教皇フランシスコの聖墳墓教会でのエキュメニカル礼拝における講話

聖地巡礼の2日目にあたる2014年5月25日、エルサレムの聖墳墓教会で教皇フランシスコは、東方正教会コンスタンチノープル総主教バルトロマイ一世と共にエキュメニカル礼拝を行いました。これは、1964年に同じくエルサレムで行 […]

聖地巡礼の2日目にあたる2014年5月25日、エルサレムの聖墳墓教会で教皇フランシスコは、東方正教会コンスタンチノープル総主教バルトロマイ一世と共にエキュメニカル礼拝を行いました。これは、1964年に同じくエルサレムで行われた、カトリックと東方正教会との和解の歴史的会談を記念したものです。その当時会談に臨んだのは、カトリックから教皇パウロ六世、東方正教会からはコンスタンチノープル総主教アテナゴラスでした。

この礼拝の前、教皇フランシスコとバルトロマイ一世は会談し、中東におけるキリスト者の困難な状況に憂慮を示し、諸宗教感のさらなる対話と和解を呼び掛ける共同宣言を発表しました。
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バルトロマイ一世聖下、
親愛なる司教の皆様、
親愛なる兄弟姉妹の皆様、

 すべてのキリスト者がもっとも畏敬の念をもって眺めるこの聖堂を、キリストにおいて愛すべき同伴者、バルトロマイ一世聖下と共に訪れることは、今回の巡礼の頂点です。わたしたちは、偉大なる先達、教皇パウロ六世とアテナゴラス総主教の足跡をたどり、こうしてこの地を訪れています。パウロ六世とアテナゴラスは勇気をもち、聖霊の導きに従順に、50年前この聖地エルサレムにおいて、ローマ司教とコンスタンチノープル総主教との間の歴史的会談を成し遂げました。ここにご列席の皆様に心よりご挨拶申し上げたいと思います。特に、この機会を可能にしてくださった皆さん、わたしたちを温かく迎えてくださった東方正教会エルサレム総主教のテオフィロス三世、アルメニア正教会エルサレム総主教のヌラン・マノージアン、ピエルバティスタ・ピッツアバラ神父に、心よりの感謝を特に申し上げたいと思います。

 祈るためにこの地に集まれたことは無上の喜びです。アリマタヤ出身のヨセフがイエスの遺体をうやうやしく納めた新しい墓、その空の墓が復活をのべ伝え始める場です。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あのかたは、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あのかたは死者の中から復活された』」(マタイ28・5−7)。こう告げられたことばは、復活された主が現れた人々のあかしによって確かめられ、キリスト者のメッセージの中核となり、代々忠実に伝えられていったのです。使徒パウロが言うとおり、まったくのはじめからあかしされていたのです。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(一コリント15・3−4)です。これはわたしたちを結びつける信仰の土台です。そこでわたしたちは一緒に、御父の唯一の御子、唯一の主であるイエス・キリストが「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活」(使徒信条)したと信仰告白するのです。キリストにおいて洗礼を受けたわたしたち一人ひとりは、霊的にこの墓から復活します。というのも、洗礼においてすべての人は真に被造物の初穂であるかたのからだの一部となったからです。わたしたちはキリストと共に葬られました。それはキリストと共に復活し、新たないのちに生きるためなのです(ローマ6・4参照)。

 いまこの時の特別な恵みを受けましょう。わたしたちはこの墓を前にしてうやうやしく沈黙のうちにたたずみ、キリスト者としての召命の気高さを再発見しています。わたしたちは復活にあずかる人間であり、死にとらわれたままの人間ではありません。この場からわたしたちは、復活の朝の光の中で、わたしたちの人生、諸教会とこの世界の試練をいかに生きるかを学ぶのです。あらゆる傷、あらゆる苦悩と悲しみは、いけにえとしてご自分をささげた善い牧者の両肩に背負われており、したがって永遠のいのちへ扉が開かれたのです。開いたままのイエスの傷口は、あたかも慈しみの川がこの世に流れ出す裂け目のようです。「キリストは復活された」というわたしたちの希望の土台が奪い取られないようにしましょう。復活の喜びのメッセージの世界を捨て去らないようにしましょう。そしてまさにこの場所で、死者のうちから復活したかたの言葉の中で鳴り響き、わたしたちすべての人を「わたしの兄弟たち」と呼ぶ(マタイ28・10、ヨハネ20・17参照)、一致へと招く力強い呼び掛けから耳をふさがないようにしましょう。

