教皇フランシスコの復活徹夜祭ミサ説教

3月30日(土)午後8時30分から、サンピエトロ大聖堂で、教皇フランシスコは復活徹夜祭のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。 教皇はこのミサの中で、イタリア、アルバニア、ロシア、 […]

3月30日(土)午後8時30分から、サンピエトロ大聖堂で、教皇フランシスコは復活徹夜祭のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。
教皇はこのミサの中で、イタリア、アルバニア、ロシア、アメリカ合衆国出身の4名の洗礼志願者に洗礼を授けました。
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親愛なる兄弟姉妹の皆様。

1 復活徹夜祭の輝かしい夜の福音の中で、わたしたちはまず、イエスのからだに塗るための香料をもってイエスの墓に行った女性たちに出会います(ルカ24・1-3参照)。彼女たちは、わたしたちも行うようなしかたで、愛する死者に対する恒例のわざ、すなわち同情と愛情と愛を示すわざを行うために墓に行きました。彼女たちはイエスに従い、イエスのことばを聞き、自分たちの尊厳を理解されたと感じ、カルワリオ(されこうべ)での最後まで、すなわち、イエスが十字架から降ろされるときまで、イエスに同伴しました。わたしたちは女性たちが墓に赴くときの気持ちを想像できます。それはある種の悲しみと苦しみです。イエスが自分たちを置き去りにして死に、人生を終えたからです。今や、彼女たちは元の生活に戻ります。しかし、女性たちは愛をもち続けていました。イエスへの愛をもち続けていました。この愛に促されて、彼女たちはイエスの墓に行ったのです。しかし、そのとき、思いがけない新しいことが起こりました。それは女性たちの心と計画を混乱させました。彼女たちの人生を覆しました。彼女たちは石が墓から転がしてあるのを目にしました。彼女たちが近づいてみると、主のからだは見当たりませんでした。このことは彼女たちを混乱させ、疑いと多くの問いを抱かせました。「何が起こったのでしょうか」。「これはいったいどのようなことなのでしょうか」(ルカ24・4参照)。日常生活の中で本当に新しいことが起きたとき、わたしたちも同じことを感じるのではないでしょうか。わたしたちは立ち止まり、意味が理解できず、どうすればよいか分からなくなります。「新しいこと」はしばしばわたしたちを恐れさせます。神がわたしたちにもたらす新しいこと、神がわたしたちに求める新しいことの場合も同じです。わたしたちは福音書の使徒たちと同じです。わたしたちも自分の安全を守ることを選びます。墓にとどまり、死者に思いを向けることを選びます。死者は結局のところ、過去の偉人と同様、歴史の記憶の中でのみ生きているのです。わたしたちは神に驚かされることを恐れています。親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちは人生の中で神に驚かされることを恐れています。神はつねにわたしたちを驚かすからです。主はこのようなかただからです。
 兄弟姉妹の皆様。神がわたしたちの人生にもたらそうと望む新しいことに心を閉ざさないようにしようではありませんか。わたしたちはしばしばうみ疲れ、失望し、憂鬱になります。自らの罪の重荷を感じます。自分にはできないと感じます。自分の中に閉じこもってはなりません。信頼を失ってはなりません。決してあきらめてはいけません。神が変えることのできない状況などありません。わたしたちが心を神に開きさえすれば、神がゆるすことのできない罪などありません。

