時からバチカンのサンタンナ小教区聖堂で、教皇フランシスコは四旬節第5主日のミサをささげました。このミサの中で教皇は、事前に準備した原稿なしに、この日の福音(ヨハネ8・1-11)を解説しながら説教を行いました。以下はその全文です(原文イタリア語)。
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 イエスはまず、一人で山で祈られました。これはすばらしいことです。イエスは一人で祈られました(ヨハネ8・1参照)。それから、イエスは再び神殿に行き、民衆が皆、彼のところに来ました(2節参照)。イエスは民衆の真ん中に立ちます。それから、最後に、民衆は女とイエスだけを残して立ち去ります(9節参照)。イエスの孤独。しかし、それは実り豊かな孤独です。それは御父との祈りの孤独です。女に対するあわれみの孤独です。これが今日の教会のすばらしいメッセージです。
 民衆の間にも違いがあります。すべての民衆がイエスのところに来ました。イエスは座って、彼らに教え始めます。それはイエスのことばを聞きたいと望む民衆です。神のことばを必要として、心を開いた民衆です。他方には、何も聞かず、聞くこともできなかった民衆がいます。女を連れてきたのはこの民衆です。先生、この女は・・・・。わたしたちはモーセがこのような女にするように命じたことをしなければなりません(4-5節)。
 わたしたちも、イエスのことばを聞くことを望むとともに、他方で、時として、他の人を打ちたたき、非難する、このような民衆だと思います。イエスのメッセージは、あわれみです。わたしはへりくだっていいますが、わたしにとって、これこそが主のもっとも強力なメッセージです。しかし、主ご自身がこういわれました。わたしが来たのは、正しい人のためではない。正しい人は自分で自分を義とする。聖なる主はいいます。あなたがそのようにできるなら、行ってそうしなさい。わたしにはできない。しかし、彼らは自分がそのようにできると考えている。わたしが来たのは、罪人のためである(マルコ2・17参照)。
 マタイが召し出された後の悪口を思い起こしてください。しかし、主は罪人とともに歩みました(マルコ2・16参照)。主は、わたしたちのために来られました。わたしたちは自分が罪人であることを認めるからです。けれども、もしわたしたちが祭壇の前で祈るあのファリサイ派の人のようであれば――主よ、わたしがほかの人たちのようでなかったこと、あの門の前にいる徴税人のような者でないことを感謝します(ルカ18・11-12参照)――、わたしたちは主のみ心が分かりません。あのあわれみを感じる喜びを得られません。神のあわれみに身をゆだねることは容易ではありません。神のあわれみははかりしれないほど深いからです。しかし、わたしたちは神のあわれみに身をゆだねなければなりません。「神父様。わたしの生涯をご存知なら、そのようなことをわたしにいわれないでしょう」。「なぜですか。あなたは何をしたのですか」。「恐ろしいことをしたのです」。「よろしい。イエスのもとに行きなさい。そのことを話せば、イエスは喜んでくださいます」。イエスは忘れます。イエスは特別な忘れる力をもっておられます。イエスは忘れ、あなたに口づけし、あなたを抱き、ただこういわれます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8・11)。これが、イエスがあなたに述べる唯一の助言です。一か月後、わたしたちはまた同じ状態にいるかもしれません。・・・・主のもとに立ち帰りなさい。主は本当に、うむことなくゆるしてくださいます。ゆるしを求めるのにうむのはわたしたちです。ゆるしを求めることにうまない恵みを求めようではありませんか。主はうむことなくゆるしてくださるからです。この恵みを求めたいと思います。 

 

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