 明白なことですが、イエスの弟子であるわたしたちの間に、現実に分裂があることは否定できません。この聖なる場所にいると、このことがどれほど悲劇的なことか、さらなる痛みをもって感じられます。それでもなお、尊敬すべき二人の先達が抱擁を交わして50年、聖霊の導きのもと、どのようにすれば一致に向けた極めて重要な一歩を踏み出すことが可能だったかを、わたしたちは実感しています。それは感謝と驚きを新たにするものです。わたしたちが熱心に望んでいることですが、感謝の祭儀を共にするといった形で表される完全な一致に達するまで、まだずいぶんと距離があることは理解しています。しかし互いの違いを恐れ、進歩が止まってはなりません。ちょうど墓の石がわきへ転がされたように、わたしたちの完全な一致の障害となるあらゆるものもまた取り去られることを信じなければなりません。これは復活の恵みであり、今でもその恵みの前触れを感じることができます。他宗派のキリスト者に対する罪のゆるしを互いに願い、そうしたゆるしを与え、受け取る勇気を持てるときはいつでも、わたしたちは復活を体験します。長い間持ち続けてきた偏見をわきに置き、新たな友人関係を結ぶ勇気を見出すときはいつも、キリストはまさに復活されたのだと信仰告白します。一致するという召命において教会の未来を内省するときはいつも、復活の夜明けが開かれます。パウロ六世とアテナゴラスによってすでに示されたことですが、キリストにおける兄弟姉妹との継続的な対話への希望を、わたしはここで繰り返したいと思います。それは、ローマの司教(教皇)に特別に与えられた(キリスト者のすべての共同体の一致という)役務を実行する手段を見出すことを目指しています。この役務は、教皇が自らの使命へ忠実である時、新たな状況へ対応するものとなり得ますし、現状においては、すべての人に理解される愛と一致の奉仕であり得ます(ヨハネ・パウロ二世回勅『キリスト者の一致』95—96項参照)。

 巡礼の中でこうした聖なる場所に立ちながら、中東全体のことを祈りのうちに思い起こします。極めて頻繁に起きており悲しむべきことですが、この地では暴力と紛争行為が繰り返されています。同時に、他の多くの人々が世界中のさまざまな地で戦争、貧困、飢餓に苦しみ、多くのキリスト者が復活された主への信仰のゆえに迫害されていることも、祈りの中で忘れていません。異なる宗派のキリスト者が寄り添い、共に苦しみ、また兄弟姉妹としての慈しみをもって助け合うとき、人々の苦しみを担う教会一致運動、流された血と共感する教会一致運動が生まれ、その運動はその問題が起きている場所においてのみ特に力を発揮するのではなく、聖徒の交わりのうちに、教会全体にも力を発揮するのです。憎しみからキリスト者を殺し、迫害する皆さん。その人が正教会かカトリックか問わないでください。その人はキリスト者です。キリスト者は同じ血をもっています。

 愛する兄弟であるバルトロマイ一世聖下、親愛なる兄弟姉妹の皆さん、過去から引きずっている懸念の数々をわきに置き、聖霊、愛の霊の働きに向けて心を開きましょう(ローマ5・5参照)。それは、わたしたちが完全な一致を迎えることのできる、祝福された時に向かって共に歩みを早めるためです。この旅路を進むとき、この町でイエスご自身がその苦悩、死と復活を前にして、弟子たちのために御父にささげた祈りによってわたしたちは支えられていると実感しています。それは謙遜のうちに、いくら祈っても決して尽きることのない祈りです。「すべての人を一つにしてください…そうすれば、世は…信じるようになります」(ヨハネ17・21)。分裂によってわたしたちが悲観、不信、恐れをもつようになる時は、神の聖母のとりつぎにすべてをゆだねましょう。キリスト者たちの魂のうちに霊的な混乱がある時は、聖母の衣に身を隠すだけで、平安を得られます。どうか神の聖母がわたしたちの旅路を支えてくださいますように。

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