教皇フランシスコの聖香油のミサ説教

3月28日(木)午前9時30分から、サンピエトロ大聖堂で、教皇フランシスコは聖香油のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。ミサはローマにいる枢機卿、司教、司祭(教区司祭と修道司祭) […]

3月28日(木)午前9時30分から、サンピエトロ大聖堂で、教皇フランシスコは聖香油のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。ミサはローマにいる枢機卿、司教、司祭(教区司祭と修道司祭)約1600名が共同司式しました。ミサの朗読箇所はイザヤ61・1-3a、6a、8b‐9、詩編89、黙示録1・5-8、ルカ4・16-21でした。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 ローマ司教として最初の聖香油のミサをささげられることをうれしく思います。愛情をこめて皆様にごあいさつ申し上げます。とくに親愛なる司祭の皆様にごあいさつ申し上げます。皆様は今日、わたしと同じように、叙階の日のことを思い起こしておられます。
 朗読箇所と詩編は「油注がれた者」について語ります。イザヤの苦難のしもべ、王ダビデ、そしてわたしたちの主イエスです。三人に共通するのはこれです。彼らが油を注がれたのは、彼らが仕える神の民に油を注ぐためです。彼らが油を注がれたのは、貧しい人、捕らわれている人、圧迫されている人のためです。・・・・聖なる塗油が「他者のため」のものであることを示すもっともすばらしいイメージは、詩編133に見いだされます。「かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴る」(2節)。油が滴り、アロンのひげから聖なる衣に降るというイメージは、司祭の塗油の象徴です。司祭の油は、油注がれた者を通して、衣によって表される世界の果てにまで達します。
 大祭司の聖なる衣は、豊かな象徴的意味をもっています。その一つは、イスラエルの子らの名が、エフォドの両肩ひもにつけられた縞瑪瑙(しまめのう)の石に彫りつけられているというものです。この肩ひもは現在のカズラの起源です。右の石に六つ、左の石に六つの名が彫りつけられます(出エジプト28・6-14参照)。イスラエルの十二部族の名も胸当ての宝石に刻まれます(出エジプト28・21参照)。これは次のことを表します。祭司は、自分にゆだねられた民を肩に背負い、心に刻まれたその名を携えながら、祭儀を行うということです。つつましいカズラをまとうとき、わたしたちは、肩の上に、また心の中に、自分たちの信じる民の重みと顔を感じさせられます。現代も数多くいる、わたしたちの聖人と殉教者の重みと顔を感じさせられます。
 典礼の美しさは、単なる布の飾りや趣味の問題ではなく、生きた、力強い神の民の中に輝く、わたしたちの神の栄光を表します。ここで、わざに目を転じたいと思います。アロンの頭に注がれたかぐわしい油は、アロンを香らせるだけでなく、滴り、「すそ」にまで達します。主はこのことをはっきりといわれます。わたしが油を注いだのは、貧しい人、捕らわれた人、病気の人、悲しんでいる人、孤独な人のためである。親愛なる兄弟の皆様。油は、わたしたちが自分を香らせるためのものでも、香油入れに保存しておくためのものでもありません。それでは油は悪くなり、心は苦くなってしまうからです。
 よい司祭かどうかは、その民がどのように油を注がれるかで分かります。これははっきりした証明です。わたしたちの民が喜びの油を注がれるなら、よい司祭であることが分かります。たとえば、民がよい知らせを聞いたことを顔に表しながら、ミサを終えて出てくる場合です。わたしたちの民は、福音が油注がれながら告げられることを望んでいます。わたしたちが告げる福音が日常生活に触れ、アロンの油のように現実の果てにまで降ってくることを望んでいます。福音が、信仰を破壊しようとする者たちの攻撃に信者の民がさらされた「周縁」の苦しい状況を照らすことを望んでいます。わたしたち司祭が、人々の日常生活の現実のために、彼らの苦難と喜び、苦悩と希望のために祈っていると感じるとき、民は感謝します。彼らは、油注がれたかたであるキリストの香りが、わたしたち司祭を通して伝わり、主にささげたいすべてのことをわたしたち司祭にゆだねるよう力づけられていると感じて、いいます。「神父様、わたしのために祈ってください。わたしはこのような問題を抱えています」。「神父様、わたしを祝福してください」。「わたしのために祈ってください」。これらの祈りは、油が衣の端に達したことを表すしるしです。油は、神の民の祈願へと変容したからです。