2 さて、福音の女性たちに戻り、一歩先に進みたいと思います。彼女たちは墓が空なのを見いだしました。イエスのからだはそこになく、何か新しいことが起きたのを見いだしました。しかし、これらすべてのことはまだ何もはっきりしたことを告げてくれません。それは問いを呼び起こし、彼女たちを混乱させましたが、答えを与えてはくれません。すると輝く衣を着た二人の人が現れて、いいます。「なぜ、生きておられるかたを死者の中に捜すのか。あのかたは、ここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカ24・5-6)。愛ゆえに行った単純なわざ――墓に行ったこと――が、今や出来事に変わります。本当に人生を変える出来事へと変わります。すべてはかつてと同じではなくなります。それはこの女性たちの人生においてだけでなく、わたしたちの人生においても、人類の歴史においてもいえます。イエスは死んだのではなく、復活されたのです。「生きておられる」のです。イエスは単に生き返ったのではありません。むしろイエスはいのちそのものです。イエスは神の子だからです。生きているかただからです(民数記14・21-28、申命記5・26、ヨシュア記3・10参照)。イエスはもはや過去に属するかたではなく、今、生きており、未来へと身を延ばします。イエスは神の永遠の「今日」です。このようにして神の新しさが女性たちと弟子たちとわたしたち皆の目の前に示されます。それは、罪と悪と死と、いのちに反し、いのちを非人間的にするあらゆるものに対する勝利です。親愛なる兄弟姉妹の皆様。これがわたしと皆様に告げられたメッセージです。愛であるかたは何度わたしたちに告げなければならなかったことでしょうか。なぜ、生きておられるかたを死者の中に捜すのか。わたしたちは日々のさまざまな問題や心配事によって、いつも自分自身と悲しみと苦悩のうちに閉じこもってきました。それが死の存在する場所です。生きておられるかたを死者の中に捜してはなりません。
 復活したイエスをあなたの人生に受け入れてください。信頼をもって、イエスを友として迎え入れてください。イエスこそがいのちです。今までイエスから遠ざかっていたなら、一歩前に進んでください。イエスはあなたを手を広げて受け入れてくださいます。無関心だったなら、危険を冒すことを受け入れてください。そうすれば、決して失望を味わうことはないはずです。イエスに従うことがむずかしいように思われるなら、恐れてはなりません。イエスに信頼してください。どうか信じてください。イエスがあなたのそばにいてくださることを。イエスがあなたとともにいてくださることを。イエスがあなたが求める平安と、イエスが望まれるとおりに生きる力を与えてくださることを。

3 この輝かしい復活徹夜祭の福音の中で、最後に簡単に強調したい点があります。女性たちは神の新しさと出会いました。イエスが復活したこと、イエスが生きておられるかただということです。しかし、空の墓と、輝く衣を着た二人の人を見て、彼女たちが最初に示したのは恐れです。聖ルカはいいます。女性たちは「恐れて地に顔を伏せた」。彼女たちは勇気をもって見ることができません。しかし彼女たちは、復活の知らせを聞くと、それを信仰をもって受け入れます。すると、輝く衣を来た二人の人は、根本的に重要なことばを告げます。思い出しなさい。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。・・・・そこで、婦人たちはイエスのことばを思い出した」(ルカ24・6、8)。これは、イエスとの出会いを「思い出しなさい」という招きです。イエスのことばと行いと生涯を思い出しなさいという招きです。師であるかたについての体験を愛をもって思い出すことにより、女性たちはあらゆる恐れを乗り越えて、使徒たちとほかの人皆に復活の知らせを伝えることができたのです(ルカ24・9参照)。神がわたしに、わたしたちになさったことを思い起こすこと、歩んできた道を思い起こすこと――これが、わたしたちの心を未来へと開くのです。神がわたしたちの人生の中でなさったわざを思い起こすことを学ぼうではありませんか。
 この光の夜に、おとめマリアの執り成しを祈り願いたいと思います。マリアはすべての出来事を心に納めたかただからです(ルカ2・19、51参照)。そして主に願いたいと思います。わたしたちをあなたの復活にあずからせてください。すべてを変えるあなたの新しさへと、神のくすしく驚くべきわざへと、わたしたちの心を開いてください。わたしたちを、一人ひとりの人生と世界の歴史の中であなたがなさることを思い起こせる者としてください。わたしたちが、あなたがわたしたちのただ中で生きて働いておられる、生きておられるかたであることを感じられるようにしてください。親愛なる兄弟姉妹の皆様。主の教えによって、わたしたちが日々、生きておられるかたを死者の中に捜すことがありませんように。アーメン。

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