教皇フランシスコ、アジアの若者との集いでのあいさつ

8月15日、教皇フランシスコは、第6回アジアン・ユース・デーのために、ソルメ聖地に集まったアジア各国の若者に次のようにあいさつしました。ソルメ聖地は、聖キム・デゴン(金大建)司祭の生地で巡礼地となっています。教皇はあいさ […]

8月15日、教皇フランシスコは、第6回アジアン・ユース・デーのために、ソルメ聖地に集まったアジア各国の若者に次のようにあいさつしました。ソルメ聖地は、聖キム・デゴン(金大建)司祭の生地で巡礼地となっています。教皇はあいさつの途中で原稿を置き、身振りをまじえて即興で生き生きと若者に訴えかけました。以下はその全文です。

教皇のあいさつに先立ち、三人の若者がスピーチしました。最初に、カンボジア出身の女性、マイさんが、カンボジアの教会の困難な状況を説明し、その中で自分の召命を探すにはどうしたらよいのか教皇に尋ねました。また、ポル・ポト政権下で殺された多くのカトリック信者が列福されていない事実も指摘しました。次に香港出身の男性、ジョワンニさんが話し、最後に韓国出身の女性、マリナさんが、金権主義の社会や南北分裂の問題について話しました。

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親愛なる若者の皆さん。

 「わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです」(マタイ17・4)。このことばは、聖ペトロが、栄光のうちに変容したイエスをタボル山で目のあたりにした時に述べたものです。韓国の殉教者の聖地であるこの地に皆で集まれたことは、本当に素晴らしいことです。主の栄光は、殉教者を通してこの国の教会生活の夜明けを照らしました。アジア全土の若者が集うこの大会では、主の栄光はわたしたちの中にも輝いているように思われます。主の栄光は、あらゆる国、言語と民族を迎え入れる教会の中で輝き、あらゆるものを新しく、若く、生き生きとさせる聖霊の働きをも照らしているのです。

 皆さん、とても温かくわたしを迎えてくださりありがとうございます。皆さんの情熱というたまもの、皆さんの喜びあふれる歌声と信仰のあかし、そして皆さんが様々な文化の多様性と豊かさを美しく表現してくださったことに感謝します。とりわけ、自分の希望と問題点、関心事を打ち明けてくれたマイさんとジョワンニさんとマリナさんに感謝します。わたしは彼らの話を注意深く聞き、心に刻みました。開会のことばを述べてくださったユ・フンシク(兪興植)司教にも感謝の意を表します。そして皆さんに心からご挨拶申し上げます。

 今日は、第6回アジアン・ユース・デーのテーマ「殉教者の栄光があなたに輝く」についてすこし考えたいと思います。主は、殉教者の勇敢なあかしのうちにご自分の栄光を輝かせたように、皆さんの生活の中にもご自分の栄光を輝かせ、皆さんを通してこの広大な大陸上のいのちを照らそうとしておられます。キリストは今、皆さんとわたしの心の扉をたたいています。主は、起き上がって目を覚まし、周りに注意を払い、人生で本当に大切なことがらを見つめるようわたしたちに呼びかけています。そしてさらに、わたしたちが街道や小道に出かけて行って、人々の心の扉をたたき、主を自らの内に迎え入れるよう勧めることも求めておられます。

 アジアの若者によるこの大会はまた、神の永遠の計画において教会がどんな意味を持っているのかを理解する助けにもなります。皆さんは、すべての人が平和と友愛に満たされ、分裂が克服され、暴力と偏見が退けられる世界を、世界中の若者と共に築きたいと望んでいます。それこそが神がわたしたちに望んでおられることです。教会は人類家族全員の一致の種となるものです。すべての国と民族は、キリストのうちに一致するよう求められています。その一致は、多様性を害するのではなく、多様性を認め、和解させ、さらに豊かにします。

 この世の精神は、その素晴らしい展望と計画からかけ離れてしまったかのようです。わたしたちがまこうとしている善と希望の種は、幾度となく、利己主義、敵意、不正義という雑草にふさがれてしまいます。そうした雑草は、わたしたちの周りだけでなく、わたしたち自身の心の中にもあります。社会の中で貧富の差が広がっていることが問題になっています。人々の生活を犠牲にしても富、権力、快楽を求める偶像崇拝が現れています。わたしたちの身近でも、あまりにも多くの友人や同世代の人々が霊的な貧しさ、孤独、秘められた絶望に苦しんでいます。その中には、物的には非常に豊かな生活をしている人々もいます。まるで神がその場から離れてしまわれたようです。まるで霊的な砂漠が世界に広がり始めているかのようです。この状況は若者にも影響を与えます。若者は希望を奪われ、多くの場合、いのちまでも奪われています。