わたしたちは、神と、また神の民とこのようにかかわり、恵みがわたしたちを通して伝わるとき、司祭だといえます。司祭は神と人間の仲介者だからです。わたしが強調したいことはこれです。わたしたちはつねに恵みを生かさなければなりません。あらゆる願いのうちに――願いの中には、不適切なものも、単に物質的なもの、つまらないものもあるかもしれませんが、それはそのように見えるだけです――かぐわしい油を注いでほしいというわたしたちの民の願いを読み取らなければなりません。彼らはわたしたちが油をもっていることを知っているからです。読み取り、感じなければなりません。主が、服の房に触れられて、出血が続いている女の希望と悲しみを感じたように。そのときイエスは、群衆に完全に取り囲まれながら、祭司の衣をまとい、油を服のすそにまで滴らせたアロンの美しい姿を体現します。それは隠れた美しさです。それは、出血に苦しむ女の信仰に満ちた目だけに輝いたからです。しかし、将来、祭司となる弟子たちにも、それは目に見えず、分かりませんでした。「生活の周縁」では、イエスを取り巻いて、押し合っている多くの人の上辺しか見えません(ルカ8・42参照)。しかし主は、服のすそにまで達した神の油の力を感じたのです。
 それゆえわたしたちは、自分に注がれた油と、そのあがないをもたらす力と効果を体験するために、「周縁」へと出ていかなければなりません。そこでは人々が苦しみ、血を流し、目が見えないために見えることを望み、多くの悪い主人の奴隷となっています。わたしたちは、自己を捜し、絶えず内面を観想することによって主と出会うのではありません。自助コースは有益なものかもしれませんが、あれこれの講座や方法を試しながら司祭生活を送っても、ペラギウス主義者になり、恵みの力を働かせることができません。信仰をもって出かけていき、自分自身をささげ、福音を他の人々に伝え、自分のもっているわずかな油を、まったく油をもっていない人に与えれば与えるほど、恵みは働き、増し加わるのです。
 自分から出ていかず、わずかな油しか注がない司祭は――わたしは「まったく」油を注がないとはいいません。神の恵みによって、民はわたしたちから油をこっそりもらうからです――、自分の民に最善のものを与えないことになります。しかし、それこそが司祭の心の奥深くを生かすことができるものなのです。自分から出ていかず、恵みの仲介者とならない司祭は、次第に単なる管理者と化してしまいます。わたしたちは皆、その違いを知っています。管理者は「すでに報いを受けており」、自分の手も心も用いないので、心からの感謝を受けることがありません。これが一部の司祭の不満の原因です。彼らは不機嫌な司祭となり、いわば過去の遺物や新規なものの収集家となりますが、「羊の匂いのする」牧者となることがありません――これが皆様にお願いしたいことです。本当に「羊の匂いのする」牧者となってください――。しかし、不機嫌な司祭たちは、自分の民の牧者にも、人間をとる漁師にもならないのです。確かに、いわゆる司祭のアイデンティティの危機がわたしたち皆を脅かし、一種の文化の危機をもたらしています。しかし、この波を乗り越えることができれば、主の名によって沖に漕ぎ出し、網を下ろすことができます。現実そのものがわたしたちを沖に漕ぎ出させるのは、すばらしいことです。わたしたちはそこで、恵みにより、はっきりと純粋に恵みとして姿を表すからです。現代世界の海で役に立つのは、油を注がれている(unzione)ことであって、役職(funzione)ではないからです。そして、イエスという、わたしたちが唯一、信頼を置くかたのみ名で網を下ろすなら、網は魚で一杯になるからです。
 親愛なる信者の皆様。愛情と祈りをもって皆様の司祭のそばにいてください。司祭がつねに神のみ心にかなう牧者でいることができますように。
 親愛なる司祭の皆様。父である神が、わたしたちのうちで、聖なる霊を新たにしてくださいますように。わたしたちはこの霊によって油を注がれたからです。どうかわたしたちの心のうちで霊が新たにされますように。そして、わたしたちの油がすべての人に、それも、信じる民がもっともそれを待ち望み、感謝する「周縁の地」にまで達しますように。わたしたちの民が、わたしたちが主の弟子であることを感じることができますように。わたしたちが彼らの名の彫りつけられた衣をまとい、他のいかなる者となることも求めていないと感じることができますように。そして彼らが、わたしたちのことばとわざを通じて、あの喜びの油を受けることができますように。油を注がれたかたイエスは、わたしたちにこの油をもたらすために来られたからです。アーメン。

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