教皇フランシスコの主の晩餐のミサ説教

3月28日(木)午後5時30分から、ローマのカサル・デル・マルモ少年院で、教皇フランシスコは聖木曜日の主の晩餐のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。ミサは「あわれみ深い父」にささ […]

3月28日(木)午後5時30分から、ローマのカサル・デル・マルモ少年院で、教皇フランシスコは聖木曜日の主の晩餐のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。ミサは「あわれみ深い父」にささげられた礼拝堂でささげられ、50名の少年院の若者(うち11名は少女)が参加しました。ミサの中で行われた洗足式で、教皇は、同少年院にいる、さまざまな国籍と宗教の12名の若者(うち2名は少女)の足を洗いました。
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 イエスは弟子たちの足を洗いました。わたしたちはこのことに心を動かされます。ペトロはその意味がまったく分からず、足を洗われるのを拒みました。しかし、イエスは彼に意味を説明しました。神であるイエスがこのことをなさったのです。そしてイエスご自身が弟子たちに意味を説明します。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのようにいうのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13・12-15)。これが主の模範です。足を洗うことは主にとってきわめて重要なことでした。わたしたちの間では、もっとも偉い者が、他の人に仕えなければならないからです。これは象徴であり、しるしではないでしょうか。足を洗うとは、「わたしはあなたに仕えます」ということです。わたしたちも、わたしたちの間でも、日々、互いに足を洗わなければならないのではないでしょうか。しかし、これはどういうことでしょうか。わたしたちは互いに助け合わなければならないということです。わたしがだれかに腹を立てることがあります。他の人に腹を立てることもあります。それでも、どうか忘れてください。あなたに何かを頼んだら、こたえてください。互いに助け合うこと――これがイエスのわたしたちに対する教えです。わたしも互いに助け合います。心から助け合います。それがわたしの務めだからです。司祭として、司教として、わたしは皆さんに仕えなければなりません。けれども、この務めはわたしの心から湧き出るものです。わたしはこの務めを愛しています。わたしはこの務めを愛しています。仕え合うことを愛しています。それは、主がそうするようにわたしに教えたからです。しかし、皆さんも助け合ってください。いつも互いに助け合ってください。互いに助け合うことによって、わたしたちは互いのためになることができるのです。今わたしたちは洗足式を行います。わたしたちは次のことを考えてみなければなりません。わたしたちは皆、次のことを考えてみなければなりません。「わたしは本当に進んで仕えようとしているだろうか。互いに助け合おうとしているだろうか」。このことだけを考えてください。これが、イエスがなさったことのしるしであることを考えてみてください。仕えるため、助け合うため――イエスが来られたのは、このことのためだったのです。

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