 しかし、これこそが、皆さんが出かけて行って、希望の福音、イエス・キリストの福音、み国の約束をあかしするよう求められている世界です。マリナさん、あなたが言おうとしていたのは、このことですね。これからそのことについて話します。たとえ話の中で、イエスは、希望と救いの知らせが心から受け入れられれば、み国は静かに確かに発展し、ひそかに実現すると語っています。福音の教えによれば、イエスの霊は、あらゆる人の心に新しいいのちをもたらし、どんなに絶望的に思える状況をも変えることができます。イエスはすべての状況を変えることができます。これこそが、皆さんが、学校、職場、家庭、大学、共同体の中の同世代の仲間と分かち合うべきメッセージです。死者のうちから復活したイエスは、「永遠のいのちのことば」(ヨハネ6・68)を持っておられます。そして、そのことばには、すべての人の心に触れ、善で悪を滅ぼし、世界を変え、世界をあがなう力があるのです。

 若者の皆さん、同時代の人々の中で、主は皆さんに期待しています。主は皆さんを頼りにしています。主は、皆さんがこの世における主のあかし人となれるように、洗礼の日に皆さんの心に入り、堅信の日にご自分の霊を与え、ミサの中でご自分の現存を通してつねに皆さんを力づけておられます。皆さんは主に「はい」と答える準備ができていますか。

 昨日、わたしの親しい友人がこう言っていました。「原稿を見ながら若者と話すなんてありえません。心から自然に話したり挨拶したりすべきです」。しかし、わたしには大きな問題があります。英語が苦手なのです。本当です。もしよければ、原稿に書いていないことをもう少し話すこともできますが、どうしますか。疲れましたか。続けてもいいですか。しかし、これからはイタリア語で話します。通訳してもらえますか。

 マリナさんの発言には本当に心を打たれました。彼女は、自分の人生における葛藤について話してくれました。現状の中で何をすべきか、奉献生活、修道生活を取るべきか、それとも人々をもっと助けられるように勉強すべきだろうかという問題です。

 それは表面上の葛藤です。なぜなら、主が呼びかけるときには、主はつねに人々の善のために呼びかけているからです。それが奉献生活、修道生活への呼びかけてであろうと、信徒、家庭の父母としての呼びかけであろうと、目的は同じです。その目的は、神をあがめ、人々に善い行いすることです。マリナさんをはじめとする、この問題を抱える多くの若者の皆さんはどうすべきでしょうか。わたしも同じように、どの道を選ぶべきか自問したことがあります。しかし、皆さんが道を選ぶ必要はありません。それは主が選ぶものです。イエスが選んでくださいます。皆さんは主に耳を傾け、「主よ、わたしはどうすべきでしょうか」と尋ねなければなりません。

 「主よ、あなたはわたしに何をお望みですか。」これが若者がささげるべき祈りです。このように祈りながら、皆さんは、良き信徒の友人や司祭、シスター、司教、教皇のアドバイスを受けつつ、主が望まれる道を見つけるのです。

 一緒に祈りましょう。「主よ、あなたはわたしに何をお望みですか」と三度、祈りましょう。

 主は必ず、皆さんのことばを聞いてくださいます。マリナさん、わたしはそう確信しています。打ち明けてくれてありがとう。申し訳ありません。名前を混同していました。この質問はマリナさんからではなく、マイさんからでした。

 マイさんは、殉教者、聖人とあかしについても話してくれました。すこし悲しげに、郷愁をこめて母国カンボジアについて語っていました。

 カンボジアにはまだ、列聖された人がいません。聖人はたくさんいますが、教会がまだそのことを認識せず、列福も列聖もしていません。マイさん、指摘してくれてありがとう。帰国したら、担当者に必ず伝えます。このことを担当しているのはアンジェロという人です。アンジェロにこの件にとりかかるように頼みます。

 もう終わりにしましょうか。疲れましたか。もう少し続けてもいいですか。

 それでは、マリナさんについて話しましょう。マリナさんは二つの問題を提示しました。二つの問題というよりは、幸せについての二つの考察と一つの質問です。彼女は真理に迫ることについて話しました。幸せを買うことはできません。お金で幸せを買っても、それはすぐに消え失せます。お金で買う幸せは長続きしません。愛による幸せだけがいつまでも続く幸せです。

 愛の道は分かりやすい道です。それは、神を愛すること、そして皆さんの隣人、兄弟姉妹、すぐそばにいる人、愛や多くのものを必要としている人を愛することです。「しかし、どうしたら、自分が神を愛していると分かるのでしょうか。」皆さんが隣人を愛するとき、皆さんが隣人を嫌わず、憎しみを心に抱かないときこそ、皆さんは神を愛しています。そのことが確かな証拠となるのです。

 マリナさんは一つの質問へと話を進め、わたしもその質問を理解しました。それは痛みを伴う質問です。尋ねてくれたことを彼女に感謝しています。それは、コリアの兄弟姉妹の間の分裂についての質問でした。コリアは二つあるのでしょうか。いいえ。コリアはただ一つですが、分裂しています。家族が分裂し、痛みが生じています。家族が再び一つになるためには何をしたらよいでしょうか。ふたつのことをお話します。まず最初にアドバイスを行い、それから希望について話します。

 まず最初に、わたしは祈るようアドバイスします。北の兄弟姉妹のために次のように祈ってください。「主よ、わたしたちは一つの家族です。わたしたちが一つになれるようお助けください。どうかお願いします。勝者にも敗者にもならず、ただ一つの家族になれますように。ひたすら兄弟姉妹になれますように。」さあ、皆さん、一緒に祈りましょう。沈黙のうちに、二つのコリアの一致のために祈りましょう。黙祷を捧げましょう。

 さて、希望についてです。希望とは何でしょうか。希望は非常に多くの形で表れますが、その中でも本当に素晴らしい希望は、コリアは一つ、一つの家族だということです。皆さんは全員、同じ言語を話します。それは家族の言葉です。皆さんは同じ言語を話す兄弟姉妹です。聖書によれば、ヨセフの兄たちがエジプトに食べ物を買いに出かけたとき、彼らは空腹でした。お金は持っていましたが、食べるものが何もなかったのです。食べ物を買いに出かけた場所で、彼らは弟を見つけました。どうして分かったのでしょう。兄たちが自分の言語を話していることにヨセフが気づいたのです。北の兄弟姉妹のことを考えましょう。彼らは皆さんと同じ言語を話しています。一つの家族の中で同じ言語が話されているかぎり、そこには希望があります。

 さきほど、わたしは放蕩息子に関する素晴らしい劇を観ました。放蕩息子は家を離れ、お金も所持品も使い尽くし、父も家族も裏切り、すべてのものを売り渡してしまいました。ある時、彼は必要にかられ、恥ずかしい気持ちでいっぱいになりながらも戻ることを決意します。彼はどうやって父のゆるしを乞おうか考え、「お父さん、わたしは罪を犯し、こんなに悪いことをしました。ですからわたしを息子ではなく、あなたの雇い人にしてください」と言おうと思っていました。また、他にも何か善いことを言おうと思っていました。

 しかし、福音によると、父親は遠くから息子がやって来るのを見つけました。どうして見つけることができたのでしょう。父親は毎日、テラスに出て、息子が戻って来ないかどうか見ていたのです。父親は息子を抱き寄せます。父親は彼が話すのをさえぎります。息子は準備してきたとおりに話そうとしますが、父親がさえぎります。ゆるしを乞うことすらさせません。そして、祝宴を始めます。それは、わたしたちが帰郷し、神のもとに帰るときに、神が喜びのうちに開く祝宴です。「しかし、お父さん、わたしは罪深い人間です。」それでもなお、御父は皆さんを待っていてくださいます。そして、祝宴まで開いてくださるのです。悔い改める一人の罪びとについては、家に残っていた百人の善人についてよりも大きな喜びが天にあると、イエスご自身も語っておられます。

 自分の人生に何が起ころうとしているのかを知っている人は誰もいません。そして若者の皆さんは、「何が待ち受けているのだろう」と問い続けています。わたしたちは悪いこと、非常に悪い行いをするかもしれません。しかし、決して絶望しないでください。御父はわたしたちをいつも待っていてくださいます。立ち帰りなさい。立ち帰りなさい。これがキーワードです。御父が待っていてくださるのですから、そこに帰ってください。自分が非常に罪深くなったときには、神はさらに盛大に祝ってくださいます。司祭の皆さん、どうか罪びとを優しく受け入れてください。こうしたことを理解することは素晴らしいことです。神はどんなときにもわたしたちを待ち、ゆるしてくださいます。このことを理解することは、わたしに大きな喜びをもたらします。

 わたしは三つの提案を書いていましたが、それらについてはもうお話しました。祈り、ミサ、そして隣人と貧しい人を助けることについてです。

 さて、もう終わりにする時間です。また皆さんにお会いし、日曜日のミサに集まったときに再びお話できるのを楽しみにしています。それでは、今、ここに集える祝福を主に感謝しましょう。そして、アジアと全世界で、主の愛を喜びのうちに忠実にあかしする力を願い求めましょう。

 わたしたちの母であるマリアが、皆さんを見守り、御子イエスにさらに近づけてくださいますように。そして、ワールド・ユース・デーを始めた聖ヨハネ・パウロ二世が、天におられる場所からいつも皆さんを導いてくださいますように。わたしは深い愛情をもって皆さんを祝福します。そして、どうかわたしのために祈るのを忘れないでください。

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