教皇フランシスコ、2014年復活徹夜祭ミサ説教

2014年4月19日(土)午後8時30分から、サンピエトロ大聖堂で、教皇フランシスコは復活徹夜祭のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。 教皇はこのミサの中で、イタリア、ベラルーシ […]

2014年4月19日(土)午後8時30分から、サンピエトロ大聖堂で、教皇フランシスコは復活徹夜祭のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。
教皇はこのミサの中で、イタリア、ベラルーシ、セネガル、レバノン、フランス、ベトナム出身の10名の洗礼志願者に洗礼を授けました。
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 イエス・キリストの復活に関する福音は、安息日の翌朝、墓に向かう女性たちの歩みをもって始まります。彼女たちは主のからだをあがめるために墓に行きましたが、見ると墓は開いて空でした。力ある天使が彼女たちにいいます。「恐れることはない」(マタイ28・5)。そして天使は、行って、弟子たちにこう告げるように命じます。「あのかたは死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる」(7節)。女性たちが急いで立ち去ると、道の途中でイエスご自身が彼女たちと出会って、こういわれます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くようにいいなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。「恐れることはない」。「恐れることはない」。このことばは、心を開いて、この知らせを受け入れるようにとわたしたちを励まします。

 師であるかたが死んだ後、弟子たちは散り散りになりました。彼らの信仰は砕け散り、すべては終わり、確信は揺らぎ、希望は消えたように思われました。しかし今や、信じられないような女性たちの知らせが、闇の中の光のように届きました。この知らせは広まります。イエスは、かねていわれていたとおり、復活されました……。そして彼らは、ガリラヤに行くようにとも命じられます。女性たちはこの命令を二度、耳にしました。一度目は天使から、二度目はイエスご自身から。「ガリラヤへ行くように……。そこでわたしに会うことになる」。「恐れることはない」。「ガリラヤに行きなさい」。

 ガリラヤは弟子たちが最初に召し出され、すべてがそこで始まった場所です。そこに帰りなさい。最初に召しだされた場所に帰りなさい。イエスは、湖のほとりで、漁師たちが網を打っているところを通りかかります。イエスが漁師たちを招くと、彼らはすべてを捨ててイエスに従いました(マタイ4・18-22参照)。

 ガリラヤに帰るとは、十字架と勝利から出発して、恐れることなく、すべてを読み直すことです。「恐れることはない」。すべてのこと――説教、奇跡、新しい共同体、熱狂と、裏切りにまで至る転向――を読み直すこと、新しい始まりという終わりから、最高の愛のわざから出発して、すべてを読み直すことです。

 わたしたち一人ひとりにとっても、イエスとの歩みの初めに「ガリラヤ」があります。「ガリラヤへ行く」とは、ある、すばらしいことです。それはわたしたちにとって、生きた泉である自分の洗礼を再発見し、自分の信仰とキリスト教的体験の源泉から新たな力をくみとることです。ガリラヤに帰るとは、何よりも、歩みの初めに神の恵みがわたしに触れた、発火点に帰ることです。わたしはこの火花から、今日の、またすべての日のために火をともし、兄弟姉妹に温もりと光をもたらすことができるのです。この火花から、ささやかな喜びの火がともります。それは、苦しみや絶望が打ち勝つことのない、いつくしみと優しさに満ちた喜びです。

 キリスト信者の生活には、洗礼の後、もう一つの「ガリラヤ」があります。それはより実存的な「ガリラヤ」です。ご自分に従い、その使命にあずかるようにわたしを招く、イエス・キリストとの個人的な出会いです。その意味で、ガリラヤに帰るとは、心の中でこの招きの生き生きとした記憶を保つことです。そのとき、イエスはわたしの前を通り、あわれみのまなざしをもってわたしを見つめ、ご自分に従うように求めます。ガリラヤに帰るとは、イエスの目がわたしを捕らえ、わたしを愛しておられることを感じさせてくださった時を思い起こすことです。

 今日、この夜、わたしたちはおのおの自問しなければなりません。わたしのガリラヤとは何でしょうか。そのために、思い起こし、記憶の奥底に赴かなければなりません。わたしのガリラヤとはどこでしょうか。わたしはそれを忘れてしまったでしょうか。探しなさい。そうすれば、見つかるでしょう。主はそこであなたを待っておられます。わたしは、さまざまな道を歩いているうちに、忘れてしまっています。主よ、わたしをお助けください。わたしのガリラヤとはどこか、お教えください。あなたは知っておられます。わたしがそこに帰り、あなたと出会い、あなたのあわれみに抱きしめていただきたいと望んでいることを。恐れることはありません。ガリラヤに帰りなさい。

 福音は明快です。わたしたちは、復活したイエスと出会い、イエスの復活の証人となるために、ガリラヤに帰らなければなりません。それは時間を元に戻すことでも、懐古趣味に耽ることでもありません。それは、最初の愛に帰ることです。それは、イエスが世にともしてくださったともしびを受け取り、地の果てに至るまで、それをすべての人に伝えるためです。恐れずに、ガリラヤに帰りなさい。

 「異邦人のガリラヤ」(マタイ4・15、イザヤ8・23)。それは復活したかたのおられる場所、教会のいるべき場所です。わたしたちは主と出会うことを深く望みます。この道を歩んでいきましょう。

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