教皇フランシスコの「信仰年」閉年ミサ説教

王であるキリストの祭日の11月24日(日)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂正面階段で、教皇フランシスコは「信仰年」閉年ミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。


「信仰年」は教皇ベネディクト十六世により、第二バチカン公会議開幕50周年を記念して2012年10月11日に開年しました。

なお、このミサの中で、祭壇脇に使徒ペトロの聖遺物が顕示されました。聖遺物は青銅の小箱に入れられ、箱には次の銘文が刻まれています。「使徒聖ペトロと考えられる、バチカン大聖堂地下で発見された骨の一部(Ex ossibus quae in Arcibasilicae Vaticanae hypogeo inventa Beati Petri Apostoli esse putantur)」。

また、ミサの終わりに、教皇は、使徒的勧告『福音の喜び』(Evangelii gaudium)を18か国から来た36名の神の民の代表者に手渡しました。すなわち、司教、司祭、助祭、男女修道者、「信仰年」中の行事の代表者、堅信を受けた人、神学生、修練者、家族、カテキスタ、視覚障害者(視覚障害者には文書を音声で録音したCD-ROMが手渡されました)、若者、信心会と運動団体の代表者、2名の芸術家と2名のメディアの代表者です。


 典礼暦年を締めくくる、今日の王であるキリストの祭日は、教皇ベネディクト十六世が開年した「信仰年」の閉年の日でもあります。今わたしたちの思いは、愛情と、このたまものを与えてくださったことに対する感謝をもって、教皇に向かいます。教皇ベネディクト十六世は、この摂理的な行事により、洗礼の日から始まる信仰の旅路のすばらしさを再発見する貴重な機会を与えてくださいました。洗礼はわたしたちを神の子、また教会における兄弟姉妹としてくれます。この旅路の最終目的は、神との完全な出会いであり、またこの旅の間、聖霊はわたしたちを清め、高め、聖化して、わたしたちが心からあこがれる幸福に入れるようにしてくださいます。

 ここにおられる東方カトリック教会の総大司教と首位大司教の皆様にも、心から兄弟としてのあいさつを申し上げたいと思います。皆様と交わす平和のあいさつは、何よりもこの共同体へのローマ司教の感謝を表します。皆様はしばしば高い代償を払いながら、模範的な忠実さをもってキリストのみ名を告白してこられたからです。

 彼らを通じて、聖地とシリアと中東全体に住むすべてのキリスト信者の皆様にも同じあいさつを申し上げます。このかたがたすべてに平和と一致のたまものが与えられますように。

 朗読された聖書箇所は、わたしたちをキリストを中心とすることへと導いてくれます。キリストは中心におられます。キリストこそが中心です。キリストは被造物の中心であり、民の中心であり、歴史の中心です。

1 使徒パウロは、イエスが中心であることに関するきわめて深い見方を与えてくれます。彼はキリストを「すべてのものが造られる前に生まれたかた」として示します。万物はキリストにおいて、キリストによって、キリストのために造られました。キリストは万物の中心であり、根源です。イエス・キリストは主です。神はキリストに満ちあふれるものを余すところなく与えました。それは万物をご自身と和解させるためです(コロサイ1・12-20参照)。キリストは被造物の主であり、和解をもたらす主です。

 このイメージは、イエスが被造物の中心であることを悟らせてくれます。それゆえ、信じる者が求められるあるべき態度は、生活の中でイエス・キリストを中心として認め、受け入れることです。思い、ことば、そして行いを通して。こうしてわたしたちの思いはキリスト教的な思い、キリストの思いとなり、わたしたちの行いはキリスト教的な行い、キリストの行いとなり、わたしたちのことばはキリスト教的なことば、キリストのことばとなります。しかし、この中心が失われ、別のものに取って代わられるなら、わたしたちの周りにも、わたしたち自身にも、害を与えるだけです。

 2 キリストは、被造物の中心であり、和解の中心であるだけでなく、神の民の中心です。まさに今日、キリストは、ここにいるわたしたちの中心におられます。キリストは、今、みことばの中に、それから祭壇上で、わたしたち神の民のただ中に生きて現存します。このことは第一朗読で示されました。そこでは、イスラエルの全部族がダビデのもとに来て、主の前で彼に油を注いでイスラエルの王としたことが述べられています(サムエル記下5・1-3参照)。人々は理想的な王を探すために、神ご自身を尋ね求めます。神は彼らに近づき、人間の歩みに寄り添い、兄弟となってくださるからです。

 ダビデ家の出身であるキリストは、その周りに民が築かれる、「兄弟」そのものです。キリストは、ご自身のいのちを犠牲にしてまでも、ご自分の民を、すなわちわたしたち皆を心にかけてくださいます。わたしたちはキリストのうちに一つになります。一つの民としてキリストに結ばれ、キリストの一つの歩みと目的にあずかります。わたしたちはキリストに結ばれ、キリストを中心とすることによって初めて、民としてのあり方をもつのです。

 3 最後に、キリストは人類の歴史の中心であるとともに、すべての人の生涯の中心でもあります。わたしたちは、自分の人生の中でないまざった喜びと希望、苦悩と不安を、キリストに示すことができます。イエスが中心であれば、人生の暗闇の最中にも光が差し込み、希望が与えられます。今日の福音のよい盗賊の場合のように。

 すべての人がイエスをあざける中で――「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、十字架から降りて自分を救うがよい」――、人生を失敗したこの人は、最後に悔い改めて十字架につけられたキリストにすがって、こう願います。「あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)。イエスは彼に約束します。「あなたは今日わたしと一緒に楽園に――すなわち、み国に――いる」(43節)。イエスは断罪せず、ゆるしのことばだけを話されます。人が勇気をもってこのようにゆるしを求めるとき、主がその願いを拒むことは決してありません。今日、わたしたちは皆、自分の生涯を、自分の歩みを顧みることができます。わたしたちには皆、歴史があります。だれにでも、過ちと罪、幸福な時と暗闇の時があります。今日をよい機会として、自分の人生を顧みてください。イエスに目を注ぎ、皆、心の中で沈黙のうちに繰り返していってみてください。「主よ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください。イエスよ、わたしを思い出してください。わたしはよくなりたいのです。いつくしみ深い者となりたいのです。しかしそれができません。わたしは罪人です。けれども、イエスよ、わたしを思い出してください。あなたは中心におられるからです。あなたはまことにみ国におられるからです」。これはすばらしいことです。今日、皆で、心から、何度も、こういいたいと思います。「主よ、わたしを思い出してください。あなたは中心におられるからです。あなたはまことにみ国におられるからです」。

 イエスのよい盗賊に対する約束は、わたしたちに大きな希望を与えます。イエスはいわれます。神の恵みはわたしたちが祈り願うことを超えて満ちあふれます。主はつねにより多く与えてくださいます。主は惜しみなく与えてくださいます。つねに願うことよりも多く与えてくださいます。あなたは、わたしを思い出してくださいと主に願います。すると主はあなたをみ国に迎え入れてくださるのです。イエスはわたしたちの喜びと救いへの願いの中心です。ともにこの道を歩んで行こうではありませんか